第9話:外堀、完全に埋まる
ハルシュタット辺境伯邸、旦那様の執務室。
「……解せぬ」
重厚なマホガニーのデスクに向かい、アルベルトは本日何度目か分からない言葉を、深く、苦苦しげに吐き出していた。
彼の前には、領地経営の重要書類が並んでいるはずだった。しかし、アルベルトの目はそれらの数字を全く捉えていない。
彼の脳裏を占めているのは、この屋敷の『異常事態』である。
コンコン、とノックの音が響き、扉が開いた。
入ってきたのは、筆頭執事のセバスチャン、騎士団長のロラン、そして現在帰省中の実妹、エリスの三人だった。
辺境伯領の「頭脳」と「武力」、そして「血縁」のすべてが集結した、まさにハルシュタット家の最高意思決定機関とも言える顔ぶれである。
だが、彼らの表情は、一様に厳しかった。まるで、領国を脅かす大罪人を糾問するかのような冷ややかさである。
アルベルトは思わず背筋を伸ばし、怪訝そうに眉をひそめた。
「……三人揃って何の用だ。領内に何か緊急事態でも発生したのか?」
最初に口を開いたのは、妹のエリスだった。彼女は優雅に扇子を広げ、氷のような瞳でお兄様を射抜いた。
「ええ、大緊急事態ですわ、お兄様。……単刀直入に申し上げますけれど、今度の王都の夜会、ヴィオラさんをお連れするのでしょう? 彼女に着せるドレスの予算を、お兄様が渋っていると伺いましたの」
「ドレスの予算……? は? 何の話だ」
アルベルトが目を丸くすると、すかさずセバスチャンが前に出た。
「旦那様。王都の最高級ブティックから取り寄せた、サファイアをあしらった最高級のシルクドレスの請求書でございます。旦那様が『あんな派手なものは不要だ』と、保留にされたとお聞きいたしました」
「セバスチャン、お前……! 私はただ、あの女は『飾り』なのだから、王都の流行りに合わせた華美なドレスなど身の丈に合わないと言っただけだ。それに、あいつ自身、実家が貧しかったからと、安いシンプルなドレスで十分だと言っていたぞ」
「お兄様、それがヴィオラさんの『お優しさ』であり『健気さ』だということに、なぜ気づかないのですか!?」
エリスがバンとテーブルを叩いた。その勢いに、アルベルトは思わず気圧されて半歩のけぞる。
「ヴィオラさんは、お兄様の財政(※実際は国が買えるレベルで潤っている)を気遣って、あえて自分から『安いドレスでいい』と仰ったのですわ! それを真に受けて本当に安物を着せるなんて、ハルシュタット家の男として、いえ、一人の男として、恥ずかしいとは思わないのですか!?」
「な、なぜ私がそこまで言われねばならん……!」
「エリスの言う通りだぜ、アル」
ロランがニヤニヤしながら、アルベルトの肩をポンと叩いた。
「俺たち騎士団の野郎どももな、みんな怒ってるんだぞ。義姉上はな、毎日練習場に冷たい特製レモネードを差し入れてくれて、汗だくの俺たちに『皆様がハルシュタット領を、そして旦那様をお守りくださっているのですね。本当に尊敬いたしますわ』って、あの天使みたいな笑顔で言ってくださるんだ」
「ロラン、お前まで……」
「その天使を、ハルシュタット家の主人が安物のドレスで王都の夜会に立たせるなんて、騎士団の士気に関わる。なんなら、ドレスの費用は俺の給料から天引きしてくれても構わねえぞ?」
「お前たちの給料を天引きして妻のドレスを買うなど、それこそ辺境伯家の恥だろうが!」
アルベルトが叫んだ。彼の端正な顔は、怒りと困惑で沸騰しそうに真っ赤になっている。
「待て。おかしいぞ。なぜお前たちは、出会って数日しか経っていないあいつのために、そこまで必死になるんだ!? 私がお前たちをどれほど信頼し、目をかけてきたと思っている!」
セバスチャンが冷徹な表情のまま、深く一礼した。
「旦那様への忠誠と、ヴィオラ様への敬愛は別個のものでございます。あのお方は、長年腰痛に苦しむ私に魔法の生姜紅茶を淹れてくださるお優しいお方。あの高潔な奥様を冷遇する主君であれば、たとえ旦那様であっても、私は諫言を惜しみません」
