第16話:新事業の試食会と、あざとい「あーん」
王都にあるハルシュタット辺境伯家別邸、その一角にある小会議室。
芳醇なカカオの香りと、熟成された洋酒の甘い香りが部屋いっぱいに満ちていた。
「……なるほど。これがハルシュタット・リキュール『ロイヤル・サファイア』の最高級版に合わせて開発した、大人のためのショコラというわけか」
アルベルトは、テーブルの上に美しく並べられた、艶やかな一粒のショコラを見つめて感心したように呟いた。
深みのある群青色の皿の上で、ショコラはまるで磨き上げられた黒い宝石のように妖しく輝いている。
「はい、旦那様! 料理長様と、王都で一番の腕を持つ菓子職人様が、私のわがままをたくさん聞いてくださって出来上がった、最高傑作ですのよ」
対面に座るヴィオラは、嬉しそうにパタパタと手を叩いて微笑んだ。
その隣では、ハルシュタット領から同行してきた巨漢の料理長が、緊張した面持ちでエプロンをきゅっと握りしめている。
「奥様から『お酒の余韻を殺さず、むしろその香りを何倍にも引き立てる、ほんのりビターで、甘さを削ぎ落とした大人専用のショコラを作ってほしい』とご要望をいただきましてな。……いやはや、お酒に甘い菓子を合わせるなどという発想、我々にはございませんでしたが、試作を重ねるうちにその恐るべき親和性に、職人一同驚愕いたしました」
料理長の熱い解説に、アルベルトは深く頷いた。
「お酒と、ショコラ。……確かに、王都の貴族たちは強い酒を飲む際、塩気の効いた肉や乾物を好むが、この熟成されたリキュールの持つ、特有の複雑な甘みとハーブの香りを引き立てるには、このカカオのほろ苦さが完璧なパズルのピースになるな。これならば、夜会での『ロイヤル・サファイア』お披露目の際、セットで提供すれば爆発的な相乗効果が期待できる」
「さすが旦那様、本当にお目が高いですわ!」
ヴィオラはあざとく首を傾げ、熱烈な視線をアルベルトに向けた。
「銀座や……いえ、実家の周りでとても流行っていた『高級クラブ』でも、一杯数万ペニーもするような最高級のお酒を注文される富豪様たちは、決まってこうした一粒で金貨一枚もするような贅沢なショコラをお供にされておりましたの。贅沢の極みを知る大人の男の皆様にとって、この『苦味と甘みのマリアージュ』は、何物にも代えがたい至福の瞬間なのですわ」
(――そう、歌舞伎町でも銀座でも、お酒の単価を上げるための『フード・マーケティング』は基本中の基本。アルコールが入って理性が緩んだ太客に、『このショコラ、お酒にぴったりでとっても美味しいんですよ♪』とあざとく微笑みかければ、一皿一万円のチョコレートなんて、競うようにして何皿も卸してくれたものよ)
ヴィオラは心の中で不敵に笑いながら、目の前のショコラをそっと小さな銀のフォークで半分に切り分けた。
断面から、ハルシュタット・リキュールを贅沢に練り込んだ、とろりとしたガナッシュが微かに覗く。
「それでは旦那様。……開発責任者として、この最高峰の『大人の味』を、まずは一番に旦那様に味わっていただかなくては。……どうぞ、召し上がって」
ヴィオラはフォークの先にそのショコラを刺すと、ふわりと立ち上がった。
そして、テーブルの横をすり抜け、驚くほど自然な動作で、アルベルトのすぐ真横へと滑り込んだ。
ふわり、と。
彼女の髪から、昨夜の甘い熱を帯びたジャスミンの香りが立ち上り、アルベルトの鼻腔をくすぐる。
「ヴィ、ヴィオラ……?」
アルベルトが驚いて顔を向けた瞬間。
ヴィオラは、これ以上ないほど愛らしく、そしてあざとい「上目遣い」で彼を見つめ、ショコラを刺したフォークを、彼の唇のすぐ目の前まで差し出した。
「旦那様。……あ、ん、してくださいな♪」
「っ……!?!?」
アルベルトの青い瞳が、限界まで見開かれた。
顔、耳の裏、首筋、そして全身の血液が、一瞬にして沸騰したかのような凄まじい熱が彼の体を駆け巡る。
「お、お前……! 何を、何を言っているんだ! 私は自分の手で食べる! フォークを寄こせ!」
アルベルトは慌ててヴィオラの手からフォークを奪おうとした。
しかし、ヴィオラはそれを身軽にひょいと躱し、さらに距離を縮めて、潤んだ瞳でアルベルトの服の袖口をきゅっと掴んだ。
「まあ、旦那様。……私に、味見のお手伝いすらさせていただけないのですか? 周りに職人の皆さまもいらっしゃいますのに、夫婦仲が冷え切っていると噂になってしまったら、これからの王都での『愛妻家ブランディング』に傷がついてしまいますわ。……ですから、どうか、一口だけ。私の『おもてなし』を、受けてはいただけませんか……?」
