083話 王都に響く祈り
――王都の夜は、まだ冷たかった。
灰色の月光が、瓦礫と血の匂いを照らし出す。
人々の呻き声は、もう叫びにはならない。
ただ、途切れ途切れの息と祈りが、静かな廃墟のあちこちで交わされていた。
かつて王都の象徴だった中央広場には、いまや壊れた噴水と、祈る者たちの姿しかない。
地を這うような瘴気は薄れつつあるものの、完全には消えていなかった。
夜風に混じるそれは、まるで“死そのもの”の吐息のようで、
アレフは胸の奥で、未だ燃え残る無力感を噛みしめていた。
「……アレフ様、第二王女殿下の容体、安定しました!」
若い修道士が駆け込み、報告する声に歓喜が走る。
その場にいた看護師や兵士たちは、束の間、希望の光を取り戻したかのように顔を上げた。
アレフはその場に膝をつき、深く息を吐く。
「……そうか。ありがとう。……よく、耐えてくれたな、王女殿下」
彼がその小さな手を握ると、第二王女の瞳がうっすらと開いた。
青白い唇が震え、掠れた声で言葉を紡ぐ。
「……あの……光……消えたのですか……?」
「まだだ。だが、広がりは止まった。お前が、最初に耐えてくれたからこそ……今がある」
アレフは笑みを作ろうとしたが、うまくいかなかった。
その目の奥には、救いきれなかった命の残滓が、焼き付いて離れない。
医療棟の外では、いまだ多くの者たちが呪毒に蝕まれ、呻いていた。
薬も魔法も効かない。
彼の持つ“暴食”の魔剣でさえ、喰らいきれないほど数。
「……俺ひとりじゃ、到底……救えない」
その呟きは、呪いのように壁に跳ね返る。
そのときだった。
空気が、ふと柔らかく揺れた。
どこかで、懐かしい声がした。
「――アレフ様」
「……え?」
顔を上げた瞬間、医療棟の扉が開く。
その向こうに、純白の修道服をまとった一団が立っていた。
「マザー……!? まさか、ベレティックの修道院から……!」
アレフの目に、涙が浮かんだ。
そこにいたのは、彼が幼少の頃より世話になった修道院の母――マザー・エレーネだった。
彼女は優しい微笑みを浮かべながら、背後に並ぶ数十名のシスターたちを指し示す。
「王都に祈りを捧げに参りました。まだ、癒えると信じておりますから」
その夜、王都中に響いたのは、剣戟でも悲鳴でもなく――聖歌だった。
静寂を裂くように、マザーたちの歌声が空を包む。
その旋律は、まるで夜空に舞う光の糸のように街全体を覆い、
人々の胸に沈殿していた黒い呪毒を、わずかずつだが溶かしていった。
「す……すごい……!」
「傷の痛みが……引いていく……!」
城壁の外で倒れていた兵士が、苦痛の声を漏らす。
彼の皮膚に浮かんでいた呪紋が、ゆっくりと薄れ始めた。
だが、完全には消えない。まるで、悪夢の根が深く残っているかのように。
アレフはマザーのもとに駆け寄った。
「マザー! これは……聖歌の奇跡か!?」
「奇跡などではありません。……祈りが、届いているだけです。
けれど、浄化ではなく抑制。七日が限界でしょう」
「七日……!」
マザーの声に、アレフは歯を噛み締める。
――七日以内に、呪毒の根を断たねばならない。
だが、手段はない。呪毒の原型は“完成品”と呼ばれた傲慢の因子によるもので、
それを完全に祓えるのは、聖女ジャンヌだけ。
だが、彼女がいるのは――遥か彼方、帝国。
馬車を飛ばしても往復一ヶ月はかかる。
「ダメだ……!? 間に合わねえ……!」
アレフが頭を抱えたその時だった。
「……なら、妾が行こう」
その場に響いた声に、誰もが振り返った。
そこに立つのは――竜姫シノ。
