034話 呪縛の囁きと黒影の監視者
「アレフお兄ちゃん……?」
ライカが心配そうに声をかける。
その瞳には、彼がほんの一瞬、得体の知れない微笑を浮かべたのを見逃さなかった。
アレフは首を振り、いつもの表情を取り戻す。
「大丈夫だ。ただ、これは軽々しく使える力じゃないってことだけは確かだ」
ジェームスも頷く。
「はい。ですが、いずれこの力を必要とする時が来るかもしれません。その時、アレフ様の精神が試されるでしょう」
アスタロスとデュラも重苦しい沈黙を保ったまま、その言葉を聞いていた。
やがて、遠くの水路から微かな水音と共に、不穏な気配が漂ってくる。
先ほどまでの戦闘の余韻とは異なる、冷たく鋭い殺気。
アレフは剣を握り直した。
「……まだ終わっちゃいないみたいだな」
湿った石壁の向こうで、影が揺れる。
倒したはずのボスの背後に潜んでいた“何か”が、彼らの存在を確かに見据えていた。
じっとりと湿った空気が揺れ、闇の奥から「それ」は現れた。
水路の石壁を爪で削るような耳障りな音が響く。
ライカが小声で呟いた。
「……あれは、魔族?」
やがて闇から姿を現したのは、黒紫の甲冑を纏った長身の男だった。
顔の下半分は仮面で覆われ、その瞳は赤い炎のように光っている。
しかし、その歩みは静かで、ただの襲撃者というより“監視者”のような落ち着きがあった。
「……見ていたのか」
アレフが低く問いかけると、男は笑みとも溜息ともつかぬ声を漏らした。
「フフ……よもや《色欲の守護者》を打ち倒すとは。凡百の冒険者どもとは格が違うな」
ジェームスが一歩前に出て、礼儀正しくも警戒を崩さぬ姿勢で問い返す。
「失礼ながら、お名前を伺っても?」
男は仮面の奥でわずかに目を細め、声を低く響かせた。
「名を求めるか……ならば教えてやろう。我が名は《バルバトス》。魔王軍が《七つの大罪神器》を見張るために遣わされた者よ」
「魔王軍……!」
ライカの顔色が変わる。
バルバトスは腕を組み、崩れた水路を一瞥した。
「我らの手を煩わせることなく、サキュバスを葬ったのは僥倖だ。だが……同時に面倒でもある」
「面倒?」
デュラが剣を抜き、威圧の眼光を送る。
しかしバルバトスは意に介さず、続けた。
「神器を喰らいし騎士、アレフ。貴様はいずれ、呪いに喰われて己を失う。……その時こそが、我らが望む瞬間だ」
アレフの眉がわずかに動いた。
「……俺が呪いに負けるのを待ってるってわけか」
「察しがいいな。だからこそ今は殺さん。むしろ――育てる価値がある」
その不気味な言葉と共に、バルバトスの背後に黒煙が渦巻き、空間を裂く。
退路ではなく、転移の門。
「忠告しておこう。次に相まみえる時、我は試すぞ。お前が己の意志で剣を振るうのか、それとも呪いに呑まれて化け物と成り果てるのかをな」
赤い光の視線が、アレフの胸に収まる色欲のペンダント“ラスト”を射抜いた。
そして――バルバトスの身体は黒煙に呑まれ、跡形もなく消え去った。
沈黙。
水滴が石壁を伝う音だけが、やけに大きく響いていた。
アスタロスが低く唸る。
「……奴、ただの戦士じゃねぇな。あの圧……まるで獣王の群れを前にしたみてぇだ」
ジェームスが小さく頷いた。
「はい。おそらく幹部級……いえ、それ以上の脅威でしょう」
ライカはアレフを見つめた。
「お兄ちゃん、本当に大丈夫? さっきのペンダント……あれを持ってから、お兄ちゃんの目が少し……」
アレフは短く息を吐き、彼女の心配を振り切るように背を向けた。
「大丈夫だ。……今はな」
その声は、わずかに自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
そして彼らは、倒れ伏した冒険者たちを担ぎ、地上への帰路を歩み始めた。
しかし心の奥底では、誰もが先ほどのバルバトスの言葉を反芻していた。
――アレフは、呪いに呑まれるのか。
それとも、己の意志を貫き通すのか。
答えの見えぬ問いを胸に抱いたまま、彼らは次なる戦いの舞台へと歩を進めるのだった。
***
ウォーラルの街の夜。
湿った地下水路から解放されると、月明かりと人々のざわめきが、まるで別世界のように温かかった。
