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妻を探す冴えない男 3

 事務所に足を踏み入れると、室内は少し薄暗かった。

 古びた外観とは裏腹に、室内は驚くほど綺麗に整頓されている。

 机や棚が整然と並ぶその光景は、私が思い描いていた探偵事務所そのものだった。


「適当に座って」

「はい……!」


 私は中央に置かれたソファへと腰を下ろした。

 思ったよりも柔らかく、わずかに緊張が和らいだ。


 彼女は室内を見回した後、どこか諦めたようにこちらへ視線を向けた。


「お茶とかは……出さなくてもいい?」

「あ、はい! お構いなく」


 もともとこちらが休業中にもかかわらず無理を言ってお邪魔している立場だ。

 私は慌てて首を横に振った。


 ひと息ついてから、向かいのソファに腰を下ろした彼女に声を掛けた。


「先ほど、探偵ではないとおっしゃっていましたが……えーと……」


 目の前の人物が探偵ではないと分かったものの、まだ何者なのかを聞いていなかった。

 そういえば、彼女の名前すらまだ聞いていなかったことに気づく。


「名前はけい。ここでは探偵の……用心棒的なことをしてるよ」

「……そうだったんですね、私は酒折(サカオリ)と言います」


 こちらの意図を察したのか、彼女は自己紹介をしてくれた。

 しかし、彼女が言葉を詰まらせた後、出てきたのはなんとも曖昧な説明だった。

 用心棒的なこと、とは一体何なのだろうか。


 それにしても、助手であれば簡単な捜査くらい協力してくれるのではないかと内心期待していたのに、思惑はことごとく外れていく。


 とはいえ、この治安の悪い街で探偵の用心棒がいること自体は不自然ではない。

 見た目で判断できることの方が少ない場所だ。彼女もまた、見かけによらず腕が立つのかもしれない。


「その、妻が失踪してしまって……探しているんです」

「へぇ」


 そろそろ本題に入ろうと思い、意を決して話を切り出した。

 だが返ってきたのは、なんとも軽い相槌だった。


 話を聞くだけ、というのは額面通りの意味だったのだろうか。

 急に不安がこみ上げてきたが、それでも私は話を続けた。


 数週間前、妻が失踪したこと。警察にも捜索を依頼したが、結局見つからないまま打ち切られたこと。

 妻との出会いから、今に至るまでのこと。

 ――知っている限りのことを、すべて話した。


「奥さんの名前は?」

「酒折ユイです」

「奥さんのご家族は?」

「隔離外区域……だと、聞いています」


 隔離外区域、すなわちこのセンゴクではない外側に住んでいるということだ。

 それは悲しいことに、もう会うこともできず、相手の生死さえも分からない状態ということだ。


 隔離内で暮らす住民は、いかなる理由があっても外へ出ることはできず、外の人間もまた、隔離内に入る手段はほとんどない。


「奥さんからお金とかは盗られてないの?」

「はい、念のため口座を確認しましたが、お金は一切盗られていませんでした……過去を遡っても、不自然な減りなどはなかったですね」

「そう」


 彼女の短い返事を最後に、事務所内に沈黙が訪れた。

 改めて状況を説明してみて、自分が把握している情報の少なさを思い知る。


 焦りと不安が、再びじわじわと込み上げてきた。


「やはり、ここから妻を見つけ出すのは難しいでしょうか? 警察が既に捜索してくれた後ですし……」

「警察はどんな感じだったの?」

「正直に言うと、あまりやる気があるようには見えませんでしたね」


 そう、警察の態度はとても悪かった。


 外の人間が隔離内へ入ることはほとんどできない。警察は、その数少ない例外のひとつだ。


 だからこそ、この街の警察には癖のある人間が多い。

 問題を起こした者や、仕事ができない者、扱いに困る人物が回されてくることも多く、半ば“左遷先”のように扱われている。


 もちろん、全員がそうというわけではない。

 曲がりなりにも、この騒がしい街の秩序は最低限保たれている。

 それでも、まともな人物に当たる確率はかなり低い――それが住人たちの共通認識だった。


 それにしても、今回の対応はあまりにも露骨だった。

 やる気がない、というより、最初から踏み込む気がないようにすら思えた。


「なら、多少はやりようがあるかもね」


 含みのある言い方だった。


「それって……警察がわざと手を抜いた可能性がある、ということですか?」

「うん。まぁ、その場合は中枢企業絡みになるけど」


 私はその含みのある言い方に希望を見出し、思わず前のめりになる。

 しかし、その口から”中枢企業”という言葉が出た瞬間、胸がざわついた。


 隔離されてすぐ、この街では一部の企業が実権を握るようになった。


 国から切り離されれば、今までの生活が揺らぎ、無法地帯に等しい状態になるのは時間の問題だった。

 それでも今なお体裁が保たれているのは、力を持つ大企業が街を主導しているからだ。


 こうした絶大な権力を持つ企業は、この街で「中枢企業」と呼ばれている。


 もっとも、街を支えているからといって、彼らが善良な存在とは限らない。

 治安の悪いこの街で、多くの住民をまとめ上げるのは容易ではないのだから。


 とはいえ、今回の件が本当に中枢企業絡みなのだろうか。


 そう考えたところで、ふと別の疑問が浮かんだ。

 こういった手がかりの少ない事件の場合、もう一つの可能性がこの街にはあるのだ。


「あの……もしかして、逸脱者の仕業という線はないんですか?」


 ――逸脱者。


 人間の枠を外れた、超人的な力を持つ者たち。

 事件に関われば事態を複雑にする厄介な存在だ。


 そして何より、逸脱者の存在こそが、この街が隔離されている理由でもある。

 この街で最も関わるべきではない連中だ。


「うーん、可能性は低いんじゃない」

「何故ですか?」

「いや、ただの勘」


 あまりにも無責任な返事に、冗談なのか本気なのか判断がつかない。

 むしろ今回の事件は、中枢企業が絡んでいると言われるより、逸脱者絡みだと言われたほうが納得できる気さえした。


 何らかの方法で、妻が逸脱者に攫われてしまったのかもしれないと思ったからだ。


 私はいつの間にか探偵不在の探偵事務所で、まるで自分が探偵にでもなったかのように思考を巡らせていることに少し苦笑した。

 数日前まで家に引きこもって、塞ぎ込んでいたというのに。


「まぁ、ちょうど暇してたから。人探し、付き合うよ」


 私の自嘲をよそに、彼女の言葉に嬉しさのあまりすぐには反応できなかった。

 中枢企業絡みの可能性があると分かれば、普通なら誰だって関わろうとは思わない。

 それなのに彼女は、こうもあっさりと引き受けてくれた。


 思わず目を見開く。さっきまで頭の中で渦巻いていた探偵ごっこじみた思考は、綺麗さっぱり吹き飛んでいた。


「……えっ! 本当ですか!?」


 勢いよくソファから立ち上がり、前のめりに彼女を見据える。

 彼女が探偵ではないことなど、もうどうでもよかった。少しでも何か掴めるのなら、藁にも縋る思いだった。


「この街で起こる大抵のことに、推理はいらないからね」

「……へ?」


 なんてことのないように、彼女はそうつぶやいた。

 探偵事務所に属している者の言葉とは思えなかったが、不思議と頼もしさすら感じた。

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