第15話:経済で敵を潰す男と、心理で人を動かす女
王都にあるハルシュタット辺境伯家別邸。
重厚な防音結界が張られた秘密会議室の空気は、昼間だというのに冷たく張り詰めていた。
「……隣国のルンド帝国が、我がハルシュタット領に対する『魔導触媒・ルミナス石』の輸出関税を、来月から一挙に三倍へ引き上げると通告してきた」
アルベルトは、机の上に広げられた巨大な交易ルートの地図を指先でなぞりながら、冷徹な声で言った。
ルミナス石は、魔導製品や領地内の暖房設備、防衛結界の維持に欠かせない極めて重要な魔鉱石だ。その多くを、隣国である帝国からの輸入に頼っている。
「実質的な、経済的な宣戦布告だな。狙いは、我がハルシュタット領の経済を干上がらせ、関税交渉の場でこちらから屈辱的な利権譲渡を引き出すことだ」
対面に座るヴィオラは、差し出された温かいアールグレイの香りを楽しみながら、おっとりと首を傾げた。
「まあ。ルンド帝国様、なんとも強引で乱暴なやり方ですこと。……それで、旦那様。この不躾なお仕掛けに対し、どのような『お返し』をご予定されていらっしゃいますの?」
アルベルトの青い瞳に、冷酷な「経済の悪魔」としての獰猛な光が灯った。
「力押しだ。帝国内部でルミナス石の流通を牛耳る『帝都流通ギルド』の有力者たちを、ハルシュタット家の圧倒的な資金力をもって裏から全額で買収する。同時に、帝国の有力な大貴族たちに莫大な融資をちらつかせ、皇帝への関税撤回圧力をかけさせる。さらに並行して、ルンド帝国の国債を市場で一斉に『空売り』し、帝国の通貨価値を暴落させてやる」
「……」
「資金は、ハルシュタット家がこれまで蓄積してきた準備金から、金貨二万枚を一時的に投入する。一時的な出血は伴うが、半年もすれば帝国の流通網は機能不全に陥り、向こうから泣きついて関税を元に戻すはずだ。経済力による、完全な力尽くの圧殺だな」
アルベルトの作戦は、非の打ち所がないほど完璧で、かつ苛烈だった。
莫大な資金力という盾と、金融攻撃という矛を同時に叩きつける、まさに「ハルシュタット家だからこそできる」神をも恐れぬ力業である。
しかし、ヴィオラはカップをそっとソーサーに戻すと、くすくすと鈴を転がすように愛らしく笑った。
「ふふっ……。さすが旦那様。息の根を止めるまでのスピード感と圧倒的なスケール、ゾクゾクするほど格好良くていらっしゃいますわ」
「な……! お前はまた、そうやってすぐに人をからかう……!」
アルベルトは一瞬で耳の裏を赤くしたが、すぐに咳払いをして表情を引き締めた。
「これは真面目な戦術の話だ。……何がおかしい」
「おかしくなどありませんわ。ただ……。その金貨二万枚を使った『力押し』、少しだけもったいないな、と思いまして。……旦那様。もっとスマートに、もっとローコストで、ルンド帝国様が『自ら喜んで自滅していく』方法がございますのよ?」
「ルンド帝国が、自ら自滅する……? そんなことが、どうやって可能なのだ。ルミナス石の採掘権は、帝国の国営鉱山が独占しているのだぞ」
アルベルトが不審げに眉をひそめた。
ヴィオラはあざとく人差し指を顎に当て、甘く、しかし獲物を狙う蜘蛛のような知的な眼差しをアルベルトに向けた。
「旦那様。……前世、いえ、実家が貧しかった頃に私がお手伝いしていた社交場で、時折、とても厄介な『競合他店(ライバル店)』が現れることがありましたの」
「……また、お前の『実家の周り』の話か」
「ええ。その競合店は、資本力に物を言わせてうちの店のキャスト(女の子)を大金で引き抜こうとし、さらにビラ配りでうちの客を強引に奪おうと、力押しをしてきましたわ。……その時、我が店の支配人はどうしたと思います?」
「……大金でキャストを引き止め、ビラ配りの数を倍にして対抗したのか?」
「いいえ、そんな無駄金は使いませんわ。……支配人がしたことは、ただ一つ。その競合店のキャストたちの間で、ある『不穏な噂』をほんの少しだけ、自然に流させたのです」
ヴィオラはスッと目を細め、机の上に身を乗り出した。
