第46話:翌朝の溺愛モード爆発と周囲の温かい目
「……アルベルト様? あの、そろそろ離していただけませんかしら……?」
ハルシュタット城の当主執務室。
朝食を終えた後、本来なら領地の報告書や書類仕事に追われているはずの時間帯である。
しかし、豪奢な執務机の前に座るアルベルトの膝の上には――すっぽりと収まったヴィオラの姿があった。
「ダメだ」
アルベルトは一切の迷いなく即答すると、ヴィオラの細い腰をさらに強く抱き寄せ、その首筋にぐりぐりと頬を擦りつけた。
「片時も離したくない。……いや、離すつもりなど毛頭ない」
「毛頭ない、ではありませんわ! ここは執務室ですのよ!? ほら、書類もたくさん溜まっていますのに……ッ」
「書類など後回しだ。今の私にとって最優先事項はお前だ、ヴィオラ。……体調は本当に大丈夫なのか? どこか痛むところはないか? 何か食べたいものは? 欲しいものは?」
怒涛の勢いで繰り出される心配と愛の言葉。
昨夜、28年間の理性のタガが完全に決壊した「北の鬼神」は、一夜明けて『重度の溺愛・重体男』へと凄まじい変貌を遂げていた。
「大丈夫ですと、今朝から何度も申し上げましたわ……! それより、私を抱っこしたままお仕事なさるおつもりですの!?」
「そのつもりだが? 何か問題でも?」
「大アリですわよ!!」
ヴィオラは真っ赤な顔でポカポカと彼の胸を叩くが、鋼のようなアルベルトの胸筋には微風ほどの効果もない。それどころか、アルベルトは「ふふっ、可愛いな」と言わんばかりに目尻を下げ、ヴィオラの手に優しくキスを落とす始末だ。
(な、なんなのこの激変ぶりは……!? 昨夜までの不器用で不器用で仕方なかった旦那様はどこへ行ってしまわれたのー!?)
元歌舞伎町No.1として、男の甘えや執着には慣れていたはずのヴィオラだったが、本気になった純情アラサー男の全力投球すぎる愛には、キャパシティが完全にオーバーしていた。
コンコン。
その時、執務室の扉が控えめに叩かれた。
「閣下、失礼いたします。朝の紅茶と、昨日の国境警備に関する報告書をお持ちいたしました」
「あッ……!!」
扉を開けて入ってきたのは、ハルシュタット家に長年仕える筆頭執事のハンスだった。
ヴィオラは慌ててアルベルトの膝から飛び降りようとしたが、がっちりと固定された腰は1ミリも動かない。
「ア、アルベルト様、離してっ……! ハンス様がいらっしゃいましたわ!」
「構わん。ハンスなら身内だ」
「そういう問題じゃありませんわ――っ!?」
顔を真っ赤にして身をもだえさせるヴィオラと、それを「愛おしくてたまらん」という甘々の眼差しで見つめながら離さないアルベルト。
その二人を目にした筆頭執事ハンスは――。
ワゴンを押す手を止め、眼鏡のブリッジをスッと指で押し上げた。
そして、微塵も驚くことなく、深く、深ーく息を吐いた。
「……やれやれ。やっと素直になられましたか、閣下」
「……む?」
アルベルトが眉をひそめると、ハンスは穏やかで、しかしどこか「生温かい」笑みを浮かべた。
「幼少期よりお側に仕えてまいりましたが、閣下がこれほどまでに『駄々っ子』のようなお顔をされているのは初めて拝見いたしましたぞ。いやはや、奥様のお力には脱帽いたしますな」
「だ、駄々っ子……!? ハンス、私に対して無礼だぞ!」
「いいえ、事実でございます」
ハンスは静かにワゴンから紅茶のカップを二つ取り出し、執務机の上に置いた。一つはアルベルトの前に、そしてもう一つは、彼の膝の上にいるヴィオラの目の前に。
