107話 虚栄王アザゼル(前編)
無数の階層を踏破し続けて、どれほどの時が経っただろうか。
バベルの塔の空気は、もはや“外界”とは別物だった。
地上の理が通じない――時間の流れさえ曖昧な、終わりなき迷宮。
アレフは静かに息を吐いた。
全身を覆う《傲慢の鎧》の表面には、いくつもの裂傷が走り、
黒炎を宿す《憤怒の手甲》の魔紋は淡く脈動している。
「……これで九十九階層、か。」
呟きながら、彼は背後に視線をやった。
仲間たちは疲労の色を隠せないものの、その眼光には確かな決意が宿っていた。
ジェームスが銀のトレイを杖代わりに立ち上がる。
「まるで、無限階段を上り続ける地獄ですな……しかし、アレフ様のお顔を見れば、まだ余裕があると見える」
「余裕なんか、ないさ」
アレフは微かに笑い、魔剣グラトニーを背負い直す。
「だが……ここまで来たんだ。もう、引き返す理由もない」
周囲には、すでに“生”の気配はなかった。
塔の壁はひび割れ、そこから漏れ出す黒い霧が、過去に討ち果たした“呪いの残滓”であることを誰もが理解していた。
ライカが両腕で魔導神書を抱きしめ、呟く。
「……この塔そのものが、呪いでできてるみたい」
「いい観察だわ、さすが我が主ね」
低く艶めく声で答えたのは、オート・マタのグリモワールだった。
黒曜の髪が揺れ、瞳の奥で魔力の数式が瞬く。
「塔の基礎には“虚無の紋”が刻まれているわ。古代に造られた“神を封ずる檻”……」
この塔が、ただの遺跡ではないことを、誰もが理解していた。
「ま、難しい話はここまでにしておきましょう」
ジェームスが軽くトレイを回し、紅茶の香気を散らす。
「この香りで、少しは気も紛れますぞ。“ロイヤル・ティーブレイク”!」
霧のような香りが広がり、仲間たちの心に一瞬の安らぎが訪れた。
それは戦士たちが失わぬようにしている“人間らしさ”の名残だった。
やがて、塔の通路はひときわ広い螺旋を描き、
その果てに――漆黒の扉が、天へと伸びていた。
黒曜石で造られた巨門。
天井まで届く高さは、おそらく三十メートルを超えている。
その中央に浮かび上がるのは、見覚えのある紋章だった。
「……これって」
ライカが息をのむ。
グリモワールが静かに頷いた。
「そう。“七つの呪い”を象徴する封印紋よ」
門の表面には、既に“暴食”“憤怒”“色欲”“強欲”“傲慢”の五つが赤く光り、
残る二つ――“嫉妬”と“怠惰”の紋が淡く揺らいでいる。
「この門は、浮遊大陸に繋がる入り口であると同時に、魔界へと通じる入り口でもあるの」
「魔界!?」
一同が驚きの表情を浮かべる中、グリモワールはさらに言葉を続ける。
「そして、150年前、暴食のダンジョンから神器を持ち出した”災厄の魔女“が姿を眩ました場所が魔界よ」
彼女の言葉にアレフは沈黙し、やがて堰をきったように笑いだした。
「ははは……っ! どうりで、いくらやつの情報を集めても足取りさえ掴めなかったわけだ。まさか、魔界に逃れていたとはな……」
アレフはひたすら苦笑いするばかりだった。
「つまり、七つの大罪シリーズを全て揃えて再びこの門の前に立った時、魔界への扉が開くってわけか..…」
「ええ、その通りよ。でも、今はまだその時ではないわ」
グリモワールが静かに答える。
「ああ、わかってる。まずはここを突破して、嫉妬のダンジョンに向かう」
アレフがそう決意した時ーー
とつぜん塔全体が低く唸り、床の紋章が浮き上がった。
「だが、どうやってこの門を開ける?」
デュラの声が響く。
首を小脇に抱えたまま、黒馬を操る彼の姿は幽玄そのものだった。
「この門は、“魂”を代償に開く呪い。開ける必要は……あなたの持つ呪いが果たしてくれる」
アレフは頷き、魔剣を構えた。
「暴食の魔剣グラトニー――喰らえ」
次の瞬間、魔剣の刃が紅く光り、
門に刻まれた“嫉妬”と“怠惰”の紋章が、まるで吸い込まれるように消えていく。
跡に残るのは、赤黒い呪文文字。
それは塔の支配者の名――
