第14話:二人きりの徹夜と、不意打ちのスキンシップ
王都にあるハルシュタット辺境伯家の広大な別邸。
その最上階にある書斎は、深夜二時を回ってもなお、魔導ランプの柔らかな琥珀色の光に照らされていた。
「……ヴィオラ。この、王都の最上位貴族二十家へのアプローチ方法だが。招待状の文面は、通常の形式で良いと思うか?」
アルベルトは、羽根ペンの動きを止めて尋ねた。
彼の前には、ハルシュタット・リキュールの最高級ボトル『ロイヤル・サファイア・リミテッド』の特別発表会に向けた計画書が広げられている。
「いいえ、旦那様。普通の招待状では、目の肥えた大貴族様たちの心は動きませんわ」
対面に座るヴィオラは、ペンを滑らせながら、涼やかな声で即答した。
彼女のラベンダー色のドレスの袖口は少し捲り上げられ、その細い指先は、まるで熟練の書記官のように素早く羊皮紙を走っている。
「では、どうする」
「招待状の封蝋には、通常のハルシュタット家の紋章ではなく、最高級ボトルにあしらうサファイアの原石の微粉末を混ぜ込んだ、特別な青い蝋を使用しますの。そして、文面はこうですわ。『選ばれし貴方様だけに、神の雫を宿す青の果実をお披露目いたします。なお、本状をお持ちでない方の立ち入りは、たとえどなた様であってもお断りいたします』……と」
「……格式の高さと、他者を排除する排他性を、招待状の時点で徹底的に叩き込むわけか」
アルベルトは深く感心し、唇の端を吊り上げた。
「さすが旦那様、お察しが良くていらっしゃるわ。人間は『あなたは特別です』と言われるよりも、『あなた以外は入れません』と言われた方が、その場所への執着が十倍に跳ね上がりますの。前世、いえ、実家にいた頃の社交界でも、そういう限定されたサロンこそが最も格の高い場所とされておりましたわ(※歌舞伎町のプラチナ会員制VIPルームのシステムよ。富豪ほど『一見さんお断り』の扉を叩きたがるものなの)」
「ふっ……。実業家も真っ青の悪魔的な顧客心理だな。お前の実家は、本当にただの貧乏男爵家なのか?」
「あら。私、ただの旦那様の『可愛い飾り』ですわよ? 旦那様が世界一かっこよくお仕事をされるのを、特等席でお手伝いしているだけでございます」
ヴィオラはあざとく首を傾げ、完璧な営業用スマイルを浮かべた。
しかし、その可憐な瞳の端には、隠しきれない疲労の影が滲んでいる。
それもそのはずだ。王都に到着したその日の夜から、ヴィオラはアルベルトの傍らにぴったりと寄り添い、二日連続で深夜に及ぶ計画書の作成を手伝っていた。
アルベルトのような超人的な体力があるわけでもない、ただの十八歳の少女の身体だ。疲労が溜まっていないはずがなかった。
「……ヴィオラ。今日の作業はここまでにする。お前はもう寝室に戻って休め」
「いいえ、旦那様。あと少しで、最高級ボトルの『シリアルナンバーの割り当てリスト』が完成いたしますわ。王都の派閥争いのバランスを完璧に考慮したリストですもの、私が今夜中に仕上げてしまいたくて……」
ヴィオラは、小さくあくびを噛み殺しながら、再びペンをインク壺に浸した。
「頑固な奴め。誰に似たのだか……」
「ふふ、世界一頑固で素敵なお背中を持つ、どなたか様かしら?」
「っ、お前はまたからかうようなことを……!」
アルベルトは熱くなる顔をごまかすように、手元の書類に目を落とした。
静かな書斎に、ペンの走る音がサラサラと響き続ける。
それから、さらに一時間が経過した。
不意に、ペンの音が途切れた。
「ヴィオラ?」
アルベルトが顔を上げると、そこには、机に突っ伏したまま静かな寝息を立てているヴィオラの姿があった。
その細く白い指先には、まだ羽ペンが握られたままだ。
長く美しい睫毛が、魔導ランプの光に照らされて、彼女の白い頬に長い影を落としている。
普段、あざとく計算し尽くされた「完璧な笑顔」や「上目遣い」で自分を翻弄してくる彼女が、今は完全に無防備な、等身大の十八歳の少女として、ただ静かに眠っていた。
(……本当に、無茶をする奴だ)
アルベルトは溜息をつき、静かに席を立った。
彼は別邸の執事長に命じて、寝室まで彼女を運ばせようと考えた。だが、その前に、夜風で彼女の華奢な身体が冷えてしまわないよう、書斎の隅にあった厚手のカシミアの毛布を手に取った。
足音を立てないようにゆっくりと近づき、ヴィオラの肩に毛布をかける。
ふわりと、彼女の髪から、あの甘く知的なジャスミンの香りが漂った。
アルベルトの胸の奥が、ドクンと不規則な音を立てる。
「……っ」
アルベルトは息を呑み、思わず手を引っ込めようとした。
その時、ヴィオラの手から滑り落ちそうになった羽根ペンが、カチリと机の上で音を立てた。
それを慌てて受け止めようとしたアルベルトの指先が、ヴィオラの小さく冷え切った手に、不意に、しっかりと触れてしまった。
ドクン! ドクン! ドクン!
