113話 嫉妬の鏡界 後編
アレフは魔剣を握り直した。
「……次が、本番か」
「うん。……でも、あの中にまだ“わたし”がいる気がする」
「“わたし”……?」
それは――鏡の世界で偽ライカが使っていた一人称だ。
魔導神書がゆっくりと開き、黒髪の魔女が姿を現す。
ページが自動でめくれ、淡く発光した。
精神を共有している魔導神書とオート・マタのグリモワールは、離れていても、こうして精神体として姿を現すことができる。
「……この鏡。“嫉妬”の感情が人の姿を模して生まれた魔装具――《エンヴィ・ミラー》。
本来は、他者の才能を映して奪う呪具。けど長い年月を経て、自我を持ち始めている」
グリモワールの声が、深く響く。
ライカはその言葉に息を呑む。
「じゃあ、さっきの“アレフお兄ちゃん”も……?」
「ええ。おそらく、あなたの“羨望”が生み出したもの。――自分では届かないと知りながら、それでも傍にいたいと願った“あなた自身”の影よ」
ライカの瞳が揺れた。
小さな肩が、わずかに震える。
「……そんなの、認めたくない」
アレフが振り返る。
その瞳は、驚くほど穏やかだった。
「認めなくてもいい。けど、それは“おまえの痛み”だ。俺は、それごと――受け止める」
その言葉に、ライカの胸が熱くなる。
だが、次の瞬間。
鏡の表面が波打ち、アレフの姿を映し始めた。
鏡の中のアレフが、にやりと笑う。
「受け止める? 誰のことも救えなかったおまえが?」
空気が歪む。
呪いの波が弾け、鏡の周囲に無数の影が現れた。
彼らは過去の幻影――倒れた敵、救えなかった人々、そして……アルジェの姿さえも。
「……やめろ」
アレフが低く呟く。
「やめてほしいのか? なら――認めろ。おまえは誰かを羨んでいる。強く、清らかで、愛される“英雄”に。 おまえの暴食は、力を喰らっても心を満たせない!」
アレフの足元が崩れる。
鏡が割れ、底のない闇が口を開ける。
「お兄ちゃん!!」
ライカが叫ぶ。だが、彼はその声に振り返らず、
ただ一言だけ残した。
「――喰らうさ。 “嫉妬”ごと、全部な」
黒炎が爆ぜた。
アレフの体から暴食の呪紋が浮かび上がる。
《グラトニー》が禍々しく咆哮を上げ、刃が黒く染まる。
喰尽ノ黒宴(ヘル=バンケット)――
地面が牙と化し、鏡の世界そのものを飲み込み始めた。
無数の“影”が叫び声を上げ、次々と黒炎に喰われていく。
ライカはその光景を涙ぐみながら見つめる。
アレフの瞳の奥には、怒りでも恐怖でもない――
ただ、“決意”だけが宿っていた。
やがて黒炎が収まり、静寂が戻る。
鏡の中心に、ひとつの光が残っていた。
グリモワールがそれを見て、小さく頷く。
「……嫉妬は喰われたわ。残るは、鏡そのものの“守護者”のみよ」
「ようやく、核心か」
アレフは魔剣を肩に担ぎ、息を整える。
「ええ。塔の守護者《虚栄王アザゼル》よりも、苦労する相手かもしれないわね」
その時だった。
空中庭園の空が裂け、鏡の破片が宙を舞う。
その中から――ゆっくりと一人の女が姿を現した。
蒼白の肌。
翠の瞳。
そして背には、幾百もの“鏡の欠片”が羽のように生えている。
「我が名は、嫉妬の鏡の守護者。愚かなる者どもよ――その“絆”を、見せてみなさい」
空間が歪む。
足元の大理石が鏡に変わり、全員の姿が無数に映し出される。
鏡の中のアレフが、ライカの喉元に剣を突きつけた。
同時に、現実のアレフの手にも、同じ感触が伝わる。
「……なんだ、これは……!」
エンヴィが微笑む。
「互いを信じるほど、傷つけ合う。それが――“嫉妬”の試練」
翠光が爆ぜ、世界が反転した。
光も音も歪む、鏡の牢獄。
上下も境もなく、ただ無数の“自分たち”が映し合う虚無の世界。
アレフが剣を構えるたび、鏡像のアレフも同じ動きを取る。
