011 失ったもの、変わらないもの
なんで? どうして?
城田君が、みんなの前でタメ口を使っている。再会してから今日までの、二人だけの秘密を公然と破っている。それだけでも尋常ではないのに、おまけに私のことを――。
「おい。今あいつ、有坂さんを呼び捨てにしなかったか?」
「あれ、城田だよ。企画部の城田。ほら、噂の」
「じゃあ、あいつが有坂さんにフラレた城田? ははっ、それで呼び捨てってなに考えてんだ」
「現実と妄想の区別がついてねぇんだろ」
頭が真っ白になる。
周囲の声は、ただの音としてしか認識出来ない。彼が私を呼んだ声が、いつまでも頭の中にリフレインしている。ありえない、ありえない、ありえない。あの城田君が、人を名前で呼ぶなんて絶対にありえないはずだ。
「……な、なんね」
焦り過ぎて、口調はいつも通り冷静なのに方言が出てしまった。開いた口が塞がらない。こんな時なのにどうしよう。私、絶対にダラシない顔をしている。
……蕩けちゃう。
「忘れ物、届けに来たんだ。ほら、このボールペン。お前のだろ?」
それは、いつも城田君がシャツの胸ポケットに挿している5ミリのボールペンだった。もちろん、私のものなわけがない。しかし、思わず受け取った瞬間に理解した。
これは、私が嘘をついて彼に会いに行った時の意趣返しであると。
「あ、あ、ありがとう。うん、これは私のだよ。えへへ……」
中学英語の和訳みたいな不自然な回答で、更に顔が熱くなる。もう、どうすればいいのかが分からない。他の誰にも目をくれず、私だけに向けられている視線に吸い込まれて、ただ、私は城田君の出方を覗うしかなかった。
「それと、もう一つ話があるんだ。俺ら二人で人事部に行かなきゃならねぇからさ。悪いんだけど、一緒に来てくれ」
「人事部、なんで?」
流石の私でも分かる、これは絶対に嘘だ。きっと、熱くなってる私を冷静にするために逃がしてくれる、優しい嘘に決まってる。
「ここでする話じゃない。まぁ、異動するってわけでもねぇよ。あれは大概、本人が最後に知るもんだからな」
妙にウイットに富んだことを言って踵を返す城田君。そんな彼を見た周囲が、どんどんざわめき出している。
「どういうことだ? あいつ、有坂さんにフラレたんじゃないのか?」
「そ、そうは見えないですけど」
「というか、有坂さんって方言喋るんだ」
いつの間にか、疑問が飛び交っていた。しかし、当の本人である城田君は彼らのことを少しだって相手にしていない。最早、視界にすら映っていないような毅然とした態度は、今までに城田君が経験してきた苦難や逆境を教えてくれているような気がした。
……一体、どれだけ積み上げれば、あんなふうになれるのだろう。
「来ねぇの?」
「い、行く!! 行くよ!! 待ってよぉ!!」
エレベーターに乗っている間、城田君は壁に寄り掛かって腕組みをしている。行先表示を見ると、私たちは人事部のある上階ではなく下に向かっている。扉が開いて外に出る。何が何やら分からなかったが、ついていけばなんてことはない。それは、駅前の喫茶店であった。
「ホットコーヒー二つ」
座ったのはボックス席だった。今まで、臆病な私たちが避けてきた、正面から互いを見るボックス席。コーヒーが届くと、私は砂糖とミルクを、城田君はミルクだけを入れて一口飲む。
ようやく、気分が落ち着いた。勤務時間中に会社の外に出てサボるなんて、生まれて初めての経験だった。
「……それで、この状況はなんね」
「守本課長に指定された時間は午後一だ、それまでゆっくりしておくって話」
「えぇ!? 呼ばれたのは本当ってことぉ!? でも、じゃあどうしてこんな早く来たのぉ!?」
「別に呼ばれたわけじゃねぇけどな。……まぁ、なんとなく、お前が困ってるんじゃねぇかと思ったんだ」
……あぅ。
「しかし、お前も思ったより脇が甘いな。美鶴。連中の話なんて気にしなきゃいいのに。言っちゃなんだが、その手の人間をあしらうのは慣れてるだろ」
