第17話:監視役から「最愛の秘書」への昇格
王都にあるハルシュタット辺境伯家別邸、最上階の執務室。
そこは、王都社交界の最盛期を迎えて、まるで戦場のような騒がしさに包まれていた。
「……くそっ。この、王都の派閥ごとの陳情書の山はなんだ。それに、新事業のロイヤル・サファイアの注文書と、提携を求める商会からの嘆願書……。どれもこれも優先順位が高すぎて、処理が追いつかん!」
アルベルトは、完璧に整えられた前髪を珍しくかき乱し、机の上にうず高く積まれた書類を睨みつけていた。
天才的な「経済の悪魔」である彼をしても、王都での新事業立ち上げと、それに伴う貴族たちの猛烈なアプローチ、さらには本国から送られてくる領地経営の定例報告というトリプルパンチは、脳の処理限界に近かった。
「……旦那様。そんなに怖いお顔で書類を睨みつけていらっしゃると、せっかくの美しいお顔に皺が刻まれてしまいますわよ?」
鈴を転がすような、涼やかで完璧に落ち着いた声。
アルベルトがハッと顔を上げると、そこには、淡い知的なネイビーのドレスに身を包んだヴィオラが立っていた。
その手には、いつも通りのハーブティー――ではなく、一見すると不揃いな、カラフルなインデックスが貼られた一冊の薄いファイルが抱えられている。
「ヴィオラ……。今、お前の相手をしている余裕はない。見ての通り、私は……」
「ええ、重々承知しておりますわ。ですから、旦那様の『お飾り』として、少しお掃除のお手伝いに参りましたの」
ヴィオラはあざとく首を傾げると、テーブルの上ですり抜け、驚くほど無駄のない動作で、アルベルトの机の隣へと滑り込んだ。
ふわり、とジャスミンの香りがアルベルトの鼻腔をくすぐる。
しかし、彼がその香りに動悸を覚える暇もないほどのスピードで、ヴィオラはうず高い書類の山を、細く白い指先でパサパサと、まるでトランプを操るマジシャンのように仕分け始めた。
「……おい、ヴィオラ! 何をする! それはハルシュタット領の極秘書類も混ざって……」
「極秘の帳簿は、こちらの『赤い付箋』のファイルに。旦那様の決済が必要な王都の商談は『青い付箋』に。そして、ただの退屈な貴族たちからの夜会の招待状は……こちらの『グレーの付箋』に分けておきましたわ。グレーのものは、セバスチャン様に『丁重なお断りの定型文』を送るよう指示済みですので、旦那様が目を通す必要すらありませんわよ♪」
「な……!?」
アルベルトは驚愕して、デスクの上を見つめた。
先ほどまで混沌そのものだった書類の山が、わずか数十秒で、完璧な「優先順位」ごとに整然と並べ替えられていたのだ。
「それから、こちらが本日と、これからの三日間の『分刻み』のスケジュール表でございます」
ヴィオラが差し出した羊皮紙には、美しく細い文字で、アルベルトの行動予定が完璧なグリッド状に整理されていた。
「午前十時は、ロイヤル・サファイアのボトルを製造するガラス工房の代表との面会。彼らは職人気質で時間にうるさいので、面会時間はきっちり三十分。
午前十一時は、先日おもてなししたクロイツェル商会からの『返金状況』の進捗確認。
午後一時は、エリス様と王都の最高級サロンでの社交(これはハルシュタット家の『愛妻家ブランディング』に必須ですので、お兄様として十五分だけお顔を出してくださいませ)。
そして、午後二時からは……」
「ま、待て、ヴィオラ……!」
アルベルトは、あまりにも完璧すぎるスケジュール管理に、頭の処理が追いつかず片手を挙げた。
「なぜ、お前が私の今日のすべての予定と、それぞれの面会相手の特性まで把握しているのだ?」
ヴィオラはくすくすと愛らしく笑うと、おねだりをする時のように上目遣いで彼を見上げた。
「ふふ。前世、いえ、実家にいた頃、私の周りにはとても『お忙しい富豪の旦那様(太客)』たちがたくさんいらっしゃいましたの。そういうお方々は、複数の女性とのデート(同伴)や、本業のビジネス、そしてゴルフの予定などで常にスケジュールがパンク寸前でしたわ。だからこそ、優秀な私は、彼らの誕生日、好みのウイスキー、家族の記念日、そして『何月何日、誰とどの店でいくら使ったか』を、すべて頭の中で完璧にデータベース化(顧客管理)して、彼らの秘書代わりになって差し上げておりましたのよ」
(――そう、銀座のNo.1ホステスにとって、何十人もの太客のスケジュール管理とメンタルケア(秘書業務)は基本中の基本。アルベルト様みたいなシングルタスクの仕事中毒男なんて、私の前世の『エクセル脳』からすれば、赤ん坊のスケジュールを立てるより簡単だわ)
ヴィオラは心の中で不敵に笑いながら、アルベルトの手に、そっと羽ペンを握らせた。