ふわりと、昨夜の甘い余韻を残すジャスミンの香りが、アルベルトの鼻腔をくすぐる。
「『あの新しいお店、裏でヤクザ……いえ、とても怖い闇の組織からお金を借りていて、売上のほとんどを搾取されているらしい。来月には、逆らったキャストが何人も消される予定だ』……とね。それも、信頼できる『情報通の常連客』の口から、こっそりと教えさせる形で」
「……!」
「人間という生き物は、上から『こうしなさい』と命令されると反発しますが、隠された『不都合な真実』を自分だけで見つけてしまったと思い込むと、盲目的にそれを信じ込み、恐怖を何倍にも膨らませるものですの」
ヴィオラは楽しげに細い指先を一本ずつ折り曲げていく。
「噂を流された競合店はどうなったか。……キャストたちは『消されるかもしれない』という恐怖から、自発的に仕事をサボり、ライバル店へと再移籍し、顧客たちも『あそこの店に行くと怖い目に遭う』と、勝手に行くのをやめました。競合店は、こちらが一ペニーも使わないうちに、勝手に内側から疑心暗鬼になって崩壊(自滅)していきましたわ」
「……恐ろしいシステムだな。お酒を飲む場所の裏で、それほど高度な情報心理戦が行われていたのか……」
「ええ。これをおもてなしの世界では『不安のマネジメント(恐怖マーケティング)』と呼びますの。……旦那様。この手法、今回のルンド帝国のルミナス石にも、そのまま応用できますわ」
ヴィオラは地図の上の、ルンド帝国領内にある「国営鉱山」の位置をトントンと指で叩いた。
「まず、ハルシュタット家の資金で買収工作をする必要はありません。代わりに、ほんの少額の金貨を使って、帝国内部の『中堅商人や一般の民衆』の間に、ある噂を流すのですわ。
『国営鉱山の一号・二号坑道で、深刻な魔力枯渇が発生した。ルミナス石の採掘量は、来月から現在の十分の一以下にまで激減する。だからこそ、国は一般への流通を止め、ハルシュタット家に対する関税引き上げを理由にして、ルミナス石をすべて国営(軍用)に回収しようとしているのだ』……と」
「なっ……! 嘘の情報を流すのか!?」
「いいえ、旦那様。嘘ではありませんわ。ほんの少しだけ『誇張』するのです。実際に、古い坑道の魔力低下はどこでも微小ながら発生しているはずですから。……そして、この噂を聞いた帝国の民衆や中堅貴族たちは、どう動くと思います?」
アルベルトは、ごくりと喉を鳴らした。
彼の天才的な経済脳が、ヴィオラの描く「欲望と恐怖のシナリオ」を瞬時に理解し、恐怖すら覚え始めていた。
「……買い占め、だ」
「その通りですわ、旦那様! さすが、世界一頭が良くて格好宜しいですわ♪」
ヴィオラは手を合わせ、あざとく微笑んだ。
「『来月から暖房や魔導具が使えなくなるかもしれない』という恐怖に駆られた人々は、こぞってルミナス石を買いに走ります。帝国の国営ギルドが『そんな事実はない、採掘は順調だ』といくら説明しても、民衆は『国が隠蔽しようとしている』とますます恐怖を募らせ、ブラックマーケットで何倍もの高値でルミナス石を買い漁るようになる。……つまり、帝国の『身内』の手によって、ルミナス石の価格高騰と買い占めパニックが、勝手に発生するのですわ」
「……その結果、ルンド帝国政府は、高騰したルミナス石を軍や国営設備のために『相場より高い価格』で買い戻さざるを得なくなる。関税で得る利益など、国内のインフレとパニックの損失で一瞬にして吹き飛ぶな……」
「ええ。それだけではありませんわ。ハルシュタット家はここで、すかさず別の行動に出るのです」
ヴィオラはいたずらっぽくウインクした。
「『ハルシュタット領は、友好的な他国からルミナス石の代替品を安価で大量に仕入れるルートを、すでに確立した。ハルシュタット領民の皆様、安心してください。我が領内は、ルンド帝国の嫌がらせに関係なく、いつでも温かく安全です』と大々的にアピールするのです。もちろん、これもハルシュタット領の『ブランディング』のための一芝居ですわ。実際には、買い占めパニックが起きて自滅寸前になった帝国のギルドから、裏ルートで『二束三文』に暴落したルミナス石を買い叩いて、ハルシュタットの倉庫に溢れさせるのですけれど♪」
