第8話:前妻たちの追放理由と、アルベルトのトラウマ
ハルシュタット辺境伯邸、図書室の片隅。
ヴィオラは、アルベルトから手渡された三年前の分厚い帳簿と格闘していた。
……格闘、というのは表向きのポーズで、彼女の頭脳はエクセルのごとく高速で数字を処理している。
「ふむ……。この開拓地のデータ、単純な計算ミスだけじゃないわね。明らかに意図的に『抜かれて』いる箇所がある。それに、この時期に不自然な高額の支出が何度も……」
ヴィオラが呟いた瞬間、すっと影が落ち、温かいハーブティーが机に置かれた。
「ヴィオラ様。少々根を詰めすぎではございませんか。息抜きに、こちらのカモミールとオレンジピールのお茶をどうぞ」
「まあ、セバスチャン様。ありがとうございます」
ヴィオラはペンを置き、可憐な笑みを浮かべてカップを受け取った。
セバスチャンは、机の上に広げられた帳簿の、付箋だらけのページを見て、細い目をさらに細めた。
「……驚きました。ただ埃を払うだけの雑用として旦那様はお渡しになったはずですが、本当に解読されているのですね」
「ええ。数字は嘘をつきませんから、実家での家計簿整理よりもずっと面白いですわ。……でも、セバスチャン様。少し気になることがあって」
ヴィオラはカップをソーサーに戻し、少し声を潜めてセバスチャンを見上げた。
「この三年前の帳簿……開拓事業の資金から、特定の商会へ奇妙な流出があります。そして、その直後に『五人目の奥様』がハルシュタット家を去られた時期と、完全に一致しているのですが……」
セバスチャンの背筋が、一瞬だけ硬直した。
彼は深くため息を吐き、困ったように眉を下げた。
「……やはり、お気づきになりましたか。ヴィオラ様の聡明さには、恐れ入るばかりです」
「私、このお屋敷の『飾り』ですけれど、旦那様を脅かす不穏な影があるなら、知っておきたいのです。……過去の奥様方は、本当はなぜここを去られたのですか?」
セバスチャンは誰もいない図書室を見回し、やがて静かに語り始めた。
「……旦那様は、二十代前半という若さで、多額の債務を抱えたこの領地を引き継がれました。血の滲むような努力で経済を立て直されましたが、その過程で、五人の女性を妻として迎えられました。……ですが」
セバスチャンの声が、沈痛な色を帯びる。
「一人目は、隣国が送り込んできたスパイでした。二人目は、ハルシュタット家の財産を実家に横流ししようとした女。三人目は、領内の機密情報を売却しようとし……四人目と五人目は、あろうことか領地の土地の権利書を偽造し、他国へ売り払おうとしたのです」
「……全員、お金と情報が目的だったのですね」
「はい。彼女たちは一様に、最初は甘い言葉で旦那様に擦り寄り、裏で牙を剥きました。旦那様が『愛も会話も期待するな』と仰るのは、心を閉ざしているからだけではありません。そう言って突き放した時の、相手の『落胆』や『怒り』の熱量で、自分に近づいてきた目的を見極めるための、防衛策なのです」
ヴィオラは静かに話を聞きながら、胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じていた。
前世の銀座や歌舞伎町でも、同じような男たちを嫌というほど見てきた。
夜の街で札束を叩きつけ、「女なんて金でどうにでもなる」と豪語する、傲慢な社長たち。
彼らは一見、冷酷で強欲に見えるが、その中身は誰よりも臆病だった。
『金がなければ、誰も自分を見てくれない。愛してくれない』という、狂おしいほどの恐怖と孤独に怯えているのだ。
(アルベルト様も、同じ。……金しか愛さない、金で人を支配する経済の悪魔、だなんて。
本当は、そうじゃない。金でしか人間を繋ぎ止められないと、絶望しているだけじゃない。
愛され方を知らない、ただの、寂しい迷子なんだわ)
ヴィオラの中で、前世から培ってきた「プロフェッショナルな女としての母性」と、一人の男を救いたいという「本気の火」が、静かに、しかし激しく燃え上がった。
(ただの『優良な太客』だなんて思っていて、ごめんなさいね、アルベルト様。
……決めたわ。
あなたのその分厚くて冷たい鎧、私の知性と、ありったけのあざとさで、全部溶かしてあげる。
お金なんかなくても、あなたが世界で一番愛される男だって、教えてあげるから)