いつものように眠たげな目で、飄々と立っている。
「……シノ、何を――」
「妾ならば間に合う。七日どころか、三日で戻ってこられるわ」
そう言うや否や、彼女の体から淡い紫の光が溢れ出す。
それはまるで、空気そのものを焼き切るような竜気だった。
「ま、待て! ここで竜化したら――!」
次の瞬間、轟音とともに医療棟の屋根が吹き飛ぶ。
王都中の人々が空を見上げた。
そこに現れたのは、翼を広げた一頭の魔竜――
黒紫の鱗を纏い、紅の瞳を輝かせる、威厳と美を併せ持つ存在。
「ひ……ひぃっ! 邪竜だァァァァ!!」
「王城を狙ってるぞ、迎撃準備を――!」
兵たちが慌てふためく中、シノは呆れたようにため息をついた。
「ほんに、人間は大げさじゃのう……」
その声は、竜の喉からなのに、しっかりと届く。
だが、混乱は止まらない。
その時、意外な人物が前に進み出た。
「待ちなさい!」
金色の髪を揺らして現れたのは、第二王女――。
まだ床に伏していたはずの彼女が、白衣のまま立っていた。
「その方は敵ではありません! 私が保証いたします。
幼い頃、竜人族の姫シノ・レグナート殿とお会いしたことがあります!」
兵士たちがざわめく。
その証言により、ようやく王城の防衛魔法が解除され、空気が和らぐ。
「……妾のことを覚えておるとはのう。立派になったものじゃ」
シノは小さく微笑み、翼を大きく広げた。
「マザー、乗るがよい。聖女のもとへ案内する」
「……あなたが導いてくれるのですね。ええ、参りましょう。
まだ、救える命があるのですから」
マザーは一礼し、聖書を胸に抱いて竜の背に乗る。
王都の人々が見守る中、シノは空へと舞い上がった。
その巨大な翼が一度羽ばたくたび、夜空の瘴気が吹き払われていく。
彼女の後を追うように、聖歌の残響が風に乗って響いた。
――王都に、初めて“希望”の風が吹いた夜だった。
「さて……行っちゃったな、竜の嬢ちゃん」
アスタロスが肩を竦め、破壊された街を見渡す。
その隣で、ジェームスが瓦礫をどかしながら苦笑した。
「彼女が飛んだのなら心配いりません。問題は、こっちです。街の復興……」
「……アレフお兄ちゃん、あれからずっと患者さんを診てる」
ライカの声には、わずかな寂しさが混じる。
彼らの視線の先――医療棟の外で、アレフは膝をついて患者の手を握っていた。
まだ助けられると信じて。
自分の無力さを、少しでも埋めるために。
その姿を見つめながら、デュラは静かに目を閉じる。
「人の弱さと強さ……その両方が、今の王都を動かしているのだな」
「哲学語ってないで。デュラの旦那も手を動かしてくれ。瓦礫運びは旦那の領分だぜ」
アスタロスの皮肉に、デュラはため息を漏らした。
「……まったく、お前たちといると、地獄より騒がしい」
「いいじゃない、それが“生きてる音”だよ、デュラさん」
ライカの言葉に、誰もが笑った。
ほんのひとときだけ、灰色の王都に、暖かい光が灯った。
夜が明ける。
王都を覆っていた黒い瘴気は、嘘のように薄れていた。
聖歌の残響が、朝の風に溶けていく。
それでも、まだ終わってはいない。
呪詛の根は残っている。
それを王都に持ち込んだ“何者か”を――リシェルが追っている。
アレフは遠く、北の塔の方角を見つめた。
その視線の先には、かすかに黒い影が揺れていた。
「……リシェル。あいつなら、きっと掴むはずだ――この呪いの真実を」
アレフ呟き、再び患者のもとへと戻っていった。
希望と、絶望の狭間で。
次回タイトル:084話 灰の狩人




