032話 色欲の祭壇 前編ー― 魅了の罠と裏切りの刃
湿った空気と、甘い香りが漂っていた。
地下水路の最奥、広大な祭壇の間――そこには人の気配が確かに存在していた。
アレフは剣を握り直し、視線を巡らせる。
壁に滴る水滴がやけに艶めかしく光り、灯火の炎が影を揺らす。
空気そのものがどこか妖しく、熱を帯びているように感じられた。
「このいや~な雰囲気……間違いなくボスだな」
アスタロスが戦斧を担ぎ、肩を鳴らす。
デュラは無言で首を腕に抱えたまま、鋭い眼光を周囲に走らせた。
「瘴気の濃さが異常だ。」
そのとき。
祭壇の中央に据えられた宝珠――“色欲のペンダント”が、どくん、と心臓のように脈打った。
淡い桃色の光が弾け、空間に霧のような幻惑が広がっていく。
「……ようこそ、愛しい子羊たち」
声と同時に、人影がゆらりと現れた。
アレフの目には、完璧な肢体を持つ美女――サキュバスが映る。
血色のいい唇、妖艶な瞳、滑らかな曲線を描く肢体。思わず心を奪われそうなほどの存在感だった。
一方、ライカやシノの目には、しなやかな筋肉と端正な顔立ちを備えた美丈夫――インキュバスが見えていた。
「っ……!」
ライカが頬を赤らめ、思わず視線を逸らす。
シノは震える声で呟いた。
「……かっこ……いや、何でもない」
アレフはその反応を見て舌打ちし、肩をすくめる。
「なるほどな。男には女、女には男の姿ってわけか」
「くだらねぇ幻惑だぜ」
精神は男、身体は女のアスタロスには、人影の姿がモザイクがかかったように見えていた。
「俺には効かん。人間の雌にも雄にも興味はない」
デュラは冷めた声音で言い放った。
「首無しに色香など通じぬ。……ただ、この臭気は不快だ」
その一言にサキュバス(インキュバス)がぴくりと眉を動かし、次いで妖艶な笑みを浮かべる。
「どれだけ抗おうとも……心はすぐにほどけるもの。欲望を否定できる者はいないのよ」
その時、祭壇の影から数名の冒険者たちがふらりと現れた。
鎧を身に着け、武器を握りしめてはいるが、その目は虚ろ。
紅い光が瞳の奥に灯り、人形のようにぎこちない足取りで前に出てきた。
「……先客がいたかよ。ここにたどり着いたはいいが、みんな操られちまったわけか……」
アレフが低く呟く。
「人間どもを兵に仕立てるとは……性悪なことだ」
アスタロスは戦斧を担ぎ、殺気を込める。
そのとき。
「……お兄ちゃん、邪魔しないで」
「妾は……妾はご主人様のために!」
ライカとシノが、それぞれ魔導書グリモワールと竜爪を構え、アレフにじり寄る。
「な――」
アレフが息を呑む。
さらに、ジェームスが片膝をつき、眼鏡の奥から紅い光を放つ瞳で見上げた。
「アレフ様……申し訳ありません。しかし私は“新たな主”に仕えると決めました」
「ジェームス、お前までかよ!?」
アレフは思わず叫び、額を押さえる。
「おい、ライカ!シノ!目ぇ覚ませ! お前ら、こいつの色気なんかに……」
「……何言ってるの?お兄ちゃん。僕はもう、あの方のもの」
ライカの声音は甘美に濡れていた。
「アレフなんてどうでもいい……」
シノの瞳も紅に染まり、竜の尾を揺らす。
サキュバス(インキュバス)は艶然と髪をかき上げ、くすくすと笑った。
「ふふ……人の心は脆い。ほんのひとひらの欲望で、すぐに私のものになる」
「残るは――三人だけ」
その視線が、アレフ、アスタロス、デュラに向けられる。
「……効かぬ?」
一瞬、サキュバス(インキュバス)の瞳に驚きが浮かんだ。
だがすぐに、不敵な笑みを取り戻す。
「いいわ。ならば数で押し潰すまで。
――愛しい人形たち、お行きなさい」
魅了された冒険者たち、そしてシノ、ライカ、ジェームスが一斉に武器を構え、じりじりと迫ってくる。
