010 呼ぶ声
× × ×
「ねぇ、有坂さん。最近、困ってることとかない?」
「いいえ、特にありませんが。そう見えますか? 黒井さん」
「いや、ないならいいんだけどさ。問題があったら教えてね、俺が力になるから。あ、これ差し入れね」
「えぇ、分かりました。その時はよろしくお願いします。お気遣い、ありがとうございます」
……妙だ。
ここ最近、ずっと誰かに探りを入れられている気がする。具体的に言えば……そう。一週間前、喫煙所で城田君に告白をしてしまった時からだ。
お陰で、デスクの上に飲みもしない缶の紅茶やコーヒーが溜まる一方だ。私は、仕事中や勉強中には緑茶しか飲まないというのに。どうせ返す機会のない恩を形として積み重ねられると、嫌でも罪悪感が湧いてくる。
お願いだから、私に無駄なお金を使わないで欲しい。
そんな言葉は、気の弱い私にはとても言えない。だから、こうして缶を積み上げて無言のアピールをすることしか出来ないのだった。
……城田君なら、どんな本音でもぶっちゃけられるのになぁ。
「有坂さん、何か仕事余ってませんか? 僕、暇なんで手伝いますよ」
「……それでは、収支報告のまとめを手伝ってください。営業五課の分をお願いします」
「了解しました」
監視されている。
それが、私が肌で感じている今の所感だ。
どこか疎外感を感じていたのは以前からだが、それはある種、みんなが私に一目置いてくれているからだと分かっていた。頼りにされることはどちらかと言えば嬉しいし、人の尻拭いを任されることも多かったから、そのせいもあって私に迂闊なことを言わないようにする空気があったのも分かっている。
まぁ、そのせいで私は今でもクールを気取らなければならない状況に陥っているとも言えるし、別に仕事なのだから恩を売っているつもりもなかったのだが。それについては、私自身の弱さの責任でもあるので不問としましょう。
閑話休題。
今は違う。私に一目置くどころではなく、まるで新入社員を見守るように、私が何かヘマをしないようにしているといった様子だ。
この『見守る』というのが重要で、要するに、何か期待を込めた感情を向けられている。有り体に言えば、下心が透けて見えてしまっている。ここが、私が重苦しい閉塞感を覚えてしまう最たる理由なのだと考えて差し支えないだろう。
「有坂さん、今週末の予定空いてる? 何人かで飲み会やるんだけど、一緒にどうかな?」
ほら、こんな感じ。
「お誘いありがとうございます、五十嵐さん。後で予定を確認して回答させていただきますね」
「そっか。きっと楽しいから、暇だったら来てね。というか、なんかいいことあった? 最近、微笑んでること増えたよね」
「きっと、仕事が順調だからだと思います」
「ふぅん。でも、前より隙が増えたように思うよ。その方がかわいいって、みんな思ってるんじゃないかな」
……なる、ほど。
「ありがとうございます」
私に隙が増えた。ということは、つまり、城田君との関係に進展があったことが嬉しくてたまらないのだろう。何せ、メンヘラ女の十年越しの恋だ。我ながら、そうなってしまうのも仕方ないと納得せざるを得なかった。
ならば、可愛さを褒められたことは光栄なくらいである。しかし、それはそれとして一線引かねばならないのも確かだろう。
「……業務中なのに」
誰にも聞こえないよう、小さな声で呟く。
仕事している間に、チャラついた誘いをする人は好きじゃない。業務とプライベートの境界線が引けていない人は、どちらも中途半端でダラシない。それが、私が社会に出て学んだ一つの答えだ。
どいつもこいつも、城田君とは大違い。
誰か一人でいいから、城田君を忘れさせてくれる男性が現れてくれても良いのに。恥ずかしながら、そんなことを考えた夜もあった。けれど、新しく探したわけでもない私にとって、やはり『自分の好きなこと』に付き合わせてくれる男性は今でも彼だけなのだ。
この世界には、自分の好きなものを語れない男性が多過ぎる。そんな人に好かれたって、きっと私が心から愛されることはないと分かりきっているではないか。
一つの物事に没頭出来ない男ほど、信用出来ない存在はない。これは私の価値観ではなく、直感がそう囁くのだ。
故に、あの頃と同じ尺度で、あの頃と同じ熱意で、あの頃と同じ人に恋をしている私は、どうしても城田君でなければダメなのだ。
自分ではどうしようもないくらい重たい愛。それが、今、私を私たらしめる要素である。
きっと、城田君を好きでなくなった私を見たら、みんながっかりすると思う。アプローチしてくれている男性たちも、私への興味をすっかり失うに違いない。
だから、ごめんなさい。私は、他の誰ものにもなれない。
そんな思いで、私は今を生きているのでした。
「……」
他の課のデスクから、ヒソヒソと声が聞こえてくる。女性社員たちの声だ。どうしてそんなに暇を持て余していられるのか不明だが、この会社にはずっとお話をして、気が向いた時に庶務作業をするだけでお金がもらえる部署が存在する。
彼女たちの生態系は、実を言えば女の私にもよく分からない。私とはあまりにも生き方が違い過ぎるからだ。
しかし、恐らく敢えて聞こえるようにしているであろう会話の節々からは「生意気」や「目障り」、「アラサー」などと言った言葉が散見された。悪口、のつもりなのだろう。