《虚栄王》
轟音が塔全体を震わせた。
重々しい金属音が鳴り響き、扉が、ゆっくりと、外界の理を歪めながら開いていく。
冷たい風が吹き抜けた。
霧のように細い光が、天へと伸びる。
「行くぞ。」
アレフが短く告げると、
仲間たちはそれぞれの武器を握り、最後の階層へと足を踏み入れた。
扉の向こう――そこは、
光も、重力も、音すらも、崩壊した“虚空の王座”だった。
天井を見上げても果てがない。
空気そのものが硝子のように歪み、無限の鏡像が空間に重なっていた。
一行――アレフ、ジェームス、ライカ、シノ、アスタロス、デュラ、そしてグリモワール。
七人は、最上階へと至る螺旋の道を登り切り、静まり返った宮殿の前に立っていた。
「……静かすぎるな」
デュラの低い声が響く。手にした首が微かに唸りを上げた。
「ここが“虚空の玉座”……神の模造が座す場所ね」
グリモワールの黒い瞳が、天蓋の上に浮かぶ光輪のような幻影を見据えた。
床は鏡のように輝く金属でできており、彼らの影はすべて反転している。
まるで“下”にもう一つの世界があるようだった。
「……これまでの階層の守護者たちとは違う気配です」
ライカが呟く。
空気の震えを感じ取ったのだろう。小さな手に光が宿る。
「フッ……やっとクライマックス、ですか」
ジェームスがネクタイを直す。
その笑みには恐れよりも、主への信頼が滲んでいた。
アレフは無言で頷き、黒剣を握り直した。
「この先に――“虚栄”の王がいる。奴を倒せば……塔は終わる」
歩みを進めた瞬間、周囲の空間がねじれた。
一瞬で視界が反転し、天と地が入れ替わる。
足元の“鏡”が砕け、黒い液体のような闇が吹き上がった。
「っ……!? 空間が、溶けてる!?」
ライカが叫ぶ。
それは魔力の暴走ではない――意志を持った“虚無”の侵食だった。
「来るぞ……!」
アレフが構えを取る。
そして――
鏡の底から、ゆっくりと現れたのは“人”の形をした存在だった。
白銀の鎧を纏い、背中には六枚の黒翼。
顔は黄金の仮面で覆われ、無数の瞳がその全身から覗いている。
「――愚かなる子らよ。神の座を求めてここまで来たか」
声は、複数の存在が同時に話しているかのように反響した。
男のようであり、女のようでもある。
虚栄王アザゼル――神に最も近き堕天の君。
「神? 笑わせるな。俺たちはただ……この塔の呪いを断ち切るだけだ。」
アレフの言葉に、アザゼルは嘲笑した。
「断ち切る? 愚かだな。貴様らの行為こそ、“神”を模倣する行為――創造の冒涜に他ならぬ」
瞬間、六枚の翼が開き、空間が眩い光に包まれた。
「パーフェクト・レシーブ!」
ジェームスが反射的に銀のトレイで光を受け止めるが――衝撃波で吹き飛ばされる。
「ぐっ……これは、神罰の光!?」
「違うわ! “虚無”を光に偽装している……! 本質は、喰らう闇よ!」
グリモワールが叫ぶ。
彼女の魔導機構が警鐘を鳴らしていた。
アレフが前に出る。
「喰らう闇、か……なら、喰えばいい」
黒剣が唸りを上げた。
暴食の魔剣が呪力を喰らい、闇を“炎”へと変換してゆく。
「黒焔斬――!」
黒炎が地を裂き、アザゼルに襲いかかる。
しかし、王は動かない。炎が到達した瞬間、それは霧散した。
「美しい。己の呪いを喰らうとは……まさに、虚栄の極みだ」
アザゼルが片手を上げる。
空中に光の輪が浮かび、そこから十数体の“鏡像兵”が現れた。
全員がアレフたちと瓜二つの姿をしていた。
「……自分たちの姿を敵にする趣向とは、悪趣味なものですね」
ジェームスが冷ややかに呟く。
「気を抜くな。あれは記憶を写した模造体だ」
デュラの眼が光を放つ。
「奴らには俺たちの癖も戦い方も……全部、筒抜けだ」
「つまり――真正面からぶつかるしかないってことじゃな」
シノの声が低く響き、蒼炎が爪に宿る。
「竜気、全開――!」
蒼い閃光が爆ぜ、戦いの幕が切って落とされた。
次回タイトル:108話 虚栄王アザゼル(後編)




