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本音をひた隠し甘い言葉で囁くが、陛下と同じ瞳の色をした青年の冷たい視線が注がれる。
「つまり、私にソフィエルを得るために、マリエッテが主導している物流経路の整備と、貿易省が主導している街道整備計画を捨てろというのか。あまりにも釣り合いが取れないと思わないか」
真の価値を知らない若造が、と内心毒づいてしまった。
かのダリバン侯爵の娘が何かと事業の中に名を連ねているらしいが、そんなものは名貸しに決まっている。こういうものは、最終的に残った名が正しいとされるものなのだ。
「“ダリバン侯”が降りれば、不安に思っていた家も私の号令で協力するでしょう。ダリバン嬢がまとめていたというのは、実はソフィエルの手柄だったと聞き及んでいます。万事、滞りなく」
「さすがグレイヴリス公爵だな」
物を知らない幼子に言い聞かせるように、グレイヴリス公爵はゆっくりと言葉を重ねた。それに頷き返すリュヒテの表情は凪いでいた。
馬鹿にされていることにも気付かないほど愚鈍なのかと、鼻白んだのも束の間。
「では、もし間違いだった場合は代わりに首を差し出すといい」
淡々とした声は先ほどとなんら変わらない。冗談や脅し文句ではない様子に、聞き間違いかと思い固い笑顔を向けるが、あの凪いだ瞳がこちらを見返すばかりだった。
ははは、と空笑いをしてみるが、思わしい反応はない。
つい先ほどまで格下だと思っていた青年が、なんだか不気味に見えてしまうのは気のせいか。
「……白も、黒となりましょう」
「覆らないと」
「はい」
「だが、まだまだ私は経験不足で心配なんだ。保険がほしい」
そんな殊勝なことをいう青年の眼を見ていると、自然と喉が乾いた。
「もし万が一もないだろうが、失敗した場合のグレイヴリス公爵家はどうなる。貴殿は後継者を決めていないだろう」
「ええ、私は娘にしか恵まれませんでしたが、王家に輿入れとなれば……」
弟の息子の片方を養子にすることで話は決まっていた。もう駒は進んでいるのだという言葉を、あの視線一つで止められた。
「──そうだ、貴殿には娘が二人いる。長子のエブリン嬢は、王太子妃教育を受けていた経歴があるじゃないか。王家にとっても御しやすい。息女ではあるが、後継ぎになれなくはない。こちらから良い縁を持っていこう」
いい条件だろう? と、グレイヴリス公爵が描いた完璧な配置の駒を弾き飛ばした。
「……お言葉ですが、それは越権行為では」
王家が一貴族家の跡継ぎ問題に口を挟むなぞ、越権行為である。
ましてや娘が家を継ぐだなんて、グレイヴリス公爵は到底受け入れられない。一応、我がエールデン国では女性でも爵位を継ぐことを認められているが、実情は娘婿が実権を握ることになる。
その娘婿を王家が決めるだなんて、家の乗っ取りもいいところだ。
だというのに、またリュヒテはあの眼を向けてきた。
底の見えない、あの冷たい眼を。
「白も、黒に。だろう?」
駒は進んでいる。もう引けないのだと、そう言われている。
ごくり、と喉が鳴ってしまった。
「……ハハハ。これはこれは。爺の悪い癖ですな、殿下に引けを取られてはかないません。ここは覚悟をみせるときでしょう」
言質をとられないように、のらりくらりとしたいつもの文言で逃げを打とうとした次の瞬間には逃げ道を塞がれる。
「ここで、一筆書け」
差し出された書類は、後継者を指名する際の申請書だった。しかも、たった今、提案を受けた内容が記載され、あとは己のサインをするだけのものが。
グレイヴリス公爵の握る杖が軋む音が微かに、部屋の空気を揺らした。
「もちろん、喜んで書きましょう。ですが、困りました。こういった書類には紋章印が必要なのですよ。なので、後ほど整えてから……」
努めてゆっくりと、にこやかに教えてやる。この若造は書類仕事の基礎すらまともに知らんらしい。
