第11話:領地の帳簿を一目で見抜く「夜の街の監査眼」
ハルシュタット辺境伯邸、旦那様の執務室。
明日に迫った王都への出発を控え、室内の空気はいつも以上にピリピリと張り詰めていた。
「……ふぅ。これで、私が領地を空けている間の内政指示書は、一通り完了だな」
アルベルトは羽根ペンをペン立てに戻し、凝り固まった肩を回した。
机の上には、ハルシュタット領の主要産業や、王都滞在中の資金運用に関する極秘資料がうず高く積まれている。
これらを全て一人で精査し、的確な指示を出す。それこそが、彼が「経済の悪魔」と呼ばれる所以たる超人的な実務処理能力だった。
「旦那様。少々よろしいでしょうか?」
重厚な扉が静かに開かれ、可憐なラベンダー色のドレスを身にまとったヴィオラが姿を現した。
その腕には、数日前にアルベルトが「埃払いの雑用」として渡した、三年前の古い未整理の帳簿がしっかりと抱えられている。
アルベルトは椅子の背もたれに深く体重を預け、ふっと冷ややかな笑みを浮かべた。
「ヴィオラか。……どうした、明日からの王都出発を前に、荷造りでも嫌になったか? それとも、その帳簿の数字に頭を痛めて泣きつきにでも来たか?」
「まあ、旦那様。私をそんなに頼りない妻とお思いですか?」
ヴィオラはくすくすと鈴を転がすように笑うと、デスクへと歩み寄り、抱えていた帳簿をそっと置いた。
その上には、数枚の羊皮紙に美しくまとめられた「レポート」が添えられている。
「旦那様からいただいた三年前の開拓地の収支データですが、計算が全て終わりましたので、お返しに参りましたの」
「ほう。一週間もかからずに、ただの書き写しを終えたということか。端数のズレでも数箇所見つけて満足したのだろう。世間知らずの令嬢にしては、よく放り出さずに頑張ったな」
アルベルトは皮肉混じりに帳簿を開き、ヴィオラが添えたレポートに目を落とした。
その瞬間。
ピキリ、と。
アルベルトの思考が、一瞬にして凍りついた。
「…………なんだ、これは」
レポートに並んでいたのは、ただ数字を綺麗に書き直したものではなかった。
そこには、三年前の「第ニ開拓区」における予算執行の、あまりにも緻密な「問題点」が、恐ろしいほどの解像度で指摘されていたのだ。
「……ヴィオラ。この『クロイツェル商会との木材取引における疑問点』とは、一体どういう意味だ」
アルベルトの声から、いつもの冷やかしが消え、冷徹な統治者としてのトーンが戻る。
ヴィオラはあざとく小首を傾げ、人差し指を顎に当てて見せた。
「あら、旦那様。そちらの帳簿、実におかしな箇所がありましたのよ。開拓事業で使う木材の仕入れ価格が、当時の市場平均の『一・四倍』で推移しているのですわ。しかも不自然なことに、仕入れの回数が『六月から八月』の雨季に集中していますの」
「雨季の仕入れがどうした。工事が遅れるからこそ、資材を早めに確保するのは通常の判断だろう」
「いいえ、旦那様。雨季は河川が増水し、木材の運搬コストが跳ね上がる時期ですわ。そんな不利な時期に、わざわざ高値で、しかも例年の三倍もの量を一括で仕入れるなんて、合理的な経営者なら絶対にいたしません」
ヴィオラはスッと目を細め、その可憐な瞳の奥に、銀座の高級クラブを裏で支配していた「頂点の女」としての鋭い光を宿らせた。
「雨の日にわざわざ、普段の数倍の値段で『使わない傘』を大量に仕入れる傘屋はいませんわ。……つまり、この取引は架空のものです。書類上だけで木材が動いたことにして、差額のハルシュタット金貨五百枚は、当時の開拓担当役人とクロイツェル商会の間で綺麗にプール(中抜き)されていますわね」
「っ……!!」
アルベルトの喉が、引き結ばれた。
彼は愕然としてヴィオラを見つめ、それから手元の帳簿を穴が開くほど睨みつけた。
(なぜだ……。なぜ、この女がそれを知っている!?)
