第19話:怒りのアルベルトと、初めての抱擁
不審者が床に崩れ落ち、剣の重い金属音が執務室の静寂を切り裂いた。
「ハァ……ッ、ハァ……っ」
荒い息を吐きながら立ち尽くすアルベルトの手から、愛剣が力なく滑り落ちる。
床に転がった刺客の男はすでにセバスチャンと護衛たちによって拘束されていたが、アルベルトの視線はそこにない。彼の青い瞳は、ただ一点――自分の目の前に立つ、華奢な少女に注がれていた。
ヴィオラは胸元を押さえ、可憐に肩を震わせている。
もちろん、その心の中は極めて冷静だ。
(よし、完璧! 刺客の腕の角度、踏み込みの速度から計算して、かすり傷ひとつ負わないポジションをキープしつつ『旦那様を庇った健気な妻』の絵面が完成したわ。前世の歌舞伎町で酔っ払いの刃物沙汰を何度もかわしてきた私の物理計算を舐めないでほしいわね)
ヴィオラは完璧な「可憐で儚げなヒロイン」の表情を作り上げ、ゆっくりとアルベルトを見上げた。
「……旦那様……お怪我は……ございませんか……?」
しっとりと潤んだ瞳で上目遣いに尋ねる。これぞ高級クラブで培われた、男の保護欲を極限まで刺激するキラーフレーズ。
しかし、次の瞬間。
「――っ、バカ者が!!!!」
腹の底から響くような怒声が、部屋全体を揺らした。
「え……?」
ヴィオラが瞬きをする間すらなかった。
視界が劇的に回転したかと思うと、力強い両腕によって力任せに抱き寄せられていた。
ガシャン、と胸甲と洋服が擦れる鈍い音が響く。
アルベルトの太い腕がヴィオラの背中と頭を包み込み、引きちぎらんばかりの強さで自分の胸の中に抱きかかえたのだ。
(きゃっ……!? ちょ、ちょっと待って、力が強い……っ! 骨が折れる……わけじゃないけど、すごい圧迫感!)
「旦那……様……?」
「なぜだ……! なぜあんな真似をした、ヴィオラ……っ!」
耳元で響くアルベルトの声は、怒りに震えていた。いや、それだけではない。
抱きしめてくる彼の全身が、信じられないほど激しく波打つように震えている。
「なぜ前に出た! なぜ私を庇うような真似をしたんだ!! 一歩間違えれば、お前が刺されていたんだぞ!? 命をなんだと思っている!!」
「それは……旦那様をお守りしなければと、体が勝手に……」
「私が……っ、私が守られる側でどうする!!」
アルベルトの叫びには、今まで聞いたこともないような生々しい感情が溢れていた。
ハルシュタット家の若き当主として、常にあらゆる敵を叩き潰し、冷徹な戦略で領地を守ってきた男。そんな彼が、今、幼子のように恐怖し、ヴィオラを抱きしめる腕に必死の力を込めている。
(……あ。これ、演技じゃなくて……本当に本気で『私を失う』と思ってパニックになってるんだ……)
ヴィオラは胸の奥がキュッと締め付けられるような、妙な熱さを感じた。
前世の夜の街では、男たちが口々に「お前を命がけで守る」「何でもしてやる」と甘い言葉を囁いてきた。しかし、その大半は酒の席の戯言であり、欲望を満たすためのポーズに過ぎなかった。
だが、今自分を抱きしめているこの男の動悸は、嘘偽りのない本物だ。心臓が爆音を奏で、体温が着物越しに痛いほど伝わってくる。
(……まったく。大人の男のくせに、子供みたいに震えちゃって……)
ヴィオラはふっと柔らかく目を細めると、計算ではなく、心からの仕草としてそっと腕を伸ばした。
そして、アルベルトの広い背中に優しく手を回し、ぽんぽんとあやかすように叩いた。
「落ち着いてください、旦那様……。私は無事です。ほら、どこも怪我なんてしていませんでしょう?」
「……嘘をつく子だ。あんな至近距離で刃が迫っていたのに、無事で済むはずが……」
「本当ですよ。ほら、見てください」
ヴィオラは少しだけ体を離し、アルベルトの顔を見つめた。
アルベルトの顔は蒼白で、目元は今にも泣き出しそうなほど歪んでいる。戦場での「鬼神」と恐れられる男の面影はどこにもない。
ヴィオラは彼の頬にそっと手を添え、極上の笑みを浮かべた。
「私は旦那様のお側にいたいのです。だから……旦那様が危険に晒されるくらいなら、私は迷わず盾になります。だって……私にとって、旦那様は世界で一番大切なお方なのですから♪」
「――ッ!!」
落雷を受けたかのように、アルベルトの体が硬直した。
蒼白だった彼の顔面が、一瞬にして真っ赤に染まっていく。耳の先端まで熟しきったイチゴのように赤くなり、目を見開いたまま固まっている。
(ふふっ、効いてる効いてる! 恐怖からの緊張弛緩、そこに畳みかける決定的な好意の告白風フレーズ! 恋の吊り橋効果の最高峰ね!)
