053話 勝利の宴
ザーバラの街の周辺の砂漠に広がる陰鬱な瘴気は、もはや跡形もなく消え去っていた。
夜空には星々が輝き、砂丘の向こうにまで届くように月明かりが大地を照らす。
あれほど人々を苦しめ、死者の影で覆いつくしていた死霊たちの群れも、今はもう存在しない。
事件は終わった。
街に平穏が戻ったのだ。
アレフたちが帰還すると、街の中央広場はすでに灯火で飾られていた。
簡素ではあるが人々の手で急ごしらえされた祭壇や飾りつけ、香ばしい匂いを放つ肉の串焼きや酒樽が並び、騎士団も市井の人々も分け隔てなく集っている。
――勝利を祝う宴である。
街を守るために散った者たちへの祈りと、残された者たちの感謝とを込めて、夜は大きなうねりのように広がっていた。
広場の中央に立つアレフは、掌に握りしめた一本の杖を見つめていた。
それは、死霊王が遺した忘れ形見――
いや、彼が“彼女”を守るためにすべてを投げ打ち、最後に遺した悲しみの器。
《嘆きのワンド》
形は細身で華奢、漆黒の樹木を削り出したような質感を持ち、頭部には割れた水晶が嵌め込まれている。
ほんのりと紫がかった光を灯すそれは、美しくもどこか物悲しい。
普通であれば、この杖を持ち続ければ、所有者は徐々に感情や記憶を失っていく。
死霊の声に飲まれ、やがて自我を保てなくなる運命にあった。
だが、アレフは静かにその杖を腰へと下げた。
彼の胸の内に、焦燥や恐怖は一切ない。
――グラトニー。
己の傍らに寄り添う暴食の魔剣が、低い声を脳裏に響かせた。
呪いを喰らい、呪いを力へと変える魔剣。
アレフがこの魔剣の持ち主である限り、《嘆きのワンド》が及ぼすはずの呪詛はすべて喰われ、彼には決して届かない。
「それは、残りの神器を手に入れる上で、必ず貴様の力となるだろう……」
「……そうだな。だが、これは武器というよりも……誰かの願いの残滓だ」
「願い、か。哀れなもんだ。愛の果てが呪いを生み、それを守ろうとした者が命を落とした。……滑稽といえば滑稽だ」
「だが、偽りではなかった。彼の愛も、彼女の苦しみも」
アレフは短く息を吐き、宴の喧騒の向こうへ視線を投げた。
そこには人々の笑顔があった。焼きたてのパンを抱える子供、仲間の肩を叩き合う騎士たち、涙を浮かべながら踊る女たち。
誰もが、この勝利を心から喜んでいる。
その光景を目にし、アレフは小さく呟いた。
「……この杖は、ただの呪具じゃない。彼らが残した証だ」
「アレフ!」
背後から元気な声が響いた。
振り返ると、片手に酒瓶を掲げたシノが走り寄ってくる。
銀の髪が揺れ、いつもの勝ち気な笑顔を見せていた。
「何を一人で黄昏れておる! 街の連中が、お主に乾杯すると言っておるのじゃ!」
「俺に……?」
「当たり前じゃ。お主がいなければ、今こうして酒なぞ飲んでいられんかったじゃろうからの」
シノは半ば強引にアレフの腕を引っ張った。
広場の中央では、すでに大きな火が焚かれている。
ライカとジェームス、その向かいにデュラとアスタロスが並んで座り、焼き串を手にしながら人々と笑い合っていた。
ライカは街の人々が勧めてくる酒や食べきれないほどの差し入れにあたふたしていた。
ジェームスは相変わらず涼しげな眼差しだが、口元に微かな笑みが浮かんでいる。
思念体であるデュラは、酒や食事を楽しむことは出来なかったが、それでもこうして皆と笑い合えることに感慨深いものを感じているようだった。
アスタロスは豪快に笑い声を響かせ、子供たちに些か盛り気味の武勇を披露していた。
「来た来た! 兄貴も飲めよ!」
「……こいつ、もう出来上がってんのかよ」
アレフが呆れ顔でアスタロスを見やる。
「兄貴も来たことだし、もう一度乾杯だ!」
木杯が掲げられ、人々の声が一斉に広がった。
「――英雄アレフに!」
「英雄たちに!」
杯がぶつかり合い、夜空に響く。
アレフは少しだけ顔を伏せ、それでも杯を合わせた。
英雄と呼ばれることには抵抗がある。
だが、ここで拒むのは、彼らの想いを無下にすることと同じだ。
火の粉が舞い上がり、夜はますます熱を帯びていった。
やがて人々が踊りと歌に興じるころ、アレフはひとり火から離れた場所に腰を下ろしていた。
腰に下げた《嘆きのワンド》が、まるで呼吸するように淡い光を放っている。
「……お前の呪いは、俺には届かない。だが、それでも消えるわけじゃない」
杖を手に取り、静かに見つめる。
死霊を呼び出すことのできる力。
それは人々にとっては脅威であり、俺にとっては切り札ともなり得るものだ。
使い方次第で、仲間を守るための大きな力となる。
「俺が持っていよう」
低く呟き、アレフは決意を胸に刻む。
かつて死霊王が背負ったものを、今度は自分が受け継ぐ。
彼のように誰かを苦しませるためではなく、誰かを救うために。
「……アレフ」
ふと、隣に腰を下ろしたのはシノだった。
竜人の姫は焚火に背を向けるようにして座り、静かな声で問いかけた。
「ひとりで抱え込む気かや?」
「……俺にしか扱えない」
「それはそうじゃろうが……忘れるでない。お主は決して、ひとりではない」
シノの言葉に、アレフはわずかに目を細めた。
彼女の声音には、仲間としての確かな信頼が宿っていた。
「……忘れたりなんかしないさ」
「ただ――お主が自身を見失いそうになったら、その時は容赦なく止めるがの」
「ああ…それでいい」
二人は短く言葉を交わし、再び宴の喧騒に目をやった。
アスタロスがおもむろに立ち上がり、ふらふらとオアシスの方へ向かう姿を目にしながら、アレフは夜空に昇る赤い月を背に、《嘆きのワンド》を掲げる。
杖は淡く脈打ち、まるで静かに眠る者の心臓の鼓動のように光を放った。
「……お前の想いは、確かに受け取った」
その囁きは、誰に向けられたものでもない。
だが確かに、死霊王と、最愛の者の魂へと届いていた。
やがてアレフは杖を腰に収め、仲間たちの待つ宴の席へと戻っていった。
そして夜が明けるころ。
宴の名残が街に漂う中、アレフはひとり高台へと歩みを進めていた。
新たな呪具を手にし、呪いを喰らう魔剣を傍らに、彼は次の神器を求めて歩き続ける。
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