ヴィオラが拳をきゅっと握りしめていると、背後から低い声が響いた。
「……セバスチャン。何をしている」
「っ、旦那様」
振り返ると、そこには腕を組み、不機嫌そうに佇むアルベルトの姿があった。
目の下にはまだ少しクマがあるが、今日も完璧に整った美貌だ。
セバスチャンは平然と一礼した。
「これは旦那様。ヴィオラ様の計算があまりに見事でしたので、つい話し込んでしまいました」
「ふん、ただの帳簿の書き写しだろう。大げさな奴め。……セバスチャン、お前は執務室に戻れ。私の紅茶が冷めている」
「はっ。ただちに」
セバスチャンはヴィオラに深く一礼し、楽しげな笑みを微かに浮かべて図書室を後にした。
残されたのは、アルベルトとヴィオラ。
アルベルトは無言で近づき、机の上の帳簿を乱暴に覗き込んだ。
「……どうだ。零細貴族の家計簿とは違うだろう。難しすぎて、泣き言を言いたくなったか?」
いつもの冷酷な、突き放すようなトーン。
しかし、ヴィオラにはもう、その言葉が「俺をこれ以上傷つけるな」という、必死の威嚇にしか聞こえなかった。
ヴィオラはすっと立ち上がり、あえて彼との距離を、あと一歩だけ詰めた。
甘いジャスミンの香りが、二人の間の空気を満たす。
「いいえ、旦那様。……とっても、面白く拝見しておりますわ」
「面白い、だと? 辺境領の開拓資金のデータがか?」
「はい。これを作られた当時の旦那様は、この土地の領民の方々が少しでも豊かな暮らしができるよう、本当に細かく、何度も計算をやり直されていますわ。……この数字の端々に、旦那様の『お優しさ』と『温かい責任感』が溢れていて、私、感動してしまいましたの」
「っ、何を、馬鹿なことを……!」
アルベルトの顔が、一瞬で赤く染まった。
彼は狼狽し、視線を泳がせる。
「数字の計算だぞ! 優しさなど関係ない! 私はただ、無駄な損失を出さないよう、徹底的に効率を求めただけだ!」
「いいえ。本当の悪魔なら、領民の生活など考えず、自分だけが肥えるための数字を作りますわ。でも、旦那様の数字は違います。……旦那様は、とてもお優しくて、孤独なお方なのですわね」
ヴィオラはそっと、アルベルトのジャケットの袖口に触れた。
細く、白い指先が、彼の頑なな心を包み込むように。
「ヴィオラ……お前、何のつもりだ。私を騙そうとしても無駄だぞ。お前がどんなに健気な妻を演じようと、私はお前を信用せん」
アルベルトの青い瞳に、警戒と、そして何より「拒絶されたくない」という怯えが混ざり合う。
ヴィオラは、彼を見つめた。
今度はあざとい演技の瞳ではない。前世の頂点を極めた女としての、限りなく深く、本物の慈愛に満ちた瞳で。
「信じなくて結構ですわ、旦那様。……信じられなくなるほど、たくさん傷ついてこられたのですものね」
「な……」
「私は、ただここにいます。旦那様が私を『飾り』とお呼びになるなら、私は世界一美しい飾りとして、旦那様の隣で笑っていますわ。旦那様がいつか、人を信じることに疲れて、誰のことも見たくなくなったその時まで……私はずっと、貴方様だけの味方です」
「お、お前は……一体……」
アルベルトは息を呑んだ。
言葉が出ない。
過去の妻たちは、彼が「信用しない」と言えば、怒り狂うか、弁明を喚き散らした。
だが、この18歳の少女は、彼の「人間不信」そのものを肯定し、包み込もうとしている。
ドクン、とアルベルトの胸の奥で、かつてないほど激しい音が響いた。
彼の心に築かれた、どんな大軍の攻撃にも耐えてきた鉄壁の城壁が、砂のお城のようにサラサラと崩れていくような――そんな、恐ろしくも甘い感覚。
「……仕事がある。私は、戻る」
アルベルトはヴィオラの手を振り払うようにして、背を向けた。
しかし、その足取りは明らかに乱れており、去り際の耳の裏は、冷水シャワーが必要なほど真っ赤に染まっていた。
ヴィオラは、遠ざかる彼の広い背中を見つめながら、静かに、不敵に微笑んだ。
「ふふ……。これで完全にターゲットロックオンね。
待っていなさい、アルベルト様。あなたのその傷だらけの心、私が極上の『愛』で、溢れるくらいに満たしてあげるわ」
元高級ホステスの「本気の旦那様攻略オペレーション」が、今、真の幕を開けたのだった。
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