だが、それはグレイヴリス公爵にとっては良いことだった。
何も知らない傲慢な若者の方が扱いやすいから。この話だってそうだ。勢いづいているだけで、こんな若造の言うまま了承するわけがない。後で粗でも見つけたと言って恩を着せて書き換えてしまえばいい。
何も知らない幼子に言って聞かせるような声色で、グレイヴリス公爵は書類に手をかけた。
だが、その手は空を切る。
「──問題ない。グレイヴリス公爵家の紋章印はここにある」
「は、」
カタリと扉が開き、一人の女性が入室した。老人は亡霊でも見たかのように、視線だけで女性の影を追いかけた。
「彼女が持ってきた。公の脱税の証拠とあわせてな」
エブリン──グレイヴリス公爵の娘──は、感情の見えない目で父親だった老人の顔をちらりと見ると、数冊の帳簿をリュヒテの方へ差し出した。
その手の中にあるのは、公爵邸の当主しか知らない隠し庫の中に保管しているはずの帳簿だった。まさに脱税行為の記録である。もしこれが露見したら、これまで手にした財も家も地位も。今のままではいられないだろう。
グレイヴリス公爵は咄嗟に杖を振り上げたものの、カクンと膝から力が抜けてしまう。若い頃に痛めた膝は、歳と共に弱くなった。力が入らなくなったのはもう何年前からか。その不自由さにも怒りが増す。
「返すんだ、このッ!」
代わりに自由になる腕を、娘めがけて振り上げた。だがその手は届かない。娘の小さな足が、杖を蹴り払ったからだ。
グレイヴリス公爵の愛用の豪奢な杖は、権力を示すように立派なものだ。いくつもの宝玉があしらわれた杖は、あっけないほど軽く小さな力でなぎ倒される。
「……上手いな」
「ダンスと同じ要領です」
支えを失くした公爵は、身体をしたたかに床に打った。老体は軋み、なかなかすぐには立ち上がれない。
「あんなに大きくて、怖かったのに……お父様は小さくなりましたね」
「エブリン……ッ! お前っっ」
「な、貴殿の跡継ぎ候補は優秀だろう? 私はどちらでもいいんだ。公が上手くやるのか、娘に代替わりして王家がグレイヴリス公爵という器を吸収するでも」
「こんな、殿下は何がお望みなのですか! 爺が、爺が叶えましょうぞ!」
「望みか」
唾が飛ぶのも構わず老体を捩じり、リュヒテに縋り付く。
それを見下ろすリュヒテは一度だけ、窓の外に視線を投げた。
「──私は力が欲しい。揺るぎない、何にも左右されない力だ」
望みを口にした瞬間。人形のようだった王太子は初めて感情を露わにした。
憤怒、渇望、悲哀、様々な感情が禍々しく複雑にうねるものだ。
「それには”グレイヴリス公爵家”の協力が必要なんだ。覚悟を見せてくれないか」
グレイヴリス公爵は、彼の殺意を明確に受けた。
ここにはグレイヴリス公爵と、その娘と、リュヒテしかいなかった。
そして公爵家の紋章印はここにある。
もしここで殺されてしまえば、死因は不明のまま、書類は改ざんされるだろう。そうなることはグレイヴリス公爵は嫌と言うほど方法も、手順も、暗黙の了解も。知りすぎていた。
この青年に乗せられていたのだと気付いた時にはもう遅い。
後に引けなくなったグレイヴリス公爵は、のそりのそりと身体を起こすと、ペンを握ることになった。
「陛下には伝えておく。万事、計画通りに」
「……”万事、計画通りに”」
喉から水分が抜け、聞こえたしわがれた声は自分のものとは思えなかった。
そんなことを思い出していた。
後に引けないならば、進むだけだった。用意周到にダリバン侯と娘の逃げ道を塞いできた。
最後は殿下の側近であるエスピオン公爵家の子息が、あの娘を消す予定だ。情が移って二人で逃げるなら尚よし。エスピオン公爵の力を削ぐことも出来るならば、一石二鳥だった。
どちらに転んでも勝つのはグレイヴリス公爵一人だと、確信していたのだ。
ダリバン侯爵の娘の様子を確認するために差し向けた使用人が戻って来る代わりに、エスピオン公爵子息が入室し、その後ろからあの薄汚い魔女が顔を覗かせるまでは。




