第5話:二人きりのバレンタイン(一ノ瀬保奈美)
――2月12日、月曜の朝。
目を覚ました瞬間、嫌な予感がした。
リビングから聞こえる、かすかな咳。
湯気のように細くて、けれど切実な音。
「……直也さん?」
ソファに座っていた直也さんは、顔が赤く、額には汗がにじんでいた。
「……ちょっと熱っぽいだけ。平気だよ」
「ダメ。顔が真っ赤だもん。病院に行きましょう」
「いや、今日はいろいろ仕事が溜まってて――」
「ダメ!」
思わず声が大きくなった。
「去年みたいに、また肺炎になったらどうするの!?」
涙が出そうになって、唇を噛んだ。
直也さんは、そんな私を見て、少しだけ苦笑した。
「……わかったよ。じゃあ行こう、一緒に」
診断結果は――インフルエンザA型。
処方箋を受け取り、薬局で薬を受け取る。
「……すぐに飲んでください。もう今日から当分お仕事はお休みです」
「そう言うと思った。」
直也さんは苦笑して、素直に頷いた。
私は学校を休むと決めた。
何を言われても、絶対に傍を離れるつもりはなかった。
「感染したらどうするんだ」と何度も言われたけれど、
――そんなこと、もうどうでもよかった。
リビングに布団を引いて、
自分の分の布団もすぐ横に並べた。
「保奈美、ほんとに離れて寝なくていいの?」
「これでいいの」
即答した。
「これなら、私が安心できるんです」
※※※
翌日になっても熱はまだ高い。
私は朝からずっとおかゆを煮ていた。
だしの香りが部屋に広がる。
「少しでいいから、食べて。」
「……ありがとう。美味しいよ。」
弱々しく笑う顔が、少しだけ安心をくれた。
外は冷たい雨。
でも、部屋の中は、暖房をかけて、あとはおかゆの湯気で満たされていた。
テレビなんか見せない。
――もう、世界の騒ぎは、直也さんに見せたくなかった。
※※※
そして、2月14日。
朝、窓の外は雪だった。
白い光がカーテンを透かして、部屋にやわらかく落ちている。
熱はようやく下がり、
直也さんは穏やかに寝息を立てていた。
私は、静かに立ち上がり、キッチンへ。
――あのノートを取り出した。
直也さんのお母さんが残してくれた、「魔法のレシピ帳」。
そこに書かれていたページ。
“風邪の時に飲ませてあげるチョコ入りココア”。
鍋にミルクを注ぎ、カカオを溶かす。
甘すぎないように、少しだけ板チョコの欠片を入れる。
そして、隠し味のシナモンを一振り。
湯気といっしょに、懐かしい香りが広がった。
「……昔、オレがこんな風に風邪をひいた時に、母親がよく作ってくれたみたいな味だ」
直也さんが、薄く目を開けて笑った。
「懐かしいよ。本当に……」
私は自分の膝の上に直也さんの頭を乗せ、
そっとココアを口元に運んだ。
「熱いから、ゆっくりね」
「……ありがとう。保奈美は本当に優しいな」
「ふふっ。そんなの当たり前です」
二人で笑った。
外は静かで、雪はまだ降り続いていた。
スマホには、亜紀さん、玲奈さん、麻里さんからのメッセージが並んでいた。
> 『直也、大丈夫?』『何か必要なものある?』『病院行った?』
私は短く返信した。
> 『熱はだいぶ下がってきましたが、まだ面会は謝絶にさせてください』
それ以上、誰も無理を言わなかった。
だから――結果的に、
私はこのバレンタインを、誰にも邪魔されずに直也さんと二人きりで過ごすことになった。
「……ねぇ、直也さん」
「ん?」
「今年は、私からのバレンタインチョコだけだったね」
「これは……バレンタインチョコなのかな?」
「もちろん。これが本命チョコです」
静かに笑って、もう一口ココアを飲ませた。
湯気の向こうに見える直也さんの表情が、
少しずつ、穏やかになっていく。
私はそっと、その髪を撫でた。
あたたかい体温が、指先に伝わる。
――世界がどんなに騒いでいても、
この瞬間だけは、何ものにも邪魔させない。
外の雪はやんだみたいだ。
午前中の光がカーテンを透かして差し込む。
その光の中で、直也さんの寝顔を見つめながら、
私はそっと呟いた。
「今度、チョコケーキを作ってあげるからね。だから早く、元気になって」




