069話 傲慢を喰らう者
――それは、まるで世界が静止したかのような一瞬だった。
黒き鎧がアレフの腕の中でどくんと脈動した。まるで、生き物のように。
黒銀の金属が内側から脈を打ち、淡い紅の光が走る。禍々しい気配が辺りを満たし、空気そのものが淀んでいくのを誰もが感じた。
「喰らえ、グラトニーッ!!」
アレフが叫ぶと同時に、背中の魔剣《暴食》が低く唸りを上げた。刀身が裂け、そこから黒い霧が渦を巻きながら噴き出す。
呪力が奔流となって鎧へと喰らいつき、激しい閃光が爆ぜた。
「……ッ!? アレフお兄ちゃんッ!!」
ライカの悲鳴が響く。
グラトニーは、傲慢の鎧の呪いを喰らい始めた。だが、ただの呪いではなかった。
それは七つの大罪の中でも、とりわけ「自己」を侵す性質を持つもの。傲慢――己こそが神に等しいと信じる意志の塊。
喰らうほどに、アレフの中の「欲望」が増幅されていく。
(俺は……最強だ……俺は誰よりも強い……)
黒い瘴気がアレフの体から噴き出し、周囲の大地がひび割れた。
血管が黒く浮かび上がり、右眼に紅の魔紋が刻まれる。
「……アレフ!? おい、アレフっ! しっかりせぬか!」
シノが駆け寄るが、彼女の腕を掴むアレフの手は、人のものとは思えぬほど冷たく、重かった。
「触るな……俺に指図するな……俺が……俺が一番だ……」
その声には、もうアレフらしさは残っていなかった。
彼の脳裏に、次々と映像が流れ込む。
これまで喰らった神器たちの残滓――“強欲の指輪”の支配欲、“色欲の剣”の誘惑、“憤怒の手甲”の怒り。
それらが渦を巻き、アレフという人格を飲み込もうとしていた。
その中心で、低く甘い声が響く。
――抗うな。欲望を解き放て。お前は選ばれし器だ。
「……お前は……誰だ……?」
――“我”は“お前自身”なり。お前の中に眠る、最強への願望の化身。
「違う……俺は……!」
――お前は最強を望む。ならば全てを従わせろ。仲間も、世界も、運命さえも。
アレフの足元から、闇が伸びる。
その闇は鎖のように彼の体を絡め取り、まるで奈落へと引きずり込もうとしていた。
「アレフお兄ちゃん、やめてッ!!」
ライカが叫び、彼の腕を掴む。その瞳には涙が滲んでいた。
しかし、アレフの表情は無表情――いや、むしろ冷酷だった。
「離せ。俺はもう……誰の助けもいらない」
「違う! 僕たちは……仲間でしょ!」
「仲間……?」
その言葉が、わずかに彼の瞳に光を戻す。
ライカの手の温もりが、黒い闇の中でかすかに感じられた。
(仲間……そうだ……俺は……)
脳裏に、これまでの旅路が蘇る。
孤児院での笑顔、街で救った人々の言葉、ライカとシノの笑み、アスタロスの声、ジェームスとデュラの背中。
それらが、アレフを現実へと引き戻していく。
「……俺は……最強になりてぇ。でも、それは……誰かを支配するためじゃねぇ……!」
アレフが、ゆっくりと拳を握る。
「不幸を終わらせて……大切な者たちと笑って生きてぇだけなんだ……!」
その瞬間、暴走していた呪力の奔流が止まり、アレフの周囲に金色の光が迸った。
グラトニーが共鳴し、黒き鎧の呪いを完全に喰らい尽くす。
「俺に力を貸せッ!プライド!」
《いいだろう。我を使いこなしてみせよ》
アレフの脳裏に傲慢の声が響く。
その瞬間。
――ズン、と重い音が響く。
空気が一変し、禍々しい気配は嘘のように消えた。
アレフはその場に崩れ落ち、荒く息を吐いた。
体中が焼けつくように痛い。それでも、意識は確かだった。
「……やった……のか……」
リシェルがゆっくりと近づき、倒れ伏したアレフを見下ろす。
その瞳は、驚愕と――少しの興味を帯びていた。
「合格だ。やるじゃねぇか、少年」
リシェルは微笑み、肩をすくめる。
「正直、私はお前が呪いに呑まれると思ってた。だが……見事だな。呪いを喰って、なお“人間”でいられるとは」
アレフは荒い息の合間に、かすかに笑った。
「……あたりまえだ……俺は……まだ、青春てもんを謳歌してねぇんだ……」
「ははっ! まだそれ言うかよ!」
リシェルが豪快に笑う。
笑いながらも、その瞳には確かな敬意が宿っていた。
「約束通り、今回は見逃してやる」
彼女は腰の剣を鞘に戻し、アレフの前を通り過ぎる。
「だがな、少年。次に会う時、お前が呪いに呑まれていたなら……その時は、私が必ずお前を斬る。いいか、忘れんじゃねぇぞ」
アレフはゆっくりと頷いた。
その表情には、恐れよりも不思議な決意があった。
「……ああ、いいぜ。その時は……俺は今よりずっと強くなってるぜ、リシェル。」
彼女は一瞬だけ足を止め、振り返る。
「名前、覚えてくれてたか。光栄だね、アレフ」
リシェルのマントが風に翻る。
彼女の背中が夕暮れの光に照らされ、遠ざかっていく。
やがて、彼女の姿は森の向こうへと消えた。
静寂の中、アレフは空を仰いだ。
遠い空には、朱に染まった雲が流れていた。
「……はは……まだまだ、強くならねぇとな」
「まったく……無茶ばっかり。……今度また変なことしたら、ほんとに怒るからね」
ライカがアレフの背中に抱きつき、涙ながらに訴える。
「悪ぃ、心配かけたな。」
シノも苦笑しながら、そっとアレフに水筒を渡した。
アレフはそれを受け取り、静かに口をつける。
冷たい水が喉を通り抜け、胸の奥にじんわりと広がった。
(リシェル……Sランク冒険者、灰域の亡剣か。……とんでもねぇ女だ。)
アレフは拳を握りしめた。
(次に会う時、絶対に負けねぇ。)
夕陽が沈み、夜の帳が降りる。
その暗闇の中で、アレフたちは再び立ち上がった。
「さあ、行こう。……ベレティックを救うために。」
「うんっ!」
彼らの背中に、消えかけた陽光が最後の輝きを投げかける。
そして、その光が完全に沈む頃。
灰色の風が静かに吹き抜け、リシェルの笑い声がどこかで響いたような気がした――
次回タイトル:070話 堕ちた街、ベレティック




