第10話:冷酷辺境伯、初めて妻の笑顔に胸が騒ぐ
ハルシュタット辺境伯邸、二階の回廊。
「……信じられん」
アルベルトは手すりに両手を置き、中庭を見下ろしながら、本日何度目か分からない呟きを漏らしていた。
眼下に広がる薔薇の庭園。
いつもなら静謐そのものであるはずのその場所に、今、奇妙な人だかりができていた。
輪の中心にいるのは、言うまでもなくヴィオラである。
彼女の隣には帰省中の妹・エリスが座り、幼い姪のチェルシーがヴィオラの膝の上で嬉しそうに絵本を広げている。
少し離れた場所では、騎士団長のロランが何やら身振り手振りを交えて武勇伝を語っており、それを筆頭執事のセバスチャンが生温かい目で見守っている。
さらには、厨房から抜け出してきた巨漢の料理長や、メイドのアニーまでもが、遠巻きに彼女たちを見つめて優しげに微笑んでいた。
「あはは! ロラン様、それは本当に傑作ですわ! でも、旦那様がそんなにお慌てになるなんて、想像しただけで愛らしいですこと」
ヴィオラの鈴を転がすような笑い声が、風に乗って二階の回廊まで届く。
その笑顔は、アルベルトがこれまで見てきた、あざとく計算し尽くされた「おもてなしの微笑み」ではなかった。
陽光を浴びてキラキラと輝く、少女らしい、心からの屈託のない笑顔。
ドクン、とアルベルトの胸の奥で、小さく不穏な音が響いた。
(……な、なんだ? 今の感覚は……)
アルベルトは思わず、自分の左胸に手を当てた。
心拍数が、不自然に上がっている。
不整脈だろうか。あるいは、最近の寝不足と冷水シャワーの浴びすぎによる、体調不良の前兆だろうか。
「おや、旦那様。あんな場所で何をしておいでですか?」
不意に背後から声をかけられ、アルベルトは肩を跳ね上げて振り返った。
いつの間にか背後に立っていたのは、セバスチャンだった。その手には、これまたヴィオラから伝授されたであろう、ジンジャーの香るお茶が載ったトレイがある。
「セ、セバスチャン……! 気配もなく近づくなと言っているだろう!」
「これは失礼いたしました。旦那様があまりにも熱心に中庭を見つめていらっしゃったので、お声をかけるのを躊躇してしまいまして」
「見つめてなどいない! 私はただ、領内の風紀と防犯上の観点から、中庭の様子を観察していただけだ!」
アルベルトは苦しい言い訳を並べ立て、ふいと顔を背けた。
しかし、セバスチャンはすべてを見透かしたような、いつもの鉄面皮に微かな笑みを浮かべる。
「左様でございますか。……ヴィオラ様がこのお屋敷に来られてから、まだ十日ほどですが。ずいぶんと、屋敷が明るくなりましたな。皆、ヴィオラ様のことが大好きなのです」
「……あいつは、ただの『飾り』だ。お前たちまで揃いも揃って腑抜けてどうする」
「いいえ。腑抜けているのではございません。ヴィオラ様のあの高潔で健気なお姿に、皆、心から敬意を払っているのです。旦那様も、そうはお思いになりませんか?」
「思わん。私はあの女を、一ミリも信用していない」
アルベルトが頑なに言い張った、その時だった。
中庭にいるロランが、二階の回廊に佇むアルベルトの姿に気づいた。
「おーい! アル! お前もあそこに突っ立ってないで、こっちに降りてこいよ! 義姉上の淹れてくれた冷たいハーブティー、めちゃくちゃ美味いぞ!」
ロランが大きく手を振って叫ぶ。
その声につられて、中庭の全員の視線が一斉にアルベルトへと向けられた。
ヴィオラも、ゆっくりと顔を上げた。
そして、回廊のアルベルトと目が合うと、彼女の瞳が嬉しそうに細められた。
ヴィオラは膝の上のチェルシーをそっと下ろすと、立ち上がり、アルベルトに向かって、それはそれは美しく、そしてどこか切なげな、とっておきのあざとい微笑みを投げかけた。
――私、いつでも貴方様をお待ちしておりますわ、旦那様。
声は届かなかったが、彼女の唇の動きが、そう言っているのがはっきりと分かった。
そして、彼女はそっと自分の胸元に手を当て、慈愛に満ちた瞳でアルベルトを見つめ続けた。
ドクン! ドクン! ドクン!
アルベルトの心臓が、耳元で警鐘を鳴らすように激しく暴れ始めた。
顔が、耳の裏が、首筋が、一瞬にして沸騰したかのように熱くなる。
「っ……!!」
アルベルトは息を呑み、たまらず一歩後ずさった。
(な、なんだこれは……! なぜ、これほどまでに胸が苦しい!?)
