第12話:不正を働く商人を笑顔で追い詰める方法
ハルシュタット辺境伯邸、一階の特別応接室。
王都への出発を数時間後に控えた早朝、室内の空気は静かに張り詰めていた。
「ハルシュタット辺境伯閣下。急な呼び出しでしたので、何事かと肝を冷やしましたぞ。……おや、そちらにいらっしゃる可憐なご婦人が、噂の新しい奥方様ですかな?」
豪奢な一人がけのソファに浅く腰掛け、卑屈な笑みを浮かべているのは、クロイツェル商会の代表フランツ・クロイツェルだった。
丸々と太った身体に仕立ての良い上着をまとい、指にはこれ見よがしに大きな宝石の指輪が光っている。
アルベルトは冷ややかな視線をフランツに向け、静かに腕を組んだ。
「……出発前に、どうしても確認しておきたいことがあってな。私の妻が、お前の商会との『過去の取引』について少々興味を持ったのだ」
「ほう、奥方様が、ですか?」
フランツは、アルベルトの隣でラベンダー色のドレスをまとい、おっとりと微笑んでいるヴィオラを値踏みするように見つめた。
その瞳には、隠しきれない侮蔑の色が混ざっている。
(ふん、零細男爵家から売られてきたという、世間知らずの18歳のガキが何を知っているというのだ。まあ、辺境伯に取り入るために、適当に商会の寄付金でもねだるつもりだろう)
そう高く括っているフランツに対し、ヴィオラは鈴を転がすような声で優しく語りかけた。
「はじめまして、フランツ様。クロイツェル商会といえば、この領国でも指折りの大商会。旦那様を長年お支えくださり、新参者の私からも心より感謝申し上げますわ。……どうぞ、まずは温かいハーブティーをお召し上がりになって。長旅の疲れが癒えますわ」
「は、はあ……。ご丁寧にどうも。して、奥方様。そのような大層な商会の代表である私に、一体どのようなご用件で?」
フランツは出されたお茶を一口すすり、余裕の笑みを浮かべた。
「ええ、たいしたことではありませんの。ただ……」
ヴィオラはあざとく小首を傾げ、手元の一枚の羊皮紙をそっとテーブルに滑らせた。
「こちらの、三年前の『第ニ開拓区』における木材取引のデータについて、少しだけ私の頭では理解できない不思議な数字がありまして。優秀なフランツ様に、ぜひ教えていただきたいのですわ」
フランツの眉が、一瞬だけピクリと動いた。
だが、彼はすぐに人好しそうな笑みを貼り直す。
「おや、三年前の開拓事業ですか。ずいぶんと古い帳簿をお持ちですな。あの時の取引は、当時のハルシュタット領の担当役人と、我が商会の間で完全に法に則って処理されたはずですが? 何か問題でも?」
「ええ、その役人様とのやり取りが、実に見事でしたので」
ヴィオラは極上の笑みを浮かべたまま、すっと目を細めた。
「当時の木材の仕入れ価格が、市場平均の『一・四倍』。さらに、運搬コストが最も跳ね上がる『雨季の八月』に、例年の三倍もの量が一括で仕入れられています。……フランツ様。雨の日にわざわざ、普段の数倍の値段で『使わない傘』を大量に仕入れる傘屋が、この世にいるとお思いかしら?」
「それは……!」
フランツの顔から、わずかに余裕が消えた。
「当時の現場は、資材の早期確保が急務だったのです! 工期の遅れを防ぐための、極めて合理的な経営判断でした。辺境伯閣下も、当時はその説明でご納得されたはずですが!」
フランツはアルベルトに助けを求めるように視線を向けた。
しかし、アルベルトは冷徹な仮面を崩さず、無言でヴィオラにすべてを委ねている。
ヴィオラはクスクスと愛らしく笑い、デスクに少しだけ身を乗り出した。
ふわりと、甘く知的なジャスミンの香りがフランツの鼻腔をくすぐる。だが、その香りの裏には、獲物を逃さない「頂点の女」の冷たい覇気が潜んでいた。
「ふふ、合理的な経営判断、ですか。……では、もう一つ教えてくださいな。その『超合理的』な一括仕入れが行われた翌週、クロイツェル商会の王都支店から、当時の開拓担当役人様の個人口座へ、なぜか『ハルシュタット金貨五百枚』と同等の美術品が寄贈されているのは、一体どのような合理的な理由からかしら?」
「なっ……! なぜ、それを……!?」
フランツがガタタッと椅子を鳴らして立ち上がった。
額から、たらりと冷たい汗が流れ落ちる。
「あ、あれは、個人的な贈り物で……! 違法性など何もない!」
「個人的な贈り物、ですか。当時の役人様の奥様の実家は、確かハルシュタット領の『五人目の奥様』の実家と非常に深い繋がりがありましたわね。……偶然にも、その贈り物があった直後、商会から資材の追加購入費用として、領地から『金貨五百枚』が追加請求されています。……フランツ様。これ、世間一般では『キックバック(中抜き)』、あるいは『領地財産の横領』と呼ぶのではありませんこと?」