金属の擦れる音、竜爪が床を削る音、緊張感が場を支配した。
「おいおい……これって詰んでねぇか?」
アレフは額に汗を浮かべながら、グラトニーを構える。
「数なんて関係ねぇ!突撃あるのみだぜ!」
アスタロスは豪快に笑い、戦斧を床に叩きつけた。
「フン……人間どもの数など知れたこと」
デュラは首を抱え直し、眼光を鋭く光らせる。
アレフはグラトニーを構え、低く息を吐いた。
「……やっぱりこうなるか」
祭壇の間に、殺気が爆ぜた。
ライカが詠唱を始め、紅い魔法陣が浮かぶ。
「燃え上がれ、紅蓮の焔!」
轟と複数の火球が生まれ、アレフたちへと撃ち込まれた。
「ちっ……!」
アレフは剣に黒炎を纏わせ、爆炎を切り裂くように振るった。
互いの炎がぶつかり相殺し合うも、周囲に容赦なく熱気を撒き散らした。
「ぬるい火だなァ!」
アスタロスが戦斧を大上段から振り下ろし、火球を斧の風圧で吹き飛ばした。
直後、シノが飛び込む。
竜爪が閃き、鋭い風切り音を響かせてアレフを狙う。
「アレフっ、容赦などせぬぞ!」
「おい待て、目ぇ覚ませシノ!」
アレフは後退しつつ剣で爪を受け止めるが、シノの力は容赦がなかった。
金属が軋み、彼の腕に衝撃が走る。
「くそっ……力加減できねぇ……!」
アレフは歯を食いしばり、防戦に徹した。
冒険者たちが殺到する瞬間、デュラが動いた。
首を頭上に放り、宙から冒険者たちを見据える。
「――跪け……威圧の眼光!」
その眼光が輝き、冒険者たちの動きが一瞬止まった。
鎧を着たまま膝を折る者、剣を落とす者。
生き物の本能が“死”を察知し、体が動かなくなったのだ。
「効いてる……今のうちに!」
アレフが駆け出し、昏倒した冒険者の武器を蹴り飛ばす。
「甘い」
その瞬間、横合いから影が滑り込んだ。
ジェームスだ。
「アレフ様、申し訳ありませんが……!鋭切ーレフト・ミート・ナイフ!!」
主菜のナイフが鋭く伸びる。
アレフは咄嗟に剣で受け止めるが、衝撃が腕を突き抜けた。
さらにアスタロスが斧を振るうが――
「鉄壁ーーパーフェクト・レシーブ!」
ジェームスが身を翻し、銀のトレイで斧の一撃を受け流した。
「な……!? 執事のクセに、どんだけ身軽なんだよ!」
アスタロスが驚愕の声を上げる。
ジェームスは冷ややかに眼鏡を押し上げる。
「執事たるもの、主を守るためならばどんな技も修めます」
アレフたちは息を合わせ、感覚共有でお互いの死角をカバーする。
アレフが剣で火球を払い、アスタロスが斧で槍を弾き、デュラが背後から襲う短剣を蹴り飛ばす。
しかし――敵は多すぎた。
ライカの魔法が絶え間なく飛び、シノの爪が休むことなく襲いかかる。
ジェームスは三人の攻撃を捌き、威圧が解けた冒険者たちが数の圧をかけてくる。
「兄貴! 防戦一方じゃ勝ち目はねぇぞ!」
アスタロスが怒鳴る。
「わかってる……!」
アレフは歯を食いしばる。
(だが、操られてるだけの奴らを斬るわけにはいかない……!)
サキュバス(インキュバス)は余裕の笑みを浮かべ、玉座のような石に腰を下ろす。
「どうしたの? もう終わり?
所詮あなたたちも、色欲の力の前ではそんなものよ」
甘やかな声が耳をくすぐり、空気がさらに濃くなる。
彼女の勝利を疑う者はいない――そう言わんばかりだった。
アレフは額から汗を流しつつ、仲間の動きを必死に受け止める。
ライカの火球が爆ぜ、シノの爪が唸り、ジェームスのナイフが迫る。
そのすべてを捌きながら、アレフは静かに時を待った。
サキュバスの表情に“慢心”の色が滲む。
勝利を確信し、舞台の幕引きを楽しむ観客のように。
しかし――そこにこそ、アレフの狙いがあった。
次回タイトル:033話 色欲の祭壇 後編ー― 暴かれた幻惑