動悸が止まらない。
呼吸がうまくできない。
全身の血流が狂ったように駆け巡り、脳が正常な思考を拒否している。
「……旦那様? お顔が非常に赤いようですが、大丈夫ですか?」
セバスチャンが真顔で覗き込んできた。
「やはり、毎晩の冷水シャワーが祟って、風邪を召されたのでは……」
「違う! 風邪などではない!」
アルベルトは片手で顔を覆い、掠れた声で叫んだ。
「こ、これは……極限の『警戒心』だ……!」
「はい?」
「あの女は、恐ろしいスパイだ……! 私の側近を奪い、妹を抱き込み、屋敷のシステムを掌握した……! だから、あの女の顔を見るだけで、私の身体が『最大限の防衛本能』を発揮して、アドレナリンを分泌しているのだ……! 心拍数が上がるのも、顔が熱くなるのも、すべてはあの恐るべき敵に対する、我が肉体の戦闘態勢に他ならん……!」
必死に、自分に言い聞かせるように熱弁するアルベルト。
セバスチャンは、ただただ深い、そして生温かい溜息を吐き出した。
「旦那様。それを世間一般では、防衛本能ではなく『恋慕』、あるいは『一目惚れの自覚症状』と呼ぶのでございますが」
「黙れセバスチャン!!! 私は経済の悪魔だぞ!? あんな18歳の、零細貴族の小娘に、この私が……このハルシュタットの主が、心を奪われるなど、天変地異が起きてもあり得ん!!!」
アルベルトは顔を真っ赤にしながら、大声で否定した。
しかし、中庭に再び視線を戻すと、ヴィオラは相変わらず、彼を愛おしそうに見つめて優雅に手を振っている。
その姿を見た瞬間、アルベルトの「防衛本能(※ただの恋心)」は再び限界を突破し、彼はもう限界だった。
「……仕事がある! 私は執務室に戻る! 誰も中に入れるな!」
アルベルトは回廊を飛び出し、自分の執務室へと猛ダッシュで逃げ帰っていった。
パタン、と扉を閉め、豪奢な椅子に倒れ込む。
両手で顔を覆っても、脳裏にはあのヴィオラの、太陽のような笑顔と、あざとい上目遣いが焼き付いて消えてくれない。
「くそっ……! なぜだ、なぜ消えん……! 私の、私の完璧な鉄壁の城壁が……!」
アルベルトはデスクの上の、未だにサインしていない書類を睨みつけた。
外堀は、すでに完璧に埋め立てられていた。
そして今、彼の心の城門すらも、一人の少女の笑顔によって、内側から激しく揺さぶられ始めている。
「私は、絶対に騙されんぞ……! ヴィオラ……お前がどんな怪しい術を使おうと、私は絶対に……絶対に、お前を信用など……っ」
呟く言葉とは裏腹に、彼の心臓は、狂おしいほどの甘い痛みを刻み続けていたのだった。
* * *
一方、その頃。
中庭でハーブティーを飲み干したヴィオラは、去りゆくアルベルトの、明らかに慌てふためいた後ろ姿を見送っていた。
(ふふ、あからさまに動揺して逃げていったわね。28歳の純情旦那様♪)
ヴィオラはあざとく首を傾げ、心の中で勝利のファンファーレを鳴らしていた。
(これで第1段階『アプローチと外堀埋めオペレーション』は、期待以上の大成功でクリアね。
セバスチャン様、ロラン様、エリス様、そして使用人のみんなを完全にファン(常連客)にした。
そして、アルベルト様本人も、私を見るだけで心拍数が跳ね上がるお身体になっちゃった。
『極限の警戒心』なんて可愛い言い訳をしてるけど、男が一度そのフェーズに入ったら、あとはこちらの思い通りよ)
ヴィオラはカップをソーサーに戻し、立ち上がった。
明日からは、いよいよ王都への出発だ。
そこでは、彼女の本当の実力――前世で培った「知性とマーケティング」、そして「欲望をコントロールする技術」を発揮する、本当の戦場が待っている。
(さて、お買い上げいただいたからには、極上のアフターサービスを提供しなくちゃね。
待っていなさい、アルベルト様。
王都のすべての貴族たちに、あなたが世界で一番羨まれる男だってことを、たっぷりと教えてあげる。
そして――あなたのその頑固な心の壁を、一枚残らず綺麗に剥ぎ取って、私の腕の中で甘えさせてあげるから、覚悟しておきなさいね♪)
風に揺れる薔薇の花びらが舞い散る中、18歳の生贄令嬢――その中身である伝説のNo.1ホステスは、極上の獲物を前に、不敵に、そして最高に美しく微笑むのだった。
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