第18話:暗殺者の襲撃と、身を挺する(フリをする)プロ意識
王都にあるハルシュタット辺境伯家別邸、その二階の私サロン。
新事業『ロイヤル・サファイア』のお披露目夜会を明日に控え、アルベルトとヴィオラは、深夜にもかかわらず、最終チェックのためにテーブルを挟んで向かい合っていた。
「……これで、招待客の席次と、提供するショコラの数、そしてリキュールの特別ボトルのシリアルナンバー順も完璧ですわね、旦那様」
ヴィオラは涼やかな笑顔で、書類に美しくチェックを入れていった。
「ああ。お前の完璧な内調とスケジュール管理のおかげで、懸念していた王都の派閥争いも、席次一つで全て相殺できた。……お前は本当に、私の頭脳を上回るのではないかと思わされるな」
アルベルトは深く感心したようにため息を吐き、ヴィオラを見つめた。
その青い瞳には、かつての警戒心はどこへやら、深い信頼と、そして自分でも無自覚なほどの「愛おしさ」がダダ漏れになっていた。
「ふふ、旦那様。お褒めいただき光栄ですわ。でも、私はただの旦那様の『可愛い飾り』で……」
ヴィオラがいつものセリフをあざとく口にしようとした、その瞬間だった。
パリィン!!!
静まり返った別邸の静寂を切り裂いて、サロンのバルコニーのガラス窓が激しく砕け散った。
「なっ……!?」
アルベルトが瞬時に戦闘態勢に入り、席を立つ。
壊れた窓から転がり込んできたのは、漆黒の夜会服に身を包み、顔を黒い布で覆った一人の男。その手には、月光を浴びて妖しくぎらつく、青い毒薬が塗られた暗殺用の短剣が握られていた。
「ハルシュタット辺境伯! ルンド帝国の国益を損ね、さらには王都の経済を牛耳ろうとする悪魔め! 今日が贵様の命日だ!!」
男は低く咆哮すると、凄まじい踏み込みで、テーブルを飛び越えてアルベルトへと肉薄した。
(――あら、お仕事の時間ね)
その時。
襲撃されたはずのヴィオラの脳内は、驚くほど冷静、いや、むしろ前世の歌舞伎町や銀座で培われた「超一流の危機管理データベース」が、光の速さで演算を開始していた。
(あ、この感じ、懐かしいわ。前世の歌舞伎町の深夜、他店のヤクザや、泥酔してビール瓶を振り回したクレーマーがVIPルームに殴り込んできた時と全く同じ。
男の腕の角度、短剣の軌道……うん、完全に素人ね。狙いが大振りすぎる。
アルベルト様はハルシュタットの領主で、騎士団を率いる立場。護身術や剣の腕前は超一流。彼がまともに戦えば、この程度の三流暗殺者、一撃で伸せる。
……でも!
ここでアルベルト様がスマートに勝って終わったら、ただの日常茶飯事よね?
もしここで、私が『非力で健気な18歳の妻』として、あえて身を挺して旦那様を庇うように飛び込んだら……?
28歳の純情仕事中毒男の『独占欲』と『守りたい本能(保護欲)』は、一瞬にしてキャパシティを突破して爆発するに決まっているわ!)
ヴィオラはコンマ一秒の間に、サロン内の物理状況を瞬時にスキャンした。
(立ち位置、よし。
テーブルの上の『グレーの付箋』のファイルは、厚手の革製だから、盾として左腕に挟めば刃物は絶対に貫通しない。
滑りやすい大理石の床の摩擦を利用して、ドレスの裾を少しだけ踏んで『バランスを崩して、偶然旦那様の前に滑り込んだ』ように見せる。
短剣が掠める死角の角度は、私の左肩から外側へ約十五度。
うん、私の体には一ミリの傷もつかないし、怪我一つしない完璧なフォーメーションが組めるわ!)
