第7話:おねだりの技術(※ただし求めるのは金ではなく仕事)
ハルシュタット辺境伯邸、旦那様の執務室。
「……はぁ」
豪奢なデスクに向かうアルベルトは、本日何度目か分からない深いため息を吐いていた。
整った顔立ちは美しくも、目の下にはうっすらとクマが浮かんでいる。
(昨夜のせいで、全く眠れなかった……。あの小娘、今朝も食堂で平然とした顔をして『旦那様、ゆうべはよくお休みになれました?』などと聞いてきおって……!)
耳の裏がじわりと熱くなるのを自覚し、アルベルトは冷たい紅茶を喉に流し込んだ。
冷水シャワーを浴びすぎて、若干風邪気味な気さえする。
そんな主人の様子を、傍らに控えるセバスチャンは慈愛に満ちた(※生温かい)目で見つめていた。
「旦那様。最近、少々寝不足のご様子。セバスチャン特製の、体を芯から温めるハーブティーをご用意いたしましょうか? 冷えは万病の元にございますよ」
「黙れ、セバスチャン。私は、平気だ」
「左様でございますか。……ですが、あまり冷水シャワーを浴びすぎると、お肌の水分が失われてしまいますので、ほどほどになさってくださいませ」
「な、なぜお前が冷水シャワーのことを知っている……!」
「屋敷の給湯管理を任されているのは、この私でございます。深夜にあれほど凄まじい量の冷水が消費されていれば、嫌でも気づきますよ。……おやおや、耳まで赤くなって。やはり微熱がおありなのでは?」
「違うと言っているだろう!」
アルベルトがペンを叩きつけたその瞬間、トントン、と小気味よいノックの音が響いた。
「旦那様。お仕事中、恐れ入ります」
扉が開くと、そこに立っていたのは薄いピンク色の可憐なドレスを着たヴィオラだった。
その手にはトレイはなく、ただ小さく両手を前で組んでいる。
セバスチャンがすっと一礼し、ヴィオラを迎え入れた。
「ヴィオラ様。旦那様はちょうどお仕事の一段落がついたところでございます。どうぞお入りください」
「余計な配慮をするな、セバスチャン」
アルベルトは咳払いをして姿勢を正し、ヴィオラを鋭く睨みつけた。
「ヴィオラ。……私に何か用か。言っておくが、お前のために割く時間はそう多くない」
「はい、重々承知しておりますわ、旦那様。……あの、お忙しいところ本当に申し訳ないのですが、旦那様に、どうしても一つだけ……お願いがありまして、参りましたの」
ヴィオラは恥ずかしそうに頬を染め、視線を泳がせながら、ドレスの裾をきゅっと掴んだ。
(――キタキタ、ついに本性を見せる時が来たな!)
アルベルトの脳裏に、かつて屋敷から追い出してきた過去の妻たちの姿がよぎった。
彼女たちは一様にある程度日が経つと、ねだり始めたのだ。
『アルベルト様、王都で流行りのダイヤモンドのネックレスが欲しいわ』
『ハルシュタット家の名にふさわしい、特注のシルクドレスを十着仕立てさせてちょうだい』
金。宝石。地位。ドレス。
アルベルトは椅子の背もたれに深く体重を預け、冷酷な笑みを浮かべた。
「ふん。お願い、だと? 構わん、言ってみろ。お前がハルシュタット家の名を使って何を欲しがっているのか、この耳で聞いてやろう」
(どうせ、貧乏男爵家を助けるための融資か、王都の最高級ブランドのカタログの請求だろう。金で釣られる浅ましい女だと分かれば、私の心もこれ以上揺らがずに済む。さあ、言え!)
身構えるアルベルトに対し、ヴィオラは小さく息を吸い、上目遣いで彼を熱烈に見つめた。
「あの……。旦那様。私に、ハルシュタット領の『過去の帳簿』を見せていただけないでしょうか?」
「………………は?」
アルベルトの思考が完全に停止した。
数秒前まで用意していた「やはり金か、身の程を知れ」という軽蔑のセリフが、すべて霧のように霧散していく。
「お前……今、なんと言った?」
「はい。ハルシュタット領の、過去の帳簿……。できれば、数字の計算や書類が山積みになっている古い倉庫の資料でも構いませんわ。そちらを、私に閲覧するお許しをいただきたいのです」
「帳簿だと……!? 金や、ドレスではなく、帳簿をよこせと言うのか?」
「ええ、そうですわ」
ヴィオラはあざとく首を傾げ、小首をかしげて見せた。
(――ふふっ、バカね、28歳のこじらせ旦那様。
銀座や歌舞伎町のNo.1ホステスが、最初の『おねだり』でブランドバッグや現金をせびるわけないでしょ?
そんなことしたら『ただの金目当ての女』のフォルダに入れられて、一気に警戒レベルが上がるだけ。
本当のプロはね、おねだりを使って『相手の役に立つこと』や『相手のテリトリー(仕事)に深く関わる口実』をねだるのよ。
そして何より、男は自分の得意分野で頼りにされるのが一番嬉しい生き物なの!)