アレフたちは操られていた冒険者を担ぎ、冒険者ギルドへと戻ってきた。
木造の大きな扉を押し開けると、ざわめいていた酒場が一斉に静まり返る。
「……あいつら、生きてるぞ!」
誰かの声が上がり、空気が一気に弾けた。
担ぎ込まれた冒険者たちを見て、仲間や仲買人が駆け寄り、涙を流す者もいる。
ギルドマスターの初老の男が深く息を吐き、アレフたちに歩み寄った。
「よくぞ……よくぞ無事に。ダンジョンはどうなった?」
アレフは肩を竦め、淡々と告げる。
「ボスは倒した。もう地下で操られる心配はない。だが……ダンジョンそのものは消えちゃいねぇ」
「……なるほど」
マスターは渋い顔をするも、やがて表情を整え、深く頭を下げた。
「すまない。本当に、感謝する」
その場の空気は拍手と歓声に包まれる。
しかし、当のアレフは人々の祝福を背に受けながらも、視線を逸らした。
――ペンダントが、胸元で不気味に脈動している。
「……」
ライカはそんな彼を見逃さなかった。
だが今は何も言わず、静かに隣に立つにとどめる。
ギルドからは報酬と感謝が示され、酒や食事を振る舞おうとする者も多かった。
だがアレフは早々に席を立ち、仲間たちと共に宿へ戻った。
「今夜は休め。明日からまた動く」
アレフはそう言ったが、仲間の誰もが彼の顔色の悪さに気付いていた。
深夜――宿の一室。
仲間たちはそれぞれ眠りについていたが、アレフだけは寝台の上で苦しげに身をよじっていた。
胸元の“色欲のペンダント《ラスト》”が不気味な光を放ち、熱を帯びるように肌へ食い込んでいく。
「……っ……!」
やがて意識は深い闇に引きずり込まれ、アレフは夢を見た。
そこは人間界でありながら、人ではない存在が闊歩する古の時代。
天空からは光が降り注ぎ、神々が地上に顕現していた。
だが、その光を濁すように、巨大な影が立ち現れる。
影はやがて人の形を取り、漆黒の瞳を輝かせる。
『……我が名はハデス。人間の欲望より生まれし、真なる神なり……!』
その声は天地を震わせ、地上を覆うほどの威圧を放った。
彼は人間を屍とし、死の国を築かんと歩み始める。
しかし、雷を纏った神、剣を掲げた神、癒しを司る神々が一斉に立ちはだかる。
戦いは苛烈を極め、ついにハデスの身体は七つに裂かれた。
神々は彼の魂を「七つの大罪」とし、それぞれに相反する「七元徳の神器」に分けて縛りつけた。
だが、その呪力はあまりにも強大で、神器そのものが呪いに侵され、やがて災厄を撒く存在となっていった――。
アレフは荒い息を吐いた。
胸元ではなおペンダントが脈打ち、囁きが耳を侵食する。
――お前は我らを手にした。抗うな……欲望を解き放て。
――抗うな……お前には力がある。
「……黙れ……っ!」
必死に抗うも、意識が引き裂かれる。
ラストの力が、暴食と憤怒に共鳴し、アレフの精神を侵食していく。
その時。
「ラスト……勝手なことはしないでよね」
朗らかな少年の声が、夢の中に響いた。
振り返ると、そこには人懐っこい笑顔を浮かべる少年――ベータの姿があった。
「……お前は……」
ラストの囁きが一瞬だけ震える。
ベータは無邪気に笑いながら、しかし冷徹な眼差しを宿した瞳でペンダントを見下ろす。
「僕の計画の邪魔をするようなら、たとえ君でも赦さないよ?」
一瞬で支配の空気が覆う。
ラストは怯えたように沈黙し、アレフを縛っていた呪縛を解き放った。
「……はっ……!」
アレフは跳ね起きた。額には冷たい汗。胸元のペンダントは静まり返っている。
夢の内容は覚えていない。
ただ――決していい夢ではなかったことだけは、身体の奥に焼き付いていた。
窓から差し込む月明かりの下、アレフはしばらく呼吸を整えた。
仲間たちは安らかに眠っている。
「……俺は……」
掠れた声を吐き出し、彼は己の拳を握り締めた。
ラストの囁きは止んだが、それはベータという存在が背後にいることを示していた。
「……クソッ……また厄介なもんを……」
そう呟きながらも、アレフは胸騒ぎを押し込めるように、無理やり目を閉じた。
――やがて訪れる次の戦いを前に。
次回タイトル:035話 砂漠への旅立ち ― ザーバラの護衛依頼