「だってね? みんな、城田君のこと悪く言うんだもん。それ聞いたら、頭ん中真っ白になっちゃって」
「俺が悪く言われたら、何か問題があるのかよ」
「あるよぉ!! そんなん許せんもん!! 悪い奴は私がこうして、こうして、こうしてやるんよ……っ」
思わず、自分の手をもみくちゃにするジェスチャーを披露してしまうと、城田君は呆れたように笑ってコーヒーを飲んだ。
恥ずかし過ぎる。
「お前、ラブコメの読み過ぎじゃねぇの? あの手の理不尽が勢いとドラマでなんとかなるわけねぇだろ。問題を解決するのは、いつだって確たる証拠だけだ」
「だから、私のこと呼び捨てにしたの?」
すると、城田君は再び本音の見えないニヒルな微笑を浮かべた。
「下手な策や小手先の言い訳なんて必要ない。まして、噂は所詮噂だ。事実にぶん殴られりゃ、いとも容易く崩れるさ」
カ、カッコいいなぁ。
城田君は、昔から、本当にずっとカッコいいよ。
「……あれ。でも、ちょっと待って?」
「なにを」
「事実でぶん殴ったの?」
「あぁ」
「あの人たちを?」
「そうだ」
「城田君が私にフラレたっていう噂を挽回するための事実?」
「そうだってば」
……。
「え?」
えーっと。
これは、つまりどうなるんだろう。
今回のケースは、私の告白が保留になったことで湾曲した噂が流れて、私にアプローチする人が増えたことが妖精さんたちの嫉妬に繋がったわけでしょう? なら、その根本である人気な男性社員を黙らせるための事実ってことは――。
「まぁ、仲のいい友達ってところかなぁ」
小声で呟いた。
十年も待ち続け、メンヘラを拗らせて行き着くところまで行ってしまった私だ。今さら、そんな都合のいい妄想はしないのである。
……はぁ。
「でも、やっぱり許せんよ。城田君のこと、あんなふうに言うなんて」
「ふふっ。お前、本当に執念深いなぁ」
「当たり前やんね。私の性格、知っとろぉ?」
すると、城田君は何かを考えてからタバコを加熱し、ゆっくりと煙を吐いて静かに言った。
「連中は他人事でしか盛り上がれないモブキャラだ。そんな事実にすら気が付けない無知が、既に強烈な罰になってると思うけどよ。おまえが言いたいのは、そういうんじゃないんだろうな」
「……うん」
私、城田君みたいに自分で自分を満足させてあげられないから。
落とし所を用意してくれないと、やっぱり納得出来ないんだ。
「ところで、事実として俺も美鶴も課の中核を担ってるだろ。なら、俺たちの未来が、結果的に連中へ罰を与える策になるかもしれねぇ」
はて。
未来、とは。
「なぁ、美鶴。お前の家族は日本で一番のマンゴーを作ってる。だから、お前が銭勘定をして家族を助けたいって話だったよな」
「うん」
「よかったら、俺に経営戦略を考えさせてもらえないか。下積みは長いことやってきた。今の俺なら、きっと、もっと有坂印を世に知らしめることが出来ると思うんだ」
……私は、自分が今、何を言われたのかを理解出来なかった。
あの秋の日。私が諦めた夢の続きが、こんな形で再び動き出すとは思いもしていなかったから。本当に、本当に嬉し過ぎて、伝えたいのに何も言えなかった。
どんな言葉を使ったって、今の気持ちを表現出来ない自分がもどかしい。
だから、私は世界で一番明るく、自分を表現することを諦めた。
「もう、臆病じゃないんやね」
「そうでもねぇさ、俺は変わってないよ」
ならば、変わったのは私の見方だ。
城田君しか知らなかったあの頃と、都会に来て多くを知った私。ただひたすらに純粋だった心は、いつの間にか死んでいた。社会に疲れ、過去を尊び、今を諦めながら生きていた私を、それでも今は、ほんの少しだけ褒めてあげたい気分になった。
「それじゃ、人事部に行こうぜ。守本課長だけは待たせちゃいけないから」
「うんっ」
……ありがとう、私。
ずっと変わらず、城田君を好きでいてくれて。




