第13話:高級クラブの仕組みを領地経営に応用します
王都へと向かう、ハルシュタット辺境伯家の特注馬車。
揺れをほとんど感じさせない最高級の魔導サスペンションが効いた車内で、アルベルトは移動中であるにもかかわらず、膝の上に小さな簡易デスクを置いて書類を睨みつけていた。
その眉間には、いつものように深い縦皺が刻まれている。
「旦那様。そんなに怖いお顔をされて書類を睨みつけていらっしゃると、せっかくの美しいお顔が台無しになってしまいますわ。……どうぞ、温かいアッサムティーとスコーンをお召し上がりになって。少しだけ肩の力を抜いてくださいな」
対面に座るヴィオラが、小気味よい手つきで魔法瓶からお茶を注ぎ、スコーンの載った皿とともに差し出した。
「……移動中だぞ。お前はよくそんな優雅にしていられるな」
アルベルトは溜息をつきながらも、差し出されたカップを受け取った。
ヴィオラの淹れるお茶は、いつだって彼の好みの絶妙な濃さで、口に含むと不思議と頭の霧が晴れる。
「ふふ、馬車の中は絶好のティータイムですもの。……それで、旦那様。その難しそうなお顔の原因は、一体どちらの数字かしら?」
ヴィオラがあざとく首を傾げ、机の上の書類を覗き込んできた。
アルベルトは一瞬、書類を隠そうとしたが、先日の不正商人完封劇を思い出し、ふと動きを止めた。
(この女なら、どう考える……?)
そんな好奇心が頭をもたげ、アルベルトはカップを置き、書類の一枚をヴィオラに見えるように差し出した。
「……ハルシュタット領の西部に、精霊の清流と呼ばれる美しい水源がある。そこで造られている『ハルシュタット・リキュール』の販売データだ。ハーブをふんだんに使った極上の美酒で、品質については間違いなく国内最高峰。……だが、売り上げが数年前から完全に頭打ちになっている」
「まあ、リキュールですか。お洒落で素敵ですわね」
「質が良すぎるが故に、製造コストが高い。他領の安価な粗悪リキュールに市場を荒らされ、価格を下げて薄利多売にするべきか、あるいは今の価格のまま販路を地道に広げるべきか……。だが、価格を下げれば品質が落ちる。ジレンマだな」
アルベルトが渋い顔で語るのを、ヴィオラはふむふむと頷きながら聞いた。
そして、人指し指を顎に当て、いたずらっぽく微笑んだ。
「旦那様。……お店で一番高いボトルを売る方法、ご存じかしら?」
「は? ……店、だと?」
「ええ。前世、いえ、実家が貧しかった頃に私がお手伝いしていた『とある社交場』でのお話ですわ。……そこでは、中身の原価が金貨一、二枚程度の黄金の泡立つワインが、一晩で『金貨百枚』で飛ぶように売れていきましたの」
「金貨、百枚……!? 詐欺か、それともただの恐喝か?」
アルベルトは目を丸くした。原価の数十倍、いや百倍以上の価格で酒が売れるなど、経済の悪魔と呼ばれる彼でも聞いたことがない。
「いいえ、合法的なお取引ですわ。お客様は皆、笑顔で、競うようにしてそのボトルをお買い求めになりました。……なぜだと思います?」
「……質が、それほどまでに特殊だったのか?」
「いいえ。中身はただの、少し美味しいワインですわ。……価値があるのは、中身ではなく『そのボトルを注文したという事実』、そして『そのボトルを飲む資格があるという優越感』なのですの」
ヴィオラはスッと目を細め、甘く知的な声でアルベルトに語りかけた。
「旦那様。ハルシュタット・リキュールが売れないのは、売り方が『全員向け』になっているからですわ。贅沢品を、薄利多売の市場で安物と競わせてはいけません。……今すぐ『顧客の階層化』と『ブランディング』を行うべきですわ」
「コキャクの、カイソウカ……? ブランディング……?」
初めて聞く異世界のビジネス用語に、アルベルトの青い瞳が鋭く光った。
「ええ。まず、すべての人に同じ商品を同じ価格で売るのをやめますの。ハルシュタット・リキュールを、三つのクラスに分けますわ」
ヴィオラは細く白い三本の指を立てて見せた。
「一つ目は、一般の富裕層向けの『スタンダード(普及版)』。これは現行の価格より少しだけ安くし、日常的に飲んでもらうためのものです。
二つ目は、中堅貴族向けの『プレミアム(高級版)』。特別な記念日や贈り物として、少し背伸びをすれば買える価格帯。
そして三つ目が……王都の最高権力者や、大富豪のためだけの、世界限定百本の『ロイヤル・サファイア・リミテッド(最高級版)』ですわ」