ヴィオラは心の中でガッツポーズを決めつつ、さらに追撃の手を緩めない。
首を少し傾げ、小悪魔的な甘い声で囁く。
「……ダメでしたか? 私が旦那様をお守りしようとしたこと、お怒りですか……?」
「お、怒って……いや、怒ってはいる! だが、そうではなくて……! その……っ!」
「私、旦那様のお役に立ちたかっただけなのです。……私を、嫌いにならないでくださいますか?」
あざとさ1000%の上目遣いとうるんだ瞳。
アルベルトの理性が、音を立てて木っ端微塵に砕け散るのが見えた。
「き、嫌いになるはずがないだろうがぁぁぁッ!!」
アルベルトは絶叫すると、あまりの羞恥と混乱と愛おしさで限界を迎えたのか、再びヴィオラを強烈に抱きしめた。今度は恐怖からではなく、爆発した感情の行き場を失ったかのように。
「ズルいぞお前は……! そんな顔をして、そんな言葉を……っ! 私がどれほど生きた心地がしなかったか……! お前を失ったら、私は……私はどうすればいいんだ……!」
アルベルトの胸に顔を埋めながら、ヴィオラは満足気な笑みを浮かべた。
(大成功♪ これでハルシュタット辺境伯の心は、完全に私の手のひらの上。私なしでは生きていけない『完全依存状態』の完成ね)
だが、そんな甘く激しいドラマの渦中、部屋の隅からすっと静かな影が近づいてきた。
「旦那様、大変感動的なシーンの途中で誠に恐縮ではございますが」
完璧な礼儀正しさで差し出されたのは、湯気の立つハーブティーと、冷たいおしぼりが入った銀のトレイだった。
執事セバスチャンである。
「奥様の無事は100%確認されております。というか、刺客の刃の軌道を見切り、寸前で身を交わしながら旦那様の視界に最も劇的に映るよう滑り込まれたその身体能力、感服いたしました」
「えっ」
ヴィオラはピクッと眉を跳ね上げた。
「……セバスチャン? お前、何を言っているんだ……?」
アルベルトが抱擁を解き、混乱した目で執事を見る。
セバスチャンは眼鏡の奥の目を光らせ、淡々と言い放った。
「旦那様。奥様は元より、怪我ひとつ負うつもりなど毛頭ございませんでしたよ。あの体勢、あの角度……全て計算尽くしの『あざと庇い戦術』でございます。実際、奥様のドレスには塵ひとつついておりません」
「な……ッ!?」
アルベルトがガバッとヴィオラを見る。
ヴィオラは「やば」という表情を浮かべつつ、すぐに満面の笑みでごまかした。
「や、やだですねぇ、セバスチャンさん! 私のような弱々しい乙女が、そんな計算なんてできるわけないじゃないですか〜♪ 必死だったんですよ、必死!」
「はいはい、そういうことにしておきましょう。……なお、旦那様」
セバスチャンは冷徹な手つきで、アルベルトに冷たいおしぼりを手渡した。
「恐怖のパニックから一転して初恋のような爆発的動揺を起こされた旦那様のために、本日も地下の特設浴場にて『氷結冷水シャワー』を200リットルほどご用意しております。頭を冷やしてこられてはいかがでしょうか」
「〜〜〜〜〜ッッッ!!!」
アルベルトの顔が、赤から紫、そして白へと目まぐるしく変化する。
自分が命がけで動揺し、柄にもなく情熱的な言葉を叫び、抱きしめまくった相手が、実は全部計算の上で自分を転がしていたのだと気づいたのだ。
「ヴィ、ヴィオラぁぁぁぁッ!! お前というやつはぁぁぁっ!!」
「キャッ! 旦那様、顔が怖いです〜! でも抱きしめてくださった時の温もり、私、一生忘れませんからねっ♪」
「もう何も言うなー! セバスチャン、冷水だ! 今すぐ冷水を持ってこい!!」
頭から湯気を上らせたアルベルトは、真っ赤な顔のまま執務室から逃げ出していった。その背中はどこか情けなく、しかしどこまでも愛おしい。
残された執務室で、ヴィオラはフッと息を吐き、髪を整えた。
「まったく、セバスチャンさんたら。野暮な解説はナシって約束でしょう?」
「失礼いたしました、奥様。ですが、あれ以上旦那様の理性が加熱いたしますと、王都の夜会を前に旦那様が知恵熱で倒れてしまいますので」
「あはは、確かにそれもそうね」
ヴィオラは窓の外、王都の煌びやかな夜景を見つめた。
アルベルトの心は完全に手に入れた。彼が自分に向ける情熱と保護欲は、今や絶対の武器だ。
新事業の妨害を企む影の存在も炙り出せた。
「さて……暗殺者なんて不粋な真似をしてくれた裏切り者さんには、王都の夜会でたっぷりお返しをしてあげないとね」
元No.1ホステスの瞳に、妖しいプロの光が宿る。
ハルシュタット辺境伯夫妻の、社交界を舞台にした反撃の幕がいよいよ上がろうとしていた。
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