この「第ニ開拓区」の不正。
当時、アルベルト自身も微かな数字の違和感に気づき、裏で調査を進めさせていた。しかし、当時は「五人目の妻」の実家が巧妙に役人と商会を抱き込んでカモフラージュしており、証拠を掴めぬまま、最終的にその妻を追放することでうやむやに処理せざるを得なかったのだ。
それを、この18歳の少女は、埃をかぶった帳簿の数字「だけ」から、わずか数日で完全に看破してみせた。
「……お前、なぜこれだけの数字から、そこまでのスキームを導き出せる。当時の事情を、誰かから聞いたのか? セバスチャンか?」
「まさか。セバスチャン様はとても口の堅いお方ですもの、そのようなことは仰いませんわ。……ただ、数字は嘘をつきませんから」
ヴィオラはデスクに両手を置き、少しだけアルベルトに顔を近づけた。
ふわりと漂う、甘く知的なジャスミンの香り。
「不自然なお金の滞りには、独特の『匂い』がいたしますの。……前世、いえ、実家におりました頃、私の周りにもたくさんいましたわ。お店の売上をちょろまかしてライバル店に客を流すキャストや、おしぼりや氷の仕入れ業者からキックバックを貰って私腹を肥やすクズ黒服……。そういう『強欲な人間』が作る帳簿には、必ず決まったパターンがありますのよ」
(まあ、歌舞伎町でも銀座でも、中抜きや横領をする奴の脳ミソなんて、みんな似たり寄ったりだもの。この程度、売上の帳簿と顧客のボトルキープの数を照らし合わせるよりずっと簡単だわ)
ヴィオラは心の中で不敵に笑うが、アルベルトにとっては衝撃以外の何物でもなかった。
「……キックバック? クズ黒服……? 一体何の話だ」
「ふふ、ちょっとした例え話ですわ、旦那様。それよりも、この不自然に消えた金貨五百枚……当時のクロイツェル商会は、今でもこの領地で幅を利かせている『クロイツェル商会』と同一ですわね? 明日からの王都での滞在中、彼らも社交界に顔を出すと伺いましたわ」
ヴィオラはそっと自分の胸元に手を当て、それはそれは健気で、夫を心配する妻の顔を作ってみせた。
「私、旦那様の『飾り』ですけれど。旦那様が大切に育てられたこの領地のお金を、そんな汚いネズミたちに盗まれたままにしておくなんて、絶対に許せませんの。王都の夜会で、この未整理の帳簿……少し『活用』させていただいてもよろしいかしら?」
「活用するだと……? お前、王都で何を企んでいる」
アルベルトは、背筋にゾクリとした戦慄が走るのを感じていた。
目の前にいる少女。
18歳の、貧乏男爵家から売られるようにやってきた、哀れな生贄令嬢。
だが、今の彼女から放たれる圧倒的な知性と覇気は、国を経済的に干上がらせる「経済の悪魔」であるアルベルト自身すらも気圧されるほどのものだった。
「おもてなし、ですわ」
ヴィオラはあざとく、そしてゾクっとするほど美しく微笑んだ。
「ハルシュタット家を舐めているネズミたちに、極上の『アフターサービス』を提供して、二度とこの屋敷の数字を汚さないよう、綺麗にお掃除して差し上げますの。……もちろん、旦那様の『右腕』や『左腕』の皆さまにも、少しだけお手伝いいただきますけれど♪」
アルベルトは、ごくりと喉を鳴らした。
彼は確信した。
この女は、ただの「飾り」などではない。
自分の心の城壁を揺るがすどころか、このハルシュタット領の、そして王都の社交界の勢力図すら、その細く白い指先一つで引っかき回し、再構築してしまうかもしれない――とんでもない「怪物」なのだと。
「……勝手に、するがいい。だが、私の名を汚すような真似だけは許さんぞ」
「ふふ、もちろんでございます。旦那様の完璧なお背中に、泥を塗るようなことはいたしませんわ。……それでは旦那様、明日の出発に備えて、今夜は早めにお休みになってくださいね? 冷水シャワーは、ほどほどに」
ヴィオラは完璧なお辞儀をし、楽しげに笑いながら執務室を去っていった。
パタン、と扉が閉まる。
静寂が戻った執務室で、アルベルトは手元の分析レポートをじっと見つめたまま、しばらく動くことができなかった。
「……ただの小娘が……。なぜ、あそこまでの眼を……」
アルベルトは深く息を吐き、机に突っ伏した。
心臓が、仕事の緊張とは明らかに違う理由で、狂おしいほどに激しく脈打っていた。
明日からの王都。
退屈で忌々しいはずだったその場所が、ヴィオラという存在を得たことで、かつてないほどにスリリングで、そして「楽しみ」な戦場へと変貌しつつあった。
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