第20話:ビジネスパートナーから「特別な女」へ
ハルシュタット領の新事業――特産品を活用した高級ブランディング事業と、効率的な物流網の確立は、王都の社交界と商業ギルドを大揺れに揺らす大成功を収めた。
決算書に並ぶ数字は、去年の同時期の実に三倍。
別邸の大広間では、成功を祝う豪華絢爛な祝勝会が催されていた。
「いやあ、アルベルト様! このような革新的な仕組みを考案されるとは、さすがハルシュタット辺境伯だ!」
「まさに領地の救世主! 素晴らしいお披露目でした!」
貴族や有力商人たちが代わる代わるアルベルトに杯を掲げ、口々に称賛を贈る。
アルベルトはいつもの不敵な笑みを浮かべて応対していたが、その視線はグラスの縁越しに、会場の少し離れた場所へと向けられていた。
そこには、漆黒と深紅のドレスに身を包んだヴィオラがいた。
胸元を強調しすぎず、それでいて首筋と鎖骨のラインを最も美しく見せる絶妙な仕立てのドレス。艶やかな髪は洗練されたアップスタイルにまとめられ、彼女が微笑みを浮かべてグラスを傾けるたび、周囲の男性陣の目が釘付けになっている。
(……あいつは。相変わらず、自分の見せ方を完璧に理解している……)
ヴィオラが提示した顧客管理(CRM)とマーケット戦略がなければ、この成功は絶対にあり得なかった。彼女は間違いなくハルシュタット領における「最高にして無敵のビジネスパートナー」だ。
だが――。
(……くそっ。なぜだ)
アルベルトの胸の奥が、焼けるように熱い。
彼女が他の貴族の男と親しげに会話をし、前世で培った極上の微笑み(※太客を落とすための営業用スマイル)を振りまくたびに、強烈な独占欲と苛立ちが頭を支配する。
かつてなら「優秀な監視対象」「使える秘書」として誇らしく眺めていられたはずだった。
しかし、あの襲撃事件で彼女を抱きしめて以来、アルベルトの目にはもう、彼女が「仕事のパートナー」として映らなくなっていた。
「……セバスチャン」
「はい、旦那様。氷結冷水シャワーのおかわりでございますか?」
「違う! グラスを下げろ。……少し、風に当たってくる」
アルベルトは手元のグラスを執事に押し付けると、人だかりをすり抜け、ヴィオラの方へと歩き出した。
◇
「――ですから、流通の独占ではなく『ハルシュタットブランドの価値向上』を目指しておりますの。次回のお取引も楽しみにしておりますわ♪」
「おお、なんと聡明で美しい奥様だ……! ハルシュタット卿が羨ましい!」
満足気に去っていく貿易商人の背中を見送りながら、ヴィオラは心の中でフッと小さく息を吐いた。
(よし、これで王都の大手商会との長期契約は確保。完璧なお仕事ね。前世の銀座で学んだ『相手を立てつつこちらの利益を最大化する会話術』は、この世界でも百発百中だわ)
シャンパンを一口含み、自画自賛の笑みを浮かべていたその時。
ぐいっと強い力で腕を引かれた。
「えっ……? きゃっ」
「……こちらへ来い、ヴィオラ」
低く抑えられた、しかし拒否を許さない声。
見上げると、眉間に深いシワを寄せたアルベルトが立っていた。そのまま彼は、周囲の目を盗むようにヴィオラを連れ出し、広場から続く夜風の吹き抜けるテラスへと連れ出した。
重厚なガラス扉が閉まり、狂騒のようなパーティーの喧騒が遠のく。
月光だけが照らす静寂のテラスで、ヴィオラは首をかしげた。
「旦那様? どうされたのですか、主役が会場を抜け出したりして……」
「……主役はお前だろう。今日の利益を生み出したのは、お前の頭脳だ」
アルベルトは手すりに背を預け、腕を組んだ。
しかし、その表情は新事業の大成功を喜ぶ者の顔ではない。どこか苦しげで、険しい。
ヴィオラは「あ、仕事の成果に満足していないのかしら?」と解釈し、秘書モードの笑顔を浮かべた。
「ご安心ください、旦那様。今回の利益はあくまで第一波に過ぎません。来期はさらに20%の増収を見込んでおります。決算書と今後のロードマップは明日の一番に――」
「仕事の話をしているんじゃない!!」
突如として放たれた強い声に、ヴィオラは言葉を詰まらせた。
「……旦那様?」
「……お前は、いつもそうだ」
アルベルトがゆっくりと歩み寄り、ヴィオラとの距離を詰める。
月光に照らされた彼の青い瞳が、激しい熱を帯びてヴィオラを射抜いていた。
「常に完璧で、常に冷徹で、私の期待以上の成果を叩き出す。……仕事においては、お前以上のパートナーなど世界中どこを探してもいないだろう」
「……お褒めいただき、光栄ですわ」
「褒めていない!」
アルベルトの手が伸び、ヴィオラの肩を掴む。
強い力。だが、痛くはない。彼の指先が、かすかに震えているのが伝わってきた。
「私は……苦しいんだ、ヴィオラ」