「さあ、旦那様。まずはこの『青い付箋』の、最高級リキュールの契約書にサインをお願いいたしますわ。こちらの取引相手は、私が事前にセバスチャン様を使って『裏の資産状況』を済ませておりますので、一ミリの焦げ付きのリスクもございませんわよ♪」
「……っ、セバスチャンを使っただと?」
「はい、お茶を淹れるついでに『少しだけ』手配をお願いしましたの」
アルベルトが驚いて入り口を振り返ると、そこには、音もなくお茶の追加を持ってきた筆頭執事セバスチャンが立っていた。
その鉄面皮には、深い、そして極めて満足げな笑みが浮かんでいる。
「旦那様。ヴィオラ様の書類整理と、スケジュール管理能力は、まさに神の領域にございます。かつて、私が徹夜で処理していた王都貴族の『派閥分析』を、ヴィオラ様は朝のティータイムのわずか十分で、相関図付きで完璧にマッピングされました。……これ以上の『最愛の秘書』は、この世界中を探してもどこにもおりません」
「最、最愛の……!?」
アルベルトは顔を一瞬で赤くした。
「セバスチャン、お前、何を言っているんだ! 監視だ! 私はお前に、あの女を『監視』しろと言ったはずだ!」
「ええ、しっかりと『見守り』、かつその優秀な知性にひれ伏しております」
セバスチャンは平然と一礼した。
「旦那様。お認めになりなさいませ。今のハルシュタット別邸は、ヴィオラ様のあの細く白い指先一つで、すべての歯車が、かつてないほど滑らかに、そして超高速で回転しているのです」
「お、奥様! これ、この前の追加発注のショコラのデータなんですけど、どこに置けばいいですかね!?」
そこへ、厨房から巨漢の料理長が、これまたヴィオラを全面的に頼り切った顔で、書類を抱えて入ってきた。
「まあ、料理長様。それはこちらの『緑のファイル』の、二ページ目へ。それから、今日の夕食のローストビーフですが、旦那様は少しお疲れのご様子ですので、お肉の繊維をいつもより細かく叩いて、消化に良い特製のジンジャーソースで仕上げていただけます?」
「おうよ! 奥様の言う通りに、旦那様の胃袋が喜ぶ最高の一皿を作ってやりますぜ!」
料理長は元気に敬礼すると、嵐のように去っていった。
「…………」
アルベルトは、完全に言葉を失っていた。
自分の執務室。自分の領地ビジネス。自分のスタッフ。
それらすべてが、今、完全にヴィオラの頭脳と、彼女が作り出した「無敵の管理システム」によって支配されていた。
そして恐ろしいことに――。
アルベルト自身の脳が、すでに「ヴィオラが仕分けた書類」でなければ、安心してサインができない状態になりつつあった。
書類の角に貼られた、ヴィオラの文字による「決済推奨(お買い上げ♪)」というあざといメモ。それがあるだけで、彼の「経済の悪魔」としての警戒心が、不思議なほどスッと解けてしまうのだ。
「お前は……。ヴィオラ、お前は本当に、私の『お飾り』の妻なのか……?」
アルベルトは震える瞳で、隣に佇む18歳の少女を凝視した。
甘いジャスミンの香りを漂わせながら、彼女は完璧な、そしてどこか勝ち誇った「プロの笑顔」で彼を見つめ返している。
「あら、旦那様。私、いつでも旦那様の『可愛い飾り』ですわよ? 旦那様が、世界一格好良く、世界一スムーズにお仕事をされるのを、お隣で少しだけお掃除(スケジュール調整)しているだけでございます」
ヴィオラはあざとく首を傾げ、彼の服の袖口をきゅっと掴んだ。
「……ねえ、旦那様。私、ちゃんと旦那様の役に立てておりますかしら? それとも、やっぱりまだ、私のことが怪しい『スパイ』に見えますの……?」
潤んだ瞳で、上目遣いに彼を見つめるヴィオラ。
ドクン!!!
アルベルトの心臓が、本日最大の大爆発を起こした。
顔、耳の裏、首筋が一瞬にしてトマトのように真っ赤に染まる。
「っ……、お、お前は……! 誰が、スパイだと言った! 私は……私はただ……!」
「ふふ、それでは、私の『お仕事』、合格をいただけますのね?」
「……っ、合格だ! 合格どころか、お前がいないと、今日の午後の商談のデータがどこにあるのかすら分からん……!」
アルベルトはついに、観念したように頭を抱えて机に突っ伏した。
経済の悪魔。冷酷なハルシュタット辺境伯。
その彼の脳とビジネスは、一人の18歳の「元No.1ホステス」によって、すでに完全に『彼女なしでは仕事が回らない身体』へと、優しく、そしてあざとく、完全に調教されきっていたのだった。
「おやおや、旦那様。またお顔が真っ赤でございますね」
背後でセバスチャンが深く、そして極めて温かい溜息を吐き出す。
「執事長室の冷水シャワー、本日は別邸の特別冷水システムを『最大出力』で稼働させておきますので、どうぞご安心くださいませ」
「セバスチャン、お前は黙っていろ!!!」
アルベルトの叫び声が響き渡る執務室で、ヴィオラは肩をすくめて、最高に不敵で愛らしい、勝利の微笑みを浮かべるのだった。