「冷た……いな」
アルベルトの心臓が、鼓膜を突き破らんばかりに暴れ狂った。
彼女の手は、驚くほど小さく、柔らかく、そして冷たかった。
自分が守らなければ、簡単に壊れてしまいそうなほど、儚い存在。
(私は……この女を信用しないと決めていたはずだ。
これまでの女たちと同じように、いつか裏切るかもしれないスパイだと……。
なのに、なぜ……なぜ、こんなにも愛おしいと思ってしまう?)
アルベルトの青い瞳が揺れた。
彼の「理性の城壁」が、自分の内側から湧き上がる「この細い手を、一生離したくない」という強烈な独占欲と愛おしさによって、音を立てて砕け散っていく。
アルベルトは、吸い寄せられるように、ヴィオラの寝顔へと顔を近づけた。
魔導ランプの光の下、彼女の薄い桜色の唇が、かすかに動く。
「……アル、ベルト様……」
かすれた、か細い囁き。
いつも「旦那様」とあざとく呼ぶ彼女が、夢の中で、初めて彼の名前を呼んだ。
「っ、ヴィ、オラ……?」
アルベルトの理性が、完全に限界を迎えた。
触れていた指先に力を込め、彼女の手を握りしめようとした、その瞬間――。
ヴィオラの長い睫毛が、ゆっくりと震え、持ち上がった。
寝ぼけ眼の、少し潤んだ紫の瞳が、至近距離にあるアルベルトの青い瞳と真っ直ぐに視線を交わす。
「……あら? 旦那、様……?」
ヴィオラは、まだ半分夢の中にいるような、少しとろけたような声で呟いた。
普段の計算されたあざとさではない、本物の、無防備な甘えの表情。
「っ、あ、す、すまん! 毛布をかけようとしただけで、決して不埒な真似をしようとしたわけでは……!」
アルベルトは、まるで大罪を犯したかのように真っ赤になり、弾かれたように距離を取ろうとした。
しかし、その時、ヴィオラの細い指先が、不意にアルベルトの服の袖口をきゅっと掴んだ。
「……旦那様」
「な、なんだ、ヴィオラ……!」
心臓が破裂しそうなアルベルトに対し、ヴィオラはふにゃりと、それはそれは愛らしく、そして少し悪戯っぽく微笑んだ。
(――ふふっ、28歳の純情旦那様。毛布をかけてくれようとするなんて、本当にお優しいんだから。
不意打ちのスキンシップで、耳の裏まで真っ赤にして狼狽しちゃって。
私の無防備な姿に、完全に理性がグラグラだったわね。
男を落とす最後の仕上げは、いつだって『完璧な計算』の隙間に見せる、ほんの少しの『無防備な素顔』なのよ)
完全に目が覚めたヴィオラは、一瞬にして「プロのNo.1ホステス」としての完璧なあざとさをその瞳に取り戻した。
彼女は上目遣いで、アルベルトの顔をじっと見つめ、彼の袖を引いて距離を縮めた。
「旦那様。……私の手、とっても冷たいのですの。……少しだけ、貴方様のその大きくて温かいおててで、温めてはいただけませんか……?」
「っ……、お、お前は……!!」
アルベルトの顔は、耳の裏どころか、首筋からおでこにかけてまで、文字通り沸騰した。
「は、早く寝室に戻れ! 私は、私はもう寝る!」
アルベルトは、掴まれていた袖を優しく、しかし慌てて振り払うと、そのまま走るようにして書斎から逃げ出していった。
背後から、「ふふ、おやすみなさいませ、私の優しい旦那様♪」という、ヴィオラの鈴を転がすような、最高に愛らしい笑い声が追いかけてくる。
廊下に出たアルベルトは、冷たい壁に頭を押し付け、激しく息を乱した。
「くそっ、シャワーだ……。別邸のシャワーはどこだ……! 冷水、極限まで冷たい冷水シャワーが必要だ……!!」
王都の冷え切った夜風の中でも、アルベルトの身体の熱は、朝が来るまで、どうしても引きそうにないのだった。
一方、書斎に残されたヴィオラは、肩にかけられたカシミアの毛布を愛おしそうに抱きしめ、窓の外の月を見上げて不敵に微笑んだ。
「さて……。旦那様の頑丈な城門も、いよいよ鍵が壊れて開きかけているわね。
王都の夜会で、他のみすぼらしい貴族たちが私を値踏みしようとしたとき……。
アルベルト様、あなたは一体、どんな顔をして私を守ってくださるのかしら?
とっても、楽しみだわ♪」
極上のターゲットを完全に手のひらの上で転がしながら、ヴィオラは満足げに、今度こそ温かいベッドへと向かうのだった。
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