「……え?」
「数字の話も、事業の話も、利益の話もどうでもいい! 今の私には、お前が『優秀な秘書』として完璧に振る舞えば振る舞うほど……胸が張り裂けそうになる!」
ヴィオラは瞬きをした。
前世の歌舞伎町と銀座で無数の男たちの本音を見抜いてきた彼女の頭脳が、一瞬、処理落ちを起こす。
(え……? どういうこと? 成果を出して怒られる筋合いはないんだけど……ううん、待って。この瞳、この呼吸の乱れ、この距離感……)
ヴィオラの脳内データベースが弾き出した答えは、ビジネスの損益計算ではなく、「一人の男が、一人の女に完全に落ちた瞬間」のデータだった。
「旦那様……それって……」
「お前はあの夜会で、他の男たちにあの笑みを振りまいていた。……かつてなら『いい外交だ』と感心していただろう。だが今は違う。あの男たちの視線が、お前に触れることすら耐えがたい!」
アルベルトの顔が、至近距離まで迫る。
彼の熱い吐息が、ヴィオラの唇を掠めた。
「もう……お前をただの『監視対象』や『ビジネスパートナー』として見ることができないんだ。お前が私をどう思っていようと……私にとってお前は、もう……『一人の特別な女』なんだよ……ッ」
胸の奥を直接揺さぶるような、切切とした告白。
前世で、営業用の甘い言葉を何千回と吐き、何千回と聞いてきたヴィオラ。
「愛してる」「お前だけだ」という言葉の軽さを誰よりも知っていたはずの彼女の心臓が、ドクンと激しく跳ね上がった。
(……やだ。なにこれ……)
ヴィオラの頬が、急速に熱くなっていく。
計算や駆け引きではない、本物の動揺が彼女の全身を駆け巡る。
「だ、旦那様……私、は……」
「私を『顧客』として扱うな。あざとい計算で転がそうとするな。……ただの男として、私を見ろ、ヴィオラ」
アルベルトの手が肩から滑り落ち、彼女の頬を優しく包み込む。
その眼差しには、権力者としての威厳も、冷徹な当主の仮面もなく、ただただ一人の少女を愛おしむ純粋な情熱だけが宿っていた。
ヴィオラは完璧な「秘書の微笑み」を作ろうとしたが、上手く口角が上がらない。
初めて、歌舞伎町のNo.1のメッキが剥がれ落ち、素の女の子としての動揺が顔に出てしまう。
「……そんな目で見つめられたら……計算が、狂ってしまいます……」
ぽつりと漏らしたヴィオラの小さな声に、アルベルトの瞳が揺れた。
ふっと彼の唇が柔らかく綻びる。
「狂えばいい。……お前の完璧な計算など、私が全部壊してやる」
そのまま、アルベルトがゆっくりと顔を近づけ――二人の距離がゼロになろうとした、その瞬間。
ガチャリ。
静かな音を立ててテラスの扉が開き、月明かりの中に影が射した。
「旦那様、奥様。誠に申し訳ございません」
完璧な角度のお辞儀で立っていたのは、執事セバスチャンだった。
「会場内にて『ハルシュタット卿夫妻による勝利の乾杯』を求める声が最高潮に達しております。また……旦那様の顔面の発熱量が規定値をオーバーしておりますので、冷却用の氷嚢もお持ちいたしました」
「「………………」」
時が止まった。
アルベルトはピクピクと眉を跳ね上げ、真っ赤な顔でガバッとヴィオラから離れた。
「セ……セバスタァァァンッ!! お前は! なぜ! いつも! 一番いいところで入ってくるんだぁぁぁッ!!」
「執事の嗜みでございます、旦那様。……それと奥様」
セバスチャンはヴィオラに向かって、フッと意味深な笑みを浮かべた。
「本日ばかりは、奥様の『計算通り』とはいかなかったご様子。……実に微笑ましい変化でございますね」
「〜〜〜ッ!? な、何を言っているのよセバスチャン! 私は別にっ、動揺なんてしてないわよ! 全く、全然、一ミリも!!」
ヴィオラは赤くなった顔を隠すように両手で頬を押さえ、プイッと顔を背けた。
前世から通算して初めて「男にペースを乱された」という事実に、心臓のバクバクが収まらない。
アルベルトは、真っ赤になって照れ隠しをするヴィオラの横顔を見つめ、ハッと息を呑んだ。
そして、どこか嬉しそうに、誇らしげに唇を吊り上げた。
「……フッ。なんだ、お前もそんな顔ができるんじゃないか」
「うるさいです旦那様! ほら、乾杯のお仕事に行きますわよ! 早く来てくださいっ!」
早足で会場へと戻っていくヴィオラの背中を追いかけながら、アルベルトは胸の内で誓った。
(もうビジネスパートナーという逃げ道は作らせない。……必ず、お前の心を完全に手に入れてみせる)
ハルシュタット領の最強タッグは、ビジネスの領域を超え、本当の「夫婦」へと向けて、甘く激しい新たなフェーズへと踏み出したのだった。
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