だが、刃が交わる瞬間、わずかな遅延が生じた。
――そこだ。
アレフは一気に踏み込み、鏡像の刃を弾き飛ばす。
だが斬り伏せた瞬間、別の“アレフ”が生まれ、ライカに襲いかかる。
ライカが咄嗟に魔力障壁を展開。
だがその鏡像は、彼女自身の姿をしていた。
「やめて……! ぼくに、そんな顔で向かってこないで!」
鏡のライカが微笑む。
「あなたはいつも誰かの後ろに隠れてる。本当はアレフに守られることが嬉しいくせに――」
ライカの胸に、鋭い痛みが走る。
それは攻撃ではない。
“言葉”そのものが、呪いとして刻まれていく。
「……違う。ぼくは――!」
叫びと共に魔法陣が浮かぶ。
杖先から光が奔り、鏡像を撃ち抜いた。
砕け散る破片の中で、ライカは膝をつき、震える唇で呟く。
「違う……けど、少しは羨ましかったのかも」
その告白と同時に、周囲の鏡が一枚、音を立てて割れた。
――“嫉妬”は、認めた者から解けていく。
グリモワールの声が響く。
「そう、それでいいのよ。この空間は心の鏡。己を否定するほど、影は強くなる」
「俺たちは“選んできた”。その結果がここにある。――影は、選ばなかった方の未来だ」
そう言って、アレフは真っ向から自分の影に突っ込んだ。
刃と刃がぶつかり、火花が散る。
鏡像のアレフは、声を荒げた。
「おまえには嫉妬がある!英雄に、神に、運命に――全部に!」
「……ああ、あるさ」
アレフはあっさりと頷いた。
「けどな、それも“俺の一部”だ。――なら、喰って取り戻すまでだろ」
暴食の魔剣が再び燃え上がる。
《グラトニー》が黒炎を纏い、鏡像ごと空間を喰い破る。
轟音と共に世界が崩壊し、無数の破片が宙に舞った。
その中央に、静かに立つ影――
嫉妬の守護者。
先ほどまでの艶やかな笑みは消え、
その瞳には、どこか“悲しみ”が滲んでいた。
「……見事ね。あなたたちは“嫉妬”を喰らい、なお己を失わなかった。だが、理解している? 嫉妬は滅びぬわ」
「滅びなくていい」
アレフが静かに答える。
「誰かを羨む気持ちがあるから、人は進む。――それを呪いに変えるか、力に変えるかは、自分次第だ」
エンヴィの唇がかすかに震える。
そして――微笑んだ。
「ならば、あなたに託しましょう。この“嫉妬の鏡”を。
それは、心の闇を映す鏡……同時に、真実を見抜く眼でもある」
彼女が差し出した光球が、アレフの掌に吸い込まれる。
次の瞬間、彼の“暴食”の魔剣グラトニーが微かに共鳴し、刃の奥に“嫉妬の鏡”が刻まれた。
ライカが目を見張る。
「……これって、嫉妬の神器?」
「ああ――そして、それは“理解”だ」
アレフが呟く。
「嫉妬を否定せず、受け入れた証。 次に進むための、ひとつの鍵だ」
エンヴィは満足げに目を閉じた。
鏡の羽が崩れ、光となって消えていく。
最後に残った声が、風のように響いた。
「人よ、嫉妬を恐れるな。それは、心がまだ“誰かを愛している”証だから……」
光が収束し、空中庭園の中心に静寂が戻る。
崩壊していた大理石の回廊が修復され、奥には離れ離れになった仲間たちがいた。
「みんな……!? 無事でよかった……」
安堵した途端、ライカの目から涙が溢れ出る。
「おぬしも無事でなによりじゃ」
シノはライカをそっと抱き寄せた。
「へっ……どうやら、そっちも終わったみてぇだな」
アスタロスが鼻を鳴らす。
「終わった……のですね?」
ルーミエルが優しく微笑んだ。
「ああ」
アレフが振り返り、仲間たちに微笑みを向ける。
その瞳には、かつてよりも深い“緑の光”が宿っていた。
――その色は、嫉妬ではなく、希望。
光が扉を包み込み、次なる困難の風が流れ込む。
空中庭園の試練は終わり、
だが彼らの挑戦は、なお――続いていく。
次回タイトル:114話 帰還ーーそして収穫祭の鐘が鳴る




