第3章:最初の欠落
夜は静かすぎた。
榊真司は、自宅のリビングに一人で座っていた。
テレビはつけているが、音は入ってこない。
テーブルの上には、開いたままの手帳。
そこに書かれているはずの名前。
――佐伯美咲。
だが今、その文字はほとんど読めなかった。
「……なんだよ、これ」
指でなぞる。
紙は確かに凹んでいる。
書いた“跡”だけが残っている。
インクだけが、消えていた。
「ありえないだろ……」
ペンで強く書き直そうとする。
だが――
手が止まる。
「……なんて読むんだ?」
書こうとした名前が、思い出せない。
さっきまで覚えていたはずなのに。
頭の中に、もやがかかる。
「……クソ」
苛立ちを抑えきれず、手帳を閉じた。
⸻
翌朝。
榊はいつもより早く出署した。
頭の違和感が消えない。
「おはようございます」
若い刑事が軽く頭を下げる。
榊も頷くが、ふと違和感を覚えた。
――誰だ?
見覚えはある。
だが名前が出てこない。
「……おはよう」
適当に返し、デスクに向かう。
パソコンを立ち上げ、昨日の事件データを開く。
だが。
「……は?」
ファイルがない。
正確には、存在しない。
検索をかける。
ヒットしない。
「おい」
隣の席の高野に声をかける。
「昨日の件のデータ、どこだ?」
高野はキョトンとした顔をした。
「昨日の件?」
「アパートの……」
言葉が詰まる。
アパート。血。争った跡。
だが、その先が出てこない。
「何の話です?」
高野の表情は本気だった。
「お前、昨日一緒に現場に――」
言いかけて、止まる。
本当に“一緒にいた”のか?
その記憶が、曖昧になる。
「……いや」
榊は首を振った。
「なんでもない」
⸻
違和感が、広がっていく。
自分の記憶が信用できない。
だが、確実に何かが起きている。
榊は立ち上がった。
「外出る」
「あ、はい」
高野は特に気にしていない様子だった。
その反応が、逆に不気味だった。
⸻
向かったのは、昨日のアパート。
だが――
「……は?」
榊はその場で立ち尽くした。
そこにあったはずの古びた建物が。
ない。
更地になっていた。
重機が並び、工事が進んでいる。
「ちょっといいですか」
近くの作業員に声をかける。
「ここにアパート、ありましたよね?」
作業員は不思議そうに首をかしげた。
「アパート?いや、ここはずっと空き地ですよ」
「いや、昨日――」
「昨日も工事してましたよ」
あっさりと否定される。
「……そんなはずないだろ」
榊の声が低くなる。
だが作業員は困ったように笑うだけだった。
⸻
頭が揺れる。
現実が、噛み合わない。
「俺は……何を見た?」
ポケットからスマホを取り出す。
写真フォルダを開く。
現場を撮ったはずだ。
血の跡、部屋の様子。
だが――
「……ない」
一枚も残っていない。
代わりに、無関係な写真が並んでいる。
「消された……?」
いや。
違う。
“最初から存在しなかった”ように、整えられている。
⸻
そのとき。
背後から声がした。
「困ってるみたいだね」
振り返る。
見知らぬ男が立っていた。
白衣を着ている。
場違いなほど、清潔だった。
「……誰だ」
榊は警戒する。
男は薄く笑った。
「君が探しているものは、もうないよ」
「何のことだ」
「人はね」
男はゆっくりと近づく。
「記憶されているから、存在できるんだ」
その言葉に、背筋が凍る。
「記憶が消えれば――」
男は榊のすぐ目の前で立ち止まった。
「存在も消える」
⸻
榊は反射的に男の腕を掴もうとした。
だが。
一瞬、視界が揺れる。
次の瞬間――
男はいなかった。
「……は?」
周囲を見渡す。
どこにもいない。
ほんの数秒の出来事だった。
「なんだ……今の」
現実感が崩れていく。
⸻
そのとき、また違和感が走る。
「……俺は」
自分の名前。
それすら、一瞬だけ曖昧になる。
「……榊、真司」
声に出して確認する。
大丈夫だ。まだ覚えている。
だが。
確実に削られている。
少しずつ。
確実に。
⸻
榊は拳を握った。
「……上等だ」
誰がやっているのかは分からない。
だが、やることは決まっている。
「消えるなら、消える前に捕まえる」
刑事としての本能だけが、まだ残っていた。
⸻
だがそのときの榊は、まだ知らない。
この“欠落”が始まりに過ぎないことを。
そして次に失うのが、
記憶ではなく――
“自分を覚えている人間”であることを。




