第6話:夜の営み(仮)の防衛線と冷水シャワー
深夜、ハルシュタット辺境伯邸の主寝室。
アルベルトは寝室に併設された書斎スペースで、深夜まで書類を睨みつけていた。
普段なら驚異的な集中力で仕事を片付ける彼だが、今夜ばかりは全くペンが進まない。
(エリスのやつ……。あの小娘にすっかり絆されて、王都の夜会に連れて行くなどと、勝手なことを……!)
昼間の妹・エリスの豹変ぶりが、どうしても頭から離れなかった。
あの完璧主義で、過去の妻たちを容赦なく「浅ましい害虫」と切り捨ててきた妹が、わずか数時間で「お兄様には勿体ない」とヴィオラを絶賛したのだ。
「一体、どんな魔術を……」
アルベルトが眉間を指先で揉みほぐした、その時だった。
トントン、と遠慮がちな、しかし確かなノックの音が静寂を破る。
「……セバスチャンか? 入れ」
「旦那様。……夜分遅くに、申し訳ありません」
扉を開けて入ってきたのは、筆頭執事ではなく、淡いシルクの水色のネグリジェに薄手のガウンを羽織ったヴィオラだった。
「ヴィ、ヴィオラ……!? お前、なぜここにいる」
アルベルトは弾かれたように椅子から立ち上がった。
同時に、彼の鼻腔を、甘く、それでいてどこか清廉な香りがかすめる。
ジャスミンと、ほんの少しのバニラ、そして緊張をほぐすハーブを絶妙に調合した香り――前世の銀座で「男を最もリラックスさせ、かつ理性をわずかに狂わせる」と実証されていた極上の香油だ。
ヴィオラは両手で大切そうにトレイを持っていた。そこには、温かいお茶の入ったカップが一つ載っている。
「旦那様。夜遅くまでお仕事をされていると、セバスチャン様から伺いましたの。……あの、少しでもお疲れが癒えればと思いまして、体を温めるカモミールティーをお持ちいたしましたわ」
「そんなものは不要だ。私は『私の寝室には二度と近づくな』と言ったはずだぞ」
アルベルトはわざと声を低くし、威圧するようにヴィオラを睨みつけた。
だが、ヴィオラは怯えるどころか、大きな瞳にじんわりと涙を溜め、きゅっと唇を噛み締めて彼を見上げた。
「はい……。旦那様のご命令は重々承知しております。ですが、私……どうしても、妻としての『最大の責務』を果たしたくて、勇気を振り絞ってまいりましたの」
「最大の責務……?」
アルベルトが不審げに眉をひそめると、ヴィオラはトレイをそっとデスクに置き、俯きながら自分の指先をいじいじと動かし始めた。
そして、耳まで真っ赤に染めて(※演技です)、蚊の鳴くような声で囁いた。
「ノイシュタット家とハルシュタット家を結ぶ、架け橋として……。旦那様の、お、お子を……授かる、お勤め、を……」
「ぶっ……!!」
アルベルトの喉から変な音が漏れた。
(――キタキタキタキタ! 28歳の冷血こじらせチェリーちゃん! この「18歳のうぶな少女が、恥ずかしさを必死にこらえて覚悟を決めた告白」に勝てる男がいたら、前世の歌舞伎町でNo.1なんてやってないわよ!)