理由は何となく分かる。営業二課の冴島さんの誘いを断ったからだ。
冴島さんは、個人の好みの差はあれど、恐らくこの会社で一番顔がかっこいい。そんなイケメンの誘いを無碍にしたアラサー女が気に食わなくて仕方ないらしい。ハブにしようだの、ロッカーにイタズラしてやろうだの。女子小学生のようなイタズラに精を出す彼女たちのことを、私は便宜上『悪い妖精さん』と呼称している。
「受け入れたって、それはそれで文句言うくせに」
また、誰にも聞こえないくらいの声でボソリ。
前々からあの手のやっかみは経験してきたが、しかし、最近は更に嫌がらせの頻度が上がっているような気がする。それも、理由は分かる。男性社員からのアプローチが増えて、恐らくその中には彼女たちの意中の人もいたからだ。
先程、週末の誘いにきた五十嵐さん。彼も顔がカッコいいし、きっと妖精さんたちの好みの男性の一人なんだと思う。それだから、こんなふうに小さな報復をしてくるのだ。
……こんな時、城田君ならどうするのだろう。
先日の営業部長のセクハラと違い、罰するにはインパクトが小さ過ぎる。同じ土俵に上がるのがバカらしくなるような小悪に対する対処法を、私は一つも知らなかった。
「やーね、あの低能ども」
隣りに座っている先輩の女性社員、木村さんが嘆息しながら言う。彼女は、いつも私の味方をしてくれる人だ。曰く、使える人間が好きらしいから、真面目に仕事をしているうちは嫌わないでいてくれるであろう、ある意味で会社の中で一番信用できる人である。
「慣れてますから」
「慣れるようなことじゃないでしょう、私がガツンと言ってやってやろうか?」
「私たちは経理部です。下手に嫌われると、意図的に月末に大量の仕事を押し付けられて大変な目に合うかもしれません。それだけは避けたいです」
「……あの低能な連中が、そこまで頭使った報復をしてくるとは思えないけど」
「可能性の話ですよ、木村さん。それに、彼女たちに思いつかなかったとしても、彼女たちの味方の男性社員の誰かは思いつくと思います。下手をすれば、もっと意地悪なルール内での嫌がらせを実行するかもしれません。そうなれば、私は木村さんや課の仲間に顔向けできないです」
「は〜。やっぱ、あんたって頭いいわねぇ。合理性の欠片もない無能なバカ社員たちに、へそのゴマでも煎じて飲ませてやりたいわ」
それは爪の垢ではないだろうか。なんて、無粋なツッコミは入れないのである。
「ふふ。そうやって、色んな可能性を考えることが大切だって教えてくれた人がいるんです。そのお陰ですよ」
「ふぅん、そうなんだ。あの企画課の城田って男に、そういう考え方が出来てれば低能ちゃんたちも暴れ出さなかったかもしれないのにね〜」
……え?
「城田君が、どうしたんですか?」
「この前、喫煙所であんたに告白してフラレたんでしょう? その腹いせにあんたの悪口流してるって話。だから、あの低能女共が悪評に便乗していい気になってるんでしょ。気が付かなかった?」
……なんだ、それは。
「まぁ、お陰で心配してる男どもに、あんた飲み会誘われまくってるじゃん。下心は丸見えだろうけどさ、この際少しくらい遊んでみたら? ひょっとするといい男も見つかるかもよ?」
……なんなんだ、それは。
「有坂ちゃん?」
「……ちょっと、お手洗いに行ってきます」
ギリギリ正気を保っていられたのは、城田君に憧れたからだ。そうでなければ、私はあの場で大立ち回りを決め込んだに違いない。個室に入り、胸を落ち着かせた。
「城田君が、私にフラレたですって?」
悪魔だって、もう少しまともな嘘をつくだろう。
冷静になると、更に怒りが湧いてきた。そんな荒唐無稽なことを恥ずかしげもなく世間へ告げた人間はどこのどいつだ。事もあろうに、私が城田君をフッただなんて。そんな、そんな……。
「……城田君」
この一週間、彼はそんなことを一言も言わなかった。毎日電話して、土日は一緒に食事もしたのに、彼が社内の不穏な空気に気が付かないはずないのに。ただの一つも、私に悟らせるようなマネすらしなかった。
「……ダメよ、美鶴。今はダメ」
ならば、彼には彼の考えがある。そして、そのアイデアを合理的にこなしている最中に違いない。聞くに耐えない嘘の話を、彼なら自分でなんとかしようしているに違いない!!
「でも、もしも心が折れていたら?」
寂しがり屋で臆病な城田君が、謂れのない悪評に耐えきれなくなって。そのせいで、私との関係に見切りをつけてしまっていたら。私の自覚していない私の変化に嫌気が差して、終わらせるための準備をしているのだとしたら。
私は。
私……は……。
「赦せない」
扉を開き、妖精さんたちのデスクへ最短距離を通って向かう。あいも変わらず呑気に噂話へ花を咲かせる彼女たちの前に立つと、私は衝動的にデスクへ手を叩きつけていた。
――ダンッ!!
ビクッと体を震わせ、一様にこちらを伺う妖精さんたち。そんな彼女たちへ、私が毒を吐き連ねるまさにその瞬間であった。
「どうした、美鶴」
背中から、優しい城田君の声。
「あ……っ」
私は、遂に何も考えられなくなって、どうしていいのかが分からなくて、ただ彼のニヒルな笑顔に見惚れることしか出来なかった。