「お兄様、もし王都の夜会でヴィオラさんに恥をかかせるようなことがあれば、私はロランと子どもたちを連れて、実家に戻らせていただきますからね。あ、もちろん、ヴィオラさんも一緒に連れて帰りますわ」
「なっ……! エリス、お前、ハルシュタット家の跡継ぎ候補の母としての責任は……!」
「ヴィオラさんを虐めるようなお兄様に、我が子を預けられるはずがありませんもの。それでは、ご機嫌よう」
エリスはふんと鼻を鳴らし、踵を返して去っていった。
ロランも「じゃあな、お坊ちゃん。せいぜい財布の紐と、自分の器の小ささを反省するんだな」と爆笑しながら後に続く。
残されたのは、アルベルトと、鉄面皮のセバスチャン。
「……セバスチャン。私は、お前にあの女を『監視』しろと言ったはずだ」
「はい。しっかりと見守らせていただいた結果、ヴィオラ様こそハルシュタット家の真の主人にふさわしいと判断いたしました。旦那様、無駄な抵抗はおやめください」
「私は、あいつを信用せんぞ! 絶対に騙されん!」
「左様でございますか。では、ドレスの承認サイン、こちらにいただけますでしょうか。ヴィオラ様を王都の夜会で世界一輝かせるため、すでに馬車の整備も終えております」
「……っ、この、裏切り者め……!」
アルベルトはギリと歯を噛み締めながら、羽ペンをひったくるようにして、サファイアのドレスの請求書に乱暴にサインを書き殴った。
「これでいいのだろう! 早く私の前から消えろ!」
「賢明なご判断、恐れ入ります、旦那様」
セバスチャンは満足げに一礼すると、音もなく部屋を退出していった。
静寂が戻った執務室。
アルベルトはドサリと椅子に座り込み、両手で顔を覆った。
「なぜだ……。なぜ、私の周囲の人間が、全員あの女の味方になっている……?」
筆頭執事。騎士団長。実の妹。使用人一同。
かつて彼を守っていた鉄壁の防衛網は、今や完全にヴィオラの手中に落ち、その銃口(※温かい説教)はすべてアルベルト本人へと向けられている。
「……私は、冷遇しているはずだ。愛も、会話も、与えていない……」
自分に言い聞かせるように呟くアルベルト。
しかし彼の頭には、昨夜、薄手のガウン姿で「旦那様の温かいお子をこの手で抱けるのなら……」と潤んだ瞳で囁いてきたヴィオラの姿が鮮明に浮かんでいた。
そのたびに、彼の理性がカチカチと狂おしく音を立てる。
「っ、また頭が熱くなってきた……。シャワーを、冷水シャワーを浴びねば……!」
アルベルトはふらつく足取りで、執務室を飛び出していった。
* * *
一方、その頃。
陽の差し込む美しい図書室で、ヴィオラは優雅にハーブティーを飲みながら、3年前の帳簿をペンでなぞっていた。
窓の外では、庭師たちが「ヴィオラ様、今日の薔薇は一番綺麗なものを飾っておきました!」と元気に手を振っている。ヴィオラはそれに愛らしい笑顔で応え、振り返った。
(ふふっ、外堀、完全に埋まったわね)
彼女の頭脳は、銀座の超人気店をコントロールしていた時と同じように、極めて冷静に状況を処理していた。
(セバスチャン様を落としてインフラと情報網を制覇。ロラン騎士団長を落として警備と物理の力を掌握。そして妹のエリス様を落としたことで、ハルシュタット家における私の『絶対的安全地位』を確立した)
これで、アルベルトがいくら「冷遇する」と息巻いたところで、周囲の人間がそれを絶対に許さない。ヴィオラを追い出そうとすれば、ハルシュタット領のシステムそのものが機能停止するレベルの「ヴィオラ包囲網」が完成したのだ。
(さて、アルベルト様。あなたは『金でしか人を縛れない』と絶望していたけれど……。
お金なんか一ペニーも使わなくても、人の心はこうやって簡単に繋ぎ止められるのよ。
王都の夜会、とっても楽しみ。
あなたのその不器用で、本当は優しくて、傷だらけの心……。
王都のすべての貴族たちの前で、世界一誇らしげに、私の手の平の上で踊らせてあげるから、覚悟しておきなさいね♪)
ヴィオラはあざとく、しかし前世の頂点を極めた女としての不敵な微笑みを浮かべ、紅茶をそっと飲み干すのだった。
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