ヴィオラは一歩、デスクに近づき、胸の前で両手をぎゅっと握り合わせた。
「私、昨夜も申し上げました通り、ただ寝て食べるだけの飾りでいるのが心苦しいのです。旦那様は、この広大な領地をその素晴らしい知恵と、莫大な責任を背負って豊かにしていらっしゃる……。そんな、世界一立派な旦那様の背中を、ただ見ているだけなんて、私には耐えられませんの」
「う、世界一立派……?」
アルベルトの心臓が不意打ちで跳ね上がった。
「はい! 私は、旦那様のように国を、領民を守るために数字と戦うお姿を、心から尊敬しております。ですから……私にできることで、少しでも旦那様の負担を減らしたいのです。実家では、貧しかったので、毎日家計簿の計算や古い領地の数字の整理を私がやっておりましたの(※大嘘です。銀座の高級クラブの売上金や、顧客データベースをエクセルでゴリゴリ管理してました)。数字の計算だけは、少しだけ自信がありますわ!」
ヴィオラはきらきらとした、純粋無垢な(※演技です)瞳でアルベルトを見つめ直した。
「ですから、古い不要な帳簿で構いません。旦那様、私に『お仕事』をください。それが、私が旦那様の隣にいるための、唯一の小さなおねだりですわ……!」
「お、お仕事……」
アルベルトは完全に毒気を抜かれ、呆然とヴィオラを見つめていた。
警戒心はどこへやら、彼の頭の中は巨大な疑問符で埋め尽くされている。
(金目当てではない? 飾りでいるのが心苦しいから、埃をかぶった古い帳簿の計算を手伝いたい、だと……? しかも、私の仕事を『尊敬している』と……?)
「……ふっ、旦那様。素晴らしいおねだりでございますな」
傍らで、セバスチャンがハンカチで目元を押さえながら、深く感動したように呟いた。
「これほど旦那様を深く理解し、その重責に寄り添おうとされる奥様が、かつていらしたでしょうか。いや、おりません。過去の五人のスパイどもとは、魂の気高さが違います」
「セバスチャン! お前は黙っていろ!」
アルベルトは赤くなった顔を隠すように、片手で額を押さえた。
しかし、ヴィオラを見据える青い瞳には、これまでのような「冷酷な拒絶」ではなく、明らかに「戸惑い」と「強い好奇心」が混ざり始めていた。
「……ヴィオラ。お前、自分が何を言っているか分かっているのか? 辺境伯領の帳簿は、零細貴族の家計簿とは桁が違う。数字の一文字、計算の一つのズレが、何千人もの領民の生活に関わるのだぞ。お前のような世間知らずの令嬢にできるはずがない」
「はい。ですから、まずは使われなくなった過去の古い資料や、埃をかぶった未整理の領地統計など、失敗しても旦那様のご迷惑にならないものからで結構です。……旦那様。お願いです、私を、少しだけ信じてはいただけませんか……?」
ヴィオラはそっとデスクに手を置き、すがるようにアルベルトの顔を覗き込んだ。
その可憐な瞳に、アルベルトの頑なな胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
(信じる……? 私が、他人を……?)
「……ふん」
アルベルトは、彼女から目をそらすように視線を落とした。
引き出しを開け、そこから埃をかぶった一冊の分厚い革表紙の帳簿を取り出す。
「……これは、三年前の領内の一部開拓地の、未整理の収支データだ。数字の転記ミスや端数のズレが多く、今では使われていない。……埃を払う雑用としては十分だろう。せいぜい、一週間かけて数字が合うか計算してみるがいい」
ヴィオラは、差し出された帳簿を、まるで世界一の宝物を受け取るかのように、両手で恭しく、大切そうに抱きしめた。
「まあ……! ありがとうございます、旦那様! 私、一生懸命がんばりますわ。……あ、でも、分からないところがあったら、お仕事の邪魔にならない程度に、質問してもよろしいでしょうか?」
「……勝手にするがいい。だが、私の時間は高いぞ」
「ふふ、はい! 旦那様のお時間をいただけるよう、素晴らしい結果を出してみせますわね」
ヴィオラは完璧なお辞儀をして、嬉しそうに、弾むような足取りで執務室を出て行った。
パタン、と扉が閉まる。
静寂が戻った執務室で、アルベルトはぽつりと呟いた。
「……セバスチャン」
「はっ」
「あの女は……一体、何を企んでいるんだ。本当に、ただの雑用をやりたかっただけなのか?」
「さて……。私には、旦那様を少しでも支えたいという、奥様の健気な愛にしか見えませんでしたが。これでお二人の間に『共通の話題(お仕事)』ができましたな」
「だ、誰が共通の話題など……!」
アルベルトは再びペンを握り直したが、机の上の書類の文字は、どうしても頭に入ってこなかった。
(過去の帳簿。数字の計算。……本当に、あいつにできるのか? いや、零細貴族の小娘だ、途中で嫌になって泣き出しておねだりを撤回するに決まっている。……そうだ、そうに決まっている……)
そう自分に言い聞かせるアルベルトだったが、胸の奥で、カチリ、と静かに、彼の「人間不信」という頑丈な城壁の歯車が、狂い始めている音だけは、止めることができなかった。
お読みいただきありがとうございます。
平日は 19:40 の一話更新で投稿させていただきます。