「限定、百本……? そんな端数、大した利益にならんぞ」
「いいえ、旦那様。この最高級版の目的は『利益を出すこと』ではありません。……『憧れと、絶対的な格付けを創り出すこと』ですの」
ヴィオラは立てた指を一本に絞り、アルベルトの顔の前に近づけた。
「最高級版は、ハルシュタット領で最も美しいサファイアをボトルにあしらい、一本一本にシリアルナンバーを刻印します。中身は、極上の原酒を数年間さらに熟成させた、世界に一つだけの味。価格は……現行の『二十倍』にしますわ」
「に、二十倍!? 誰がそんな暴利の酒を買うのだ!」
「買わせるのですわ。……いいえ、むしろ『買わせていただくために、貴族たちが頭を下げる』ように仕向けますの。……旦那様。この最高級版は『お金を払えば誰でも買える』というルールにしてはいけません。ハルシュタット家が認めた、真の一流貴族のみに『購入する権利』を譲渡するのです」
アルベルトは、ごくりと息を呑んだ。
彼女の言っている意味が、経済学者としての脳内で、急速に形を成していく。
「……ステータス、か」
「その通りですわ、旦那様! さすが、お話が早くて素敵ですわ」
ヴィオラは嬉しそうに微笑み、手を合わせた。
「人間はね、特にプライドの高い貴族様という生き物は、『あなただけが選ばれました』という言葉に、信じられないほどの対価を払うものですの。最高級版を手に入れた大貴族様は、夜会でこう自慢しますわ。『我が家には、ハルシュタット家から譲り受けた、シリアルナンバー001のロイヤル・サファイアがある』と。……それを聞いた周りの貴族様たちは、嫉妬と羨望で気が狂いそうになりますわね?」
「……そして、自分たちもその『特権階級』に入りたがり、こぞってハルシュタット家に取り入ろうとする、か。さらに、最高級版に手が届かない下位の貴族たちは、せめてその雰囲気を味わうために、普及版やプレミアム版を買い漁るようになる……!」
アルベルトの頭の中で、これまでバラバラだった領地の流通網と、王都社交界の人間関係が、一つの巨大な「欲望のシステム」として完全に噛み合った。
「何という……悪魔的なシステムだ……。お前は、お酒を売っているのではない。『選ばれたという優越感』と『選ばれなかったという焦燥感』を売っているのか!」
「ふふ、おもてなしの基本ですわ、旦那様」
ヴィオラは完璧にあざとく首を傾げてみせた。
その細く白い指先で、まるで王都の全貴族の財布を、そして心を、すでに手の中で転がしているかのように。
「……ヴィオラ。お前、本当にただの貧乏貴族の娘なのか?」
アルベルトは、信じられないものを見る目でヴィオラを凝視した。
数字の計算が早いだけではない。人間の、それも権力者たちの最も醜く、かつ強力な「虚栄心」という感情を完全にコントロールし、それをビジネスの推進力に変えている。
「あら。私、ただの旦那様の『可愛い飾り』ですわよ? 実家で、お父様のお仕事(家計簿)を少しお手伝いしていただけですわ」
(まあ、歌舞伎町で一晩に何百万、何千万も使ってドンペリや高級ブランデーを争うように卸す経営者たちの心理なんて、異世界の貴族も全く同じだもの。人間、懐に余裕がある奴ほど『見栄』でしか動かなくなるのよ)
ヴィオラは心の中で不敵に笑い、紅茶を一口すすった。
「……完璧だ。お前の言うその『階層化』と『ブランディング』、すぐにでも実行に移そう。王都に到着したら、まずはあの老公爵たちの前で、最高級版のボトルをお披露目する。……お前が言った通りのサファイアのボトルを用意させよう」
アルベルトの青い瞳に、冷徹な実業家としての、そして「この勝負、絶対に勝てる」という狂おしいほどの興奮の光が灯った。
「まあ、旦那様。お仕事中の旦那様、本当に、ゾクゾクするほど格好宜しいですわ……♪」
ヴィオラは頬を染め、上目遣いで彼を熱烈に見つめた。
「っ、お、お前はまたそんなことを……!」
アルベルトは熱くなった顔を隠すように、慌てて残りの紅茶を飲み干した。
しかし、その心臓は、ビジネスの興奮と、目の前の「美しくも恐ろしい相棒」に対する強烈なときめきで、二重に激しく脈打っていたのだった。
馬車は、そんな二人の熱い空気を乗せて、いよいよ王都の光が見える丘へと差し掛かっていた。
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