「…………」
アルベルトは言葉を失った。
背筋にゾクリとした冷たい戦慄が走る。
彼女の提案した計画に必要な予算は、噂を流すためのわずかな情報工作費のみ。
アルベルトが考えた「金貨二万枚」の力押しに比べ、百分の一以下のコストで、相手国に壊滅的な打撃を与え、さらに「ハルシュタット家は優しく、常に正しい」という完璧な名声まで獲得してしまう。
「……お前は。ヴィオラ、お前という女は……」
アルベルトは震える瞳で、目の前の可憐な18歳の少女を凝視した。
数字の力で世界を平伏させるのがアルベルトなら、この女は「人間の心理」という最も不安定で強欲なバグを利用し、世界を手のひらの上で弄んでいる。
「本当に……恐ろしいスパイ……いや、魔女だな」
「あら、旦那様。またそんなに怖いお顔をされて。……私、ただの旦那様の『可愛い飾り』ですわよ? 旦那様が、無駄なお金を使わずに、その美しいお顔のままでお仕事をされるのを、ちょっとだけお手伝いしているだけでございます」
ヴィオラは完璧なあざとい笑顔を浮かべ、カップを手に取った。
(まあ、歌舞伎町でも『あの店はもう潰れる』『あのキャストは病気で飛ぶ』なんて噂一つで、一晩で何千万円もの売上が右から左に動く世界だったもの。人間の『損をしたくない』という恐怖心を利用すれば、どんな大国でも簡単に内側から鍵が開くのよ)
ヴィオラは心の中で不敵に笑い、紅茶を一口すすった。
コンコン、と丁寧なノックの音が響き、扉が開いた。
入ってきたのは、お茶の追加のポットを持ったセバスチャンだった。その鉄面皮には、なぜか深い、そして主君に対する生温かい同情の笑みが浮かんでいる。
「旦那様。ヴィオラ様。お話中、失礼いたします。……旦那様、またしても非常に『警戒心(動悸)』が高まっていらっしゃるようですが、別邸の冷水シャワーの準備をいたしましょうか?」
「セ、セバスチャン……! お前、なぜそれを……!」
アルベルトは瞬時に顔を真っ赤にし、弾かれたように立ち上がった。
「私は風邪などひいていないし、シャワーも必要ない! ……ヴィオラ、お前の提案した『心理誘導』、すぐにでも極秘で実行に移す。……まずは、王都の我が息のかかった情報屋たちを招集しろ。……お前が言う通りの、完璧な『噂(罠)』を用意させよう」
アルベルトの青い瞳に、冷徹な実業家としての、そして「この勝負、史上最高にスマートに勝てる」という震えるほどの興奮が宿った。
「まあ、旦那様。お仕事中の旦那様、本当に、ため息が出るほど格好宜しいですわ……♪」
ヴィオラは頬を染め、上目遣いで彼を熱烈に見つめた。
その、どこまでが演技で、どこからが本気か分からない魅力的な瞳に、アルベルトの心臓はビジネスの興奮とは全く別の甘い動悸で、本日何度目か分からない狂おしいビートを刻み始めるのだった。
「っ、お、お前は本当に……! 私は執務室で次の書類を精査してくる!」
アルベルトは、掴まれていた袖を慌てて振り払うと、走るようにして会議室から逃げ出していった。
背後から、セバスチャンの「おやおや、旦那様。廊下は走らないようにお願いいたしますよ。お肌がまた荒れてしまいます」という冷徹な心配の声が追いかけてくる。
廊下に出たアルベルトは、冷たい大理石の壁に額を押し付け、荒い息を吐き出した。
「くそっ……。なぜだ、なぜあいつの顔を見るだけで、こうも心臓が痛い……! 経済の悪魔であるこの私が、ただの18歳の小娘に、本当に、いいように転がされているではないか……!」
王都の乾いた風の中でも、アルベルトの身体の熱は、これからのルンド帝国との、そしてヴィオラとの「楽しすぎる戦い」への予感によって、ますます熱く、激しく燃え上がるのだった。
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