ヴィオラは恥ずかしそうに頬を染め、しかし決して引かない強い「甘え」をその瞳に宿らせた。
(――ふふっ、この『あーん』の心理的効果は絶大。プライドの高い28歳のこじらせ男にとって、人前で食べさせてもらうという行為は、最高に恥ずかしく、最高に支配欲をくすぐられ、そして『間接的にヴィオラの息づかいを感じる』最高の密室感を演出できるのよ。さあ、どうする? 旦那様♪)
「お、奥様……! なんと、なんとお優しいお心遣い……! 旦那様のために、人前であのような恥ずかしいことを自ら進んでされるなんて……! 私は感動いたしました!」
少し離れた場所で、セバスチャンがハンカチを握りしめ、深く、そして生温かい涙を浮かべて芝居がかった声を上げた。
料理長も「おうよ! 旦那様、奥様の愛を無駄にしちゃいけねぇ! さあ、男らしくドカンと口を開けてください!」と、空気を全く読まない大声で後押しする。
「セ、セバスチャン……! 料理長……お前たちまで……!」
アルベルトは完全に包囲されていた。
目の前には、薄いピンク色の唇をわずかに開き、期待に満ちた瞳で自分を見つめる18歳の可憐な妻。
そして周囲には、感動に震える(?)側近たち。
「……っ、分かった、一口だけだぞ!」
アルベルトは諦めたように、しかし強ばった顔のまま、観念してすっと口を開けた。
「ふふ、はい♪ 旦那様、あーん……」
ヴィオラの手によって、ショコラがゆっくりとアルベルトの口内へと滑り込む。
その瞬間、アルベルトの唇に、ヴィオラの持っていた銀のフォークの、冷たくもどこか彼女の体温を宿した金属の感触が、ほんのわずかに触れた。
ドクン!!!
アルベルトの心臓が、本日最大の大爆発を起こした。
(触れ……触れたぞ……! 彼女のフォークが、私の……! これでは、まるで……)
口の中に広がったショコラは、驚くほど完璧な出来栄えだった。
カカオの力強い苦味が広がった直後、ハルシュタット・リキュールの芳醇なハーブの香りと、熟成された甘みが、とろけるようなガナッシュとともに爆発する。
まさに、世界一の一流貴族にふさわしい、悪魔的な美味さだった。
だが、アルベルトの脳は、その味を処理する余裕を完全に失っていた。
「……っ!」
「いかがですか、旦那様? とっても、美味しいでしょう?」
ヴィオラは至近距離で、アルベルトの顔を覗き込み、鈴を転がすように愛らしく微笑んだ。
その、どこまでも甘く、男を狂わせる「プロの笑顔」。
アルベルトは、ショコラをごくりと力任せに飲み込むと、弾かれたように椅子を蹴って立ち上がった。
彼の顔は、おでこから耳の裏、さらには首筋の奥深くまで、完全にトマトのように真っ赤に染まりきっている。
「し、仕事がある……! 私は、私は王都の商人との面会があるのだ! 誰もついてくるな!」
「おやおや、旦那様。廊下を走ってはいけませんと、何度申し上げれば……」
セバスチャンの制止の声も聞かず、アルベルトは風のようなスピードで会議室から逃げ出していった。
バタン!!! と激しい音を立てて扉が閉まり、静寂が戻る。
残された会議室。
料理長は「おいおい、旦那様、照れちまって可愛いところがあるじゃねぇか」と豪快に笑い、セバスチャンは深い、そして生温かい溜息を吐き出した。
「ヴィオラ様。……旦那様の『警戒心(心拍数)』は、本日も極限まで高まっておられたようでございます。別邸の井戸水をフルに使った、特別に冷たい冷水シャワーの準備を、今から執事長室で手配しておきますので、ご安心ください」
「ふふ。セバスチャン様、いつも完璧なお手配、本当に助かりますわ」
ヴィオラはフォークをトレイに戻し、肩をすくめてクスクスと笑った。
(うん、今回の『あーん』も完璧な効果ね。
28歳純情旦那様、これで今日の仕事中は、私のジャスミンの香りと、あのショコラの甘い余韻が脳内を支配して、使い物にならなくなっちゃうに決まっているわ。
男を攻略する時は、こうして五感すべてに『私の記憶』をこびりつかせるのが一番。
さあ、王都の夜会。
いよいよ、この最高級リキュールとショコラのコンビを引っ提げて、王都のプライドの高い貴族たちを全員、私の信者(常連客)にしてあげるわよ♪)
ヴィオラは、窓の外の王都の美しい街並みを見下ろし、銀座の夜を制した女としての、最高に美しい不敵な微笑みを浮かべるのだった。
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