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この”落ちた”感覚は、何度か経験がある。
デビュタントで<傲慢の魔女>にリュヒテ様とまとめて串刺しにされたときにはじまり、つい先ほどにもソフィエル様に階段から突き落とされた時も感じたはずだ。
類似の経験があったとしても、きっといつまでも慣れそうにはない。痛みだって感じるし、記憶だって残るのだから。
疲れの取れない目覚めほど億劫なものはない。
死の間際に消えるのは、最初に視界。次に味に匂い。最後は聴覚なのだそうだ。
だとすると、生き返る時は逆の感覚から目覚めるのだろうか。
……────遠くから聞こえるのは、私の名を呼ぶ声だ。
物悲しい、諦めのような悲壮感に満ちている声色に胸が締めつけられる。
ここにいると伝えたいのに、身体が動かないのがもどかしい。
まるで祈りのような声が、徐々に輪郭を見せる。
手も届かない遠い距離だと認識していた祈りは、私のすぐ近くにあった。
次いで戻ったのは口の中の感覚、苦みだ。
これに似た味には覚えがある。
あの日、絶望の中で飲み込んだ、魔女の秘薬の味に似ていた。死に際の走馬灯ということだろうか。最期に思い出すならもっと幸せな時間が良いのだけれど。
そんなことをぼんやりと考えていると、喉を通る不快感を徐々に強く感じ始めた。
耳元の祈る声は絶えず聞こえてくるし、どうやらまた何かが、戻っているのかもしれない。
「──起きてくれ、頼む。頼むよ、マリエッテ」
足先、指先と感覚が戻ってくる。腹部の痛みはないし、誰かに抱きしめられていることもわかった。この声の主は、ローマンだろう。
だけれど先ほどもローマンに何度も呼ばれた気がしていたのに、目を開けたらリュヒテ様だったのだ。
今度は間違えないぞ、とゆっくりと瞼を開き声の主を確認する。
私の頬をくすぐるのは、柔らかい栗色の髪だ。
「何度も呼んでいたのはローマンだったのね」
そう口を動かすと更に苦みが暴れだした。やっぱりとんでもない不味さだ。
ローマン、と今度は相手を間違えずに名前を呼べたのに、ガバリと勢いよく顔を上げた彼は驚いた顔でこちらを穴が空きそうなほど見つめた。
幽霊でも見たかのような顔をしたローマンの瞳の中には、呆けた顔をした私が映っている。それを見て、次に驚くのは私の番だった。
伸ばした手は今度はすぐに彼の冷えた頬に触れた。少し乱れた栗色の前髪を流すように除ける。いつもの、優しい瞳がよく見えるように。
「あなた瞳の色が……!」
「もしかして、エルシーと同じ色に変わってる?」
そうかと、どこか納得している深緑の瞳の中で、スイセンのような黄みを帯びた光が誘うように揺れ動いている。
たしかに、その色はエルシー様の瞳の色に近い。
あぁ、そうだ、そうだった。
なぜ気付かなかったのだろう。思い起こせば、<傲慢の魔女>だったミュリア様も、<勤勉の魔女>たるエルシー様も、同じ瞳の色をしていた。
──つまり、ローマンが魔女の色を宿している──
愕然とする私をぼんやりと見返すローマンに動揺はない。
「な、ぜ」
なぜ。どうして。なんて、口をついて出るが本当に知りたいことはソレではない。
口を開けては閉めを繰り返す私の頬を、ローマンの指が滑る。確かめるように検分する指は微かに震えている。
「よかった。また会えた──」
そして彼は、安堵したように微笑んだのだ。
まるで、魔女の証を受け取ったことを受け入れているみたいに。
魔女の証は私の体内にあったはずだ。
それは子を産んで引き継ぐか、身体が朽ちるまで取り出せないはずだった。
「なぜ、なんで、どうして……こんなこと」
ローマンに刺されたはずの傷は、消えている。だけれど記憶も痛みもはっきりと覚えている。
──彼は、私の身体から魔女の証を取り出したのか。
そして、瞳の色の変化から推測すると、魔女の証はローマンが引き継いだということに他ならない。
「……教えてもらったんだ。どうやら、俺はずっと昔に“魔女の秘薬”を飲んでいたみたいでさ。だからマリエッテよりも適性があったみたいだ。魔女の」
俺の場合”魔女”っていうのもおかしいね、なんて肩を竦めるローマンは穏やかな表情で小さく笑った。
「ローマン、ごめんなさい。血が、適正がわたくしにはないから、だから」
何が悪かったんだろうか。自分ならば出来ると傲慢になっていたのだろうか、努力で得られると思い上がっていたからか。
もっと上手く出来ていたら、私に適正があればローマンはこんな道を選び取らなかったのではないか。
「違うんだ、マリエッテ。俺がなるべきだと決まっていたんだ」
黄味がゆらゆらと増していく不思議な色合いの瞳を遠くに向けたローマンは、記憶をたどるように語った。
〈傲慢の魔女〉の後始末に奔走する中、ローマンの元に来訪者が現れた。光源の無い暗闇でも光る瞳が不気味だった。強固な守りを誇る公爵邸の奥深くにある寝室の枕元、闇から湧くように現れた男は言った『マリエッテを救う方法を教えてやろうか』と。
救うだなんて、何かがこれから起きるということを知っている口ぶりで。
「幾通りかの未来を知っている、と言われた。なんでも、時を操る力を持ってるから知っているのだと」
「……時を、操る?」
ぽつりぽつりと打ち明けられる言葉は、どこか夢物語のようで現実味がない。
「──まずアントリューズ国から魔女の手記を持ち帰ったら、マリエッテは魔女として処刑されると聞いたのが最初だった」
「処刑だなんて、そんな」
反射的に否定しようとして、黙り込む。歴史から見て、ありえないこととは言い切れないからだ。ましてや今回のグレイヴリス公爵との揉め事があったのだ。
「……だから手記を隠し、魔女の痕跡を消した」
万に一つでも可能性があるなら消すべきだと、迷わなかったと、ローマンは言い切った。