ヴィオラは心の中で不敵に笑いながら、さらに追撃をかける。
すっとアルベルトに一歩近づき、あざとい上目遣いで彼を見つめた。
「私、18歳。まだ至らないところばかりで、夜の、その……夫婦としての営みの作法も、何も分かりません。ですが、旦那様にお教えいただけるのでしたら、私、どんなことでもお応えいたしますわ。旦那様のためなら、恥ずかしくありませんもの……っ」
「お、お前は……何を、何を言っているんだ……!」
アルベルトの脳内は完全に大パニックを起こしていた。
顔は瞬時に沸騰したかのように赤くなり、視線をどこに置けばいいのか分からず、泳ぎまくっている。
目の前には、薄いシルクのガウンに身を包んだ、息をのむほど可憐な18歳の妻。
開いた襟元からは、白く滑らかなデコルテが覗き、甘く扇情的な香りが彼の理性を容赦なく削り取っていく。
何より、「跡継ぎを作るために覚悟を決めて自分に身を委ねようとしている」という純粋な(※演技です)瞳。
「な、何度も言わせるな! 私はお前に夜の営みなども期待するなと言ったはずだ! 跡継ぎならエリスの子がいる!」
「ええ、存じております。エリス様のお子様はとても愛らしく、素晴らしい後継者候補ですわ」
ヴィオラはそっとアルベルトの夜会服の袖を、細い指先でちょこんと掴んだ。
「ですが……それはそれ、ですわ。ハルシュタット家の血を引く、アルベルト様ご自身の血肉を分けたお子様が欲しくないなんて……そんなはず、ありませんもの。私、旦那様の『飾り』としてだけでも幸せですが……もし、旦那様の温かいお子をこの手で抱けるのなら、一生分の運を使い果たしても構いません」
「ヴィオラ……!」
アルベルトの心臓が、耳元で警鐘を鳴らすようにドクドクと激しく脈打つ。
彼の頑強な理性の壁に、ヴィオラのあざとさと「本物の覚悟(※)」という名のドリルが、ものすごい勢いで穴を穿っていく。
(可愛い。……いや、違う、これは罠だ! 騙されるな! しかし、この体温、この香り、この小さな手……)
「それに……」
ヴィオラはわざと少し困ったように眉を下げ、ガウンの肩をほんの少し滑らせた。
白い肩先と、そこから覗く華奢な鎖骨が露わになる。
「もしかして旦那様。……私の体が、魅力に欠けるとおっしゃるのですか? だから、私をお抱きになりたくないのですか……?」
ウルウルとした瞳で、胸元を手で押さえながら尋ねる18歳の少女。
アルベルトの理性が、ぷつん、と音を立てて千切れかけた。
「っ……!!」
彼は言葉を失い、喉を鳴らした。
あと一歩、手を伸ばしてその華奢な体を抱き寄せてしまえば、すべてが手に入る。
彼の中の獣が「目の前の妻を奪え」と猛り狂う。
しかし、28年間培ってきた「経済の悪魔」としての、そして「人間を信用しない」という最後のプライドが、彼を辛うじて引き止めた。
「……あ、頭を、冷やしてくる……!」
「えっ? 旦那様?」
ガタアッ!! と激しい音を立てて椅子が倒れる。
アルベルトはヴィオラの指先から逃れるように飛び退くと、そのまま寝室に隣接したバスルームへと猛ダッシュで駆け込んだ。
バタン!!! と激しい音を立てて扉が閉まり、鍵がかかる。
「あら。逃げちゃったわ」
誰もいなくなった主寝室で、ヴィオラは滑らせていたガウンの肩をすっと元に戻し、お茶を一口すすった。
「うん、カモミールティー、完璧な抽出加減ね。……それにしても、28歳でこれほど純情なんて、本当に極上の物件だわ。もう少しで落ちそうだったけど、まあ、初日の夜戦としてはこれくらいで勘弁してあげる」
ヴィオラは楽しげにクスクスと笑うと、トレイを持って軽やかな足取りで部屋を出て行った。
一方、閉め切られたバスルームの中。
「はぁ……! はぁ……! くそっ、なんだあの小娘は……! 一体何を考えている……!」
アルベルトは服を着たまま、シャワーの蛇口を全開に回した。
頭上から降り注ぐのは、凍りつくような冷水。
「冷た……っ! いや、これでいい。……これで冷やさなければ、私は……」
冷水を浴びながら、アルベルトは壁に頭を押し付けた。
体は冷えていくのに、耳の裏の熱さと、ヴィオラの甘い香りが、どうしても脳裏から消えてくれない。
(私はあの女を信用しない。……絶対に、流されない。だが……)
その夜から、ハルシュタット辺境伯の寝室からは、毎晩のように激しい冷水シャワーの音が響き渡ることになる。
そして翌朝、完璧な「見守りおじさん」と化したセバスチャンから、「旦那様、最近少しお肌が荒れていらっしゃいますな。冷えは万病の元でございます」と、優しく心配されるアルベルトなのであった。