ヴィオラは完璧な「立ち回り(プロの演技)」を決定すると、
「旦那様――!! 危ないですわ!!」
と、悲痛で健気な、しかし鈴を転がすような美しい悲鳴を上げながら、滑り込むようにしてアルベルトの前に躍り出た。
ドレスの裾を自ら踏み、わざとらしく、しかし限りなく自然に、アルベルトの胸元へと倒れ込む。
と同時に、左腕に挟み込んだ厚手の革ファイルを、暗殺者の短剣の軌道上へと、肉眼では見えない超高速の角度調整で滑り込ませた。
キィィィン!!!
金属と、硬質な革ファイルが激しく擦れ合う、甲高い音が響く。
ヴィオラの計算通り、毒刃は革ファイルを斜めに滑り、彼女の白い肩先から十センチ以上離れた空間を虚しく切り裂いた。
しかし、その勢いを利用して、ヴィオラはあえて自分のドレスの肩口の飾りレースを、机の角に引っ掛けて『ビリッ』と小さく破いて見せた。
「う……っ!」
ヴィオラは顔をしかめ、可憐にアルベルトの腕の中に崩れ落ちる。
「ヴィ、ヴィオラ――!!!?」
アルベルトの叫び声は、この世の終わりを聞くかのような、凄まじい絶望と焦燥に満ちていた。
彼の脳内で、何かが完全に弾け飛んだ。
「お前……! 私の前に、何をして……!!」
激昂と、そしてヴィオラが「自分のために刺された(※実際は無傷)」という狂おしいほどのパニックが、経済の悪魔を真の『破壊の悪魔』へと変貌させた。
「貴様ァァァアアアッ!!!!」
アルベルトは腕の中のヴィオラを壊れ物を扱うように片腕で引き抱きながら、もう片方の手で、暗殺者の短剣を持つ手首を、人間のものとは思えない速度と力で掴み取った。
バキキッ!!!
「ぎゃあああああああああっ!?」
暗殺者の手首が、あり得ない方向に折れ曲がる。
アルベルトは冷酷な青い瞳に、底知れない殺意と怒りを宿らせ、男の顎を、革靴の踵で容赦なく蹴り上げた。
ドゴォッ!!!
強烈な一撃を食らった暗殺者は、白目を剥いてサロンの壁まで吹き飛び、そのまま気を失って崩れ落ちた。
「はぁ……っ、はぁ……っ!」
荒い息を吐きながら、アルベルトは怒りで肩を激しく揺らしていた。
そして、すぐに、腕の中にいる可憐な少女へと視線を落とした。
「ヴィオラ! おい、しっかりしろ! どこを刺された! 毒だ、毒が塗ってあった……! 嘘だろ、なぜお前のような小娘が、私を庇うなどと……! セバスチャン!! セバスチャンを呼べ!! 医者だ!! 早くしろ!!」
かつてないほどに狼狽し、顔を真っ赤、いや、青ざめさせながら、アルベルトはヴィオラの体を抱きしめた。
彼の大きな手が、恐怖で細かく震えている。
(――よし、大成功。
28歳純情旦那様、完全に脳がバグってお祭り騒ぎね。
でも、ここからが最後の仕上げ。
『私は平気です』と健気に微笑みつつ、ちょっとだけか弱さを演出するのよ)
ヴィオラは、かすかに潤んだ紫の瞳をゆっくりと開き、上目遣いでアルベルトを見上げた。
わざと少し破いた肩口から、白く華奢な鎖骨が覗いている。
「……だ、旦那様……。ご無事、ですか……?」
「ヴィオラ! お前、喋るな! すぐに医者が来る!」
「よかった……。旦那様に、お怪我がなくて……。私、旦那様の『お飾り』ですけれど……貴方様が傷つくくらいなら、私、どうなっても……構いませんの……っ」
ヴィオラはそう言って、恥ずかしそうに頬を染め、アルベルトの服の胸元を、細く震える指先できゅっと掴んだ。
そして、彼の腕の中で、ふにゃりと力を抜いて、彼の広い胸に顔を埋めた。
ふわりと、アルベルトの鼻腔をくすぐる、極上のジャスミンの香り。
彼女の小さくて柔らかい体温が、彼の胸にぴったりと押し当てられている。
ドクン!!! ドクン!!! ドクン!!!
