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第1話:風邪気味の直也さん(一ノ瀬保奈美)

 コンロの上で、湯気がゆらゆらと立ち上っていた。

 土鍋の中で、だしの香りがふんわりと部屋に広がる。


「……もう少し火、弱めた方がいいかな」

 そう独り言をつぶやいて振り返ると、リビングのソファに直也さんがいた。

 ノートPCを閉じて、珍しく、ゆっくりとコーヒーを飲んでいる。


「体調、大丈夫?」

「うん、ちょっと熱っぽいだけだよ。少し疲れただけだと想う」

「だから今日は休んでって言ったのに……」

「この後の会議だけオンラインで出たら、あとはもう休むよ」


 苦笑しながら、直也さんはカップを置いた。

 久しぶりのリモートワーク。

 このところ、海外とのやり取りや、重要な会議続きで、オフィスワークが続いていた。

 少し顔色が悪いのが気になっている。

 たまに咳こむのですごく心配。


「ごはん、もうすぐできるからね。鍋焼きうどんにしました。消化いいから。」

「ありがとう。……ここんとこ、あまり食欲がないから、こういう食べやすいものは本当に助かるよ」


 ――そんなの全然いいのに。


 木曜日の夜。

 テレビの代わりに、ラジオの音が流れていた。

 《RICOのイブニングカフェ》――今夜はバレンタイン特集。

 軽快なジングルと共に、RICOさんの明るい声が響く。


> 「――さて、あの『The Queen’s Choice』でも話題をさらった、

> “全女性の敵”とも言われている、GAIALINQのCOO、一ノ瀬直也さん!」


(……ひどい言い方。でも、ちょっと笑える)


 私は火加減を調整しながら、小さくため息をついた。


 RICOに悪気がない事くらい分かっている。

 直也さんが『全女性の敵』でない事は誰よりも私は分かっているし、莉子さんが分かっていない筈もない。でもそう詰りたくなるくらい直也さんがモテてしまうのは事実。

 そういう直也さん自身が無自覚な「モテる」あり様に対しての、莉子さんなりの「面白くない」思いの表明が、この『全女性の敵』という言い方なんだろうと分かるのだ。


(私が、たまに直也さんの手をつねるのと同じなのかな……)


 番組では、リスナー投稿が読み上げられていた。


> 「“GAIALINQの一ノ瀬直也さんにチョコを贈りたいのですが、どこに送ればいいですか?”」


「……すごいな。問い合わせ殺到だって」

 思わずつぶやくと、直也さんは苦笑した。

「こういうの、ほんとやめてほしいんだよな。……正直言えば、バレンタインって、あんまり好きじゃないんだ」


「……え?」

「昔から、あの商業主義全開の“イベント感”がどうも苦手でさ。

 “誰にあげた”“何個もらった”――そんなさもしさがどうにも好きになれない」


 そう言って、ゆっくりコーヒーを飲んだ。


「子どもの頃、毎年バレンタインの日にはね、

 オレの母が、父と、それからオレのために小さなチョコのケーキを焼いていたんだ。

 会社から帰ってきた父が、それを食べて“美味しいな”って喜んでいたよ。

 それが、オレが見てきた中で、最もあるべき“バレンタイン”の姿だと今でも思うね。」


 直也さんの声は、いつもより少し柔らかかった。

 私は、知らなかった彼の記憶を覗いた気がして、胸が温かくなった。


「それが、“商業主義に堕した数の競い合い”みたいになっているのを見てると、どうもさもしさしか感じないんだよ。

 誰かを想うなら、もっと静かにすればいいと思う」


(……ああ、直也さんらしいなぁ)


 そのとき、ラジオのトーンが変わった。


> 「――そんな直也さんから、公式コメントが届いています!」

> “バレンタインチョコレートを頂くよりも、

> 皆さん、ぜひフードバンクや全国の子ども食堂への寄付をお願いしたいと思います。”


 部屋が静かになった。

 お湯がコトコトと鳴っている音が、やけに響いた。


「……寄付、なの?」

「うん。仮にオレなんかにチョコレートを贈られても、事故を防ぐために会社でまとめて処分するだけになる。

 ……そもそもオレは一人っきりなんだから、その全てに対して誠実に対応する事など、どの道不可能だよ。

 だったら、もっと世の中に役立つような方向でお金を使ってもらう方がいい。」


 さらっと言うけれど、そこには確かな温度があった。

 “誰からからの想いを軽んじたくないし、無駄にしたくない”という、直也さんらしい考え方。


 ――きっと、直也さんにとってバレンタインは「本当の想いを、本当に想う相手にだけ贈る日」「本当の想いを受けとめる日」であって、“漠然とした想いを不特定多数に贈ったり、その贈られた数を誇ったりする日”ではないのだ。


 そういう直也さんらしい筋の通った考え方。

 でも、直也さんはそういうことをいちいち説明したりしない。


> 「――そして! ここで驚きの証言を入手しました!

> 直也さんの“幼馴染”の方からコメントをいただいています!」


(え……?)


> 「――小学生の頃から毎年チョコを渡していて、いつも普通に受け取ってくれていたそうです!」


(……幼馴染って)


「莉子自身のことだろうな」

 直也さんが、苦笑しながら、まるでニュースでも聞くような声で言った。


「莉子さんは、毎年チョコレートくれたの?」

「うん。まあ、昔から毎年必ずくれるね」


(……そう。特別ではないのね)


 その瞬間、少しだけ胸がざわついた。

 でも、ほんの少しだけ――“これまで、その日常の中に自分はいなかった”という、『幼馴染』として積み重ねられた時間に対する悔しさのようなものが、自分の中に滲んだのだ。


 ラジオでは、RICOさんの声が続いていた。


> 「――つまり、“唯一チョコを毎年直也さんに受け取ってもらえてきた女性”は、この幼馴染の方だけなんですね!」


(唯一、か……)


 鍋の火を止めながら、私は思った。


 直也さんの中では、あくまでもバレンタインは、本当の想いを贈り、そして受けとめる日。

 誰かに見せびらかすでもなく、特別な言葉で飾るでもなく。


 ――だから、直也さんはそうでないチョコレートは全て断る。

 受けとめきれないものを、無駄になると分かっているものを、贈らせない。

 そしてもっと別の、世界を少しでも良くするようなものに使って欲しいと願う。


(本当に誠実で、本当に真面目なんだな)


「……そろそろ出来たかな」

「うん」


 鍋焼きうどんをテーブルに置く。

「ありがとう。……オレ好みの味付けにしてくれて。とても美味しいよ」

「よかった」


 そう答えながら、心の中で呟いた。


 ――私は本当の想いを込めて贈るから、だからちゃんと受けとめて欲しいな。


 ラジオの向こうで、RICOさんが明るく言う。


> 「――全国の皆さん、想いだけでもフードバンクへ!」


(……想いだけでも、か。)


 湯気の向こうで、直也さんが少しだけ笑っていた。

 その横顔が、なぜかとてもあたたかかった。

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