「言いがかりだ!!」
フランツは顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「そんな大昔の、終わった取引の言いがかりを、証拠もなく並べ立てるなど……! 辺境伯閣下! このような無礼な小娘の妄言を、黙って聞いていらっしゃるのですか!?」
「証拠、ですか?」
ヴィオラはあざとく驚いたように両手を頬に当てて見せた。
「まあ、困りましたわ。フランツ様、私をただの『世間知らずの令嬢』とお思い? ……前世、いえ、私の実家の周りにもたくさんいましたわ。お店の売上をちょろまかして『証拠がない』と言い張るクズ黒服やキャストが。そういう人たちが決まって使う『裏の連絡帳』や『隠し口座の控え』が、どこに隠されているか……私、感覚で分かってしまうのですの」
ヴィオラはトレイの下から、もう一枚の薄い紙束を取り出し、フランツの前にパサリと落とした。
そこには、クロイツェル商会の裏帳簿の一部、そして当時の役人との生々しい書簡の写しが、美しく並んでいた。
フランツはそれを見た瞬間、血の気が完全に引き、座り込むようにソファに崩れ落ちた。
「な、なぜ……王都の、厳重に保管されていたはずの書簡が……」
「あら、セバスチャン様やロラン様の手下の隠密の皆さまは、とても優秀ですもの。私がお茶を一杯淹れて『少しだけ調べていただけます?』とお願いしたら、昨夜のうちに、喜んで持ってきてくださいましたわ♪」
ヴィオラは完璧な笑顔で、とどめの「おもてなし」を突きつけた。
「フランツ様。……お買い上げいただいたからには、極上のアフターサービスを提供しなくちゃね。ハルシュタット領のお金を、そんな汚い手で盗み取ったままにしておくなんて、この私が絶対に許しませんの。……さあ、今すぐ当時の金貨五百枚に、三年間分の利息を上乗せして、ハルシュタット家に『返金』していただきますわね?」
「ひ、ひぃっ……!」
フランツは泡を吹きそうな顔で、恐怖に震えながらヴィオラを見つめた。
目の前にいる18歳の可憐な少女。
だが、その背後に見えるのは、銀座や歌舞伎町の「数多の修羅場を笑顔で支配してきた怪物」の影だった。
ここで、初めてアルベルトが重い口を開いた。
彼の青い瞳には、いつもの冷徹さに加え、ヴィオラの完璧な詰問に対する、深い感嘆が宿っていた。
「……フランツ。私の妻の言う通りだ。本日中に、利息を含めた金貨六百枚をハルシュタット領の口座へ振り込め。……さもなければ、本日からの王都の滞在中、貴殿の商会の『すべての違法取引の証拠』を王都の司法省、および社交界へすべてばら撒く。ハルシュタット家の名を舐めた代償だ、破滅するか、払うか、今すぐ選べ」
「は、払います! 払わせていただきます! どうか、どうかお許しを……!」
フランツは床に頭を擦り付けんばかりにして謝罪すると、逃げるように応接室から這い出て行った。
パタン、と扉が閉まる。
静寂が戻った応接室。
アルベルトは深く息を吐き、隣のヴィオラをじっと見つめた。
心臓が、仕事の緊張とは明らかに違う理由で、狂おしいほどに激しく脈打っている。
「……見事な手際だったな、ヴィオラ。まさか、一晩でこれほどの証拠を揃え、あの老獪な商人を一歩も退かせずに完封するとは」
ヴィオラはいつもの可憐な笑顔に戻り、あざとく首を傾げて見せた。
「ふふ、旦那様。お褒めいただき光栄ですわ。……でも、これでお分かりいただけて? お金なんか使わなくても、人の心(使用人の忠誠心や協力)を動かせば、こうして簡単に悪党を退治できるのですのよ」
「……」
アルベルトは、ごくりと喉を鳴らした。
彼女の細い指先。その圧倒的な知性と、人を惹きつける覇気。
彼は確信した。
この女は、ただの「飾り」などではない。
自分の心の城壁を揺るがすどころか、このハルシュタット領の、そしてこれからの王都の社交界すらも、その手のひらの上で転がしてしまう、とんでもない「怪物(最高の妻)」なのだと。
「……さあ、旦那様。極上の『お掃除』の第一弾は完了いたしましたわ。次は、いよいよ王都ですね? 馬車の準備はできております。……私を、世界一幸せな飾りとして、王都の皆さまにお披露目してくださいね♪」
ヴィオラは楽しげに笑いながら、アルベルトの腕にそっと自分の手を絡めた。
「……ああ。勝手にするがいい。……だが、私の隣から、絶対に離れるなよ」
アルベルトは顔を赤くしながらも、その細い手をしっかりと握り返した。
退屈で忌々しいはずだった王都への旅路が、ヴィオラという存在を得たことで、かつてないほどに刺激的で、そして「楽しみ」な戦場へと変貌しつつあった。
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