アルベルトの心臓が、本日、いや、これまでの28年間の人生で最大・最強の大爆発を起こした。
(この女は……。
私のことを、金目当てのスパイだ、信用しないと冷遇してきた私を……。
命を懸けて、守ってくれたというのか……!?
あんな、毒が塗られた刃物の前に、自分の体を投げ出してまで……!)
アルベルトの心の中で、これまで頑なに守ってきた「人間不信」という名の最後の砦が、ヴィオラの「身を挺した愛(※実際はノーダメージ)」という一撃によって、粉々に粉砕され、跡形もなく消え去った。
「お前は……。お前は、バカか……! なぜ私などのために……!」
アルベルトは、彼女を失う恐怖と、愛おしさが限界突破し、ヴィオラの体を壊れ物を抱くように、力強く、そして優しく、ぎゅっと抱きしめ返した。
「旦那様……。とても、温かいですわ……♪」
腕の中で、ヴィオラは小さく、あざとく、そして勝者の微笑みを浮かべながら囁くのだった。
「旦那様! ヴィオラ様! ご無事ですか!!」
そこへ、騒ぎを聞きつけたセバスチャンが、数人の護衛の騎士を引き連れてサロンに突入してきた。
床に転がる、手首をへし折られて失神している暗殺者。
そして、ヴィオラをこれでもかと抱きしめ、顔を真っ赤にして狼盤しているアルベルト。
セバスチャンは一瞬で状況を把握すると、深く、そして生温かい溜息を吐き出した。
「おやおや、旦那様。不審者の侵入を防げなかったのは我々の手落ちにございますが……。奥様をそのように力強く抱き締め、かつ、お顔をトマトのように真っ赤にされて。……よほど『心拍数』が高まっておられるようでございますね」
「セバスチャン! 貴様、呑気なことを言っている場合か! ヴィオラが、ヴィオラが私を庇って……!」
「旦那様、どうぞご安心くださいませ」
セバスチャンは机の上の、短剣の傷がついた『グレーの付箋』の革ファイルと、ヴィオラの一切怪我のない綺麗な肌を素早く確認した。
「ヴィオラ様のあの素晴らしい反射神経と知性。刃物の軌道をファイルで完璧に受け流しておられます。奥様には、かすり傷一つございませんよ」
「え……?」
アルベルトが呆然としてヴィオラを見つめた。
ヴィオラはあざとく首を傾げ、テヘッ、と愛らしくウインクしてみせた。
「あら、旦那様。私、実家で、暴れる馬(※前世の泥酔客)を避けるのが得意でしたの。でも、旦那様を守りたいという私の気持ちは、本物ですわよ?」
「お、お前……! 確信犯か! 私を、私を謀ったな!!」
アルベルトは顔を一瞬にして耳の裏まで真っ赤に染め、弾かれたように立ち上がろうとした。
しかし、ヴィオラは彼の服を掴んだ手を離さず、さらにギュッと抱きついた。
「ふふ、旦那様。でも、合格……いただけますかしら?」
「っ……、ご、合格だ! 合格どころか、お前が私の前に飛び出してきた瞬間、私の心臓は一度止まったのだぞ!!」
アルベルトはついに観念したように、真っ赤な顔のまま、ヴィオラを腕の中に抱き込んだ。
背後でセバスチャンが深く頷く。
「旦那様。奥様のこの命懸けの『おもてなし』。ハルシュタット家の忠臣として、私は改めてヴィオラ様にひれ伏す所存です。……さて、本日は、特別に冷たい冷水シャワーの出力を『超・最大出力』で準備させますので、どうぞお頭を冷やしに行ってらっしゃいませ」
「セバスチャン、お前は本当に黙っていろ!!!」
王都の深夜の別邸に、アルベルトの叫び声が響き渡る。
しかし、その腕に抱かれたヴィオラは、彼の激しい鼓動を全身で感じながら、最高に不敵で愛らしい、勝利の微笑みを浮かべるのだった。
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