「奥様、どうぞ。お疲れの体に効くよう、少し甘めのハーブティーをご用意いたしました」
「あ、ありがとうございます、ハンス様……。その、お見苦しいところをお見せしてしまって……」
「滅相もございません」
ハンスは目尻のシワを深め、温かい眼差しで二人を見つめた。
「これまで閣下は、お一人でハルシュタットの全てを背負い、己の感情すら殺して生きてこられました。その閣下が……こうして大好きな奥様に甘え、なりふり構わず愛を注いでおられる。執事として、これ以上の喜びはございません」
「ハンス……」
アルベルトが少し気まずそうに咳払いをする。
「ただ……」と、ハンスはクスリと笑った。
「奥様を困らせすぎるのは感心いたしませんな。閣下、本日の午後は領地貴族との定期会議もございます。そろそろお仕事にお戻りになられませんと、騎士団長が泣いてすがりついてまいりますぞ?」
「ぐっ……。分かっている……」
ハンスの「長年の忠臣」ならではの温かくも厳しい言葉に、アルベルトはぐうの音も出ない様子だった。
◇
ハンスが退出して間もなく、今度はドタバタとした荒々しい足音が廊下から近づいてきた。
「閣下ーっ! 昨夜の巡回報告と、来週の新人訓練の予定表を持ってまいりました――って、ぶっ!?」
勢いよく扉を開けて飛び込んできたのは、騎士団長のグスタフだった。
豪快で脳筋な彼だったが、執務室の中の光景を目にした瞬間、言葉を失ってフリーズした。
そこには、相変わらずヴィオラを膝に乗せたまま、彼女の髪を愛おしそうに撫で回している「北の鬼神」の姿があったからである。
「……え? あ? 俺、部屋間違えたか……? ここは閣下の執務室だよな……?」
グスタフは一度扉を閉め、プレートを確認してから再び開けた。
状況は変わっていなかった。
「な、ななな、閣下ぁぁぁ!? なんですかその格好はッ!? 奥様を膝に乗せて何をお仕事なさっているのですかーっ!?」
「騒々しいぞ、グスタフ。大声を出すな、ヴィオラが驚くだろう」
「いや驚いてるのは俺ですよッ!! あの冷血無情、鉄の理性を持つと言われた閣下が……奥様にデロデロに甘えているなんて……! 夢か!? 俺は今、過酷な訓練のせいで幻覚を見ているのか!?」
グスタフが頭を抱えて叫ぶと、膝の上のヴィオラが恥ずかしそうに顔を伏せた。
「グスタフ様……お見苦しいところを……。アルベルト様が、どうしても離してくださらないのです……」
「奥様……! お可哀想に、閣下の重すぎる愛に付き合わされて……!」
「グスタフ、貴様、我が妻の前で余計な口を叩くな。斬るぞ」
アルベルトが青い瞳をギロリと光らせる。かつてなら戦場の敵を震え上がらせたであろう圧巻の殺気――のはずだったが。
「いやいや閣下! 全然怖くないですよ! 顔が甘やかしモード全開で『ヴィオラ命』って書いてありますからね!」
グスタフは呆れ果てたように肩をすくめると、やれやれと首を振った。
「まあ……でも」
グスタフの表情が、ふっと柔らかくなった。
「良かったですよ、本当に。閣下がこうして一人の男として、大切な人を全力で愛せるようになって。昔の閣下は、いつ折れてもおかしくないくらい張り詰めていましたからね。……奥様、我が主をここまで変えてくださって、本当にありがとうございます」
騎士団長として、そして一人の友人として、グスタフは深々とヴィオラに頭を下げた。
「グスタフ様……」
「ですが閣下!」
グスタフは途端にニヤリと不敵な笑みを浮かべ、生温かい目でアルベルトを指さした。
「あまりにも甘々すぎて、部下の前で威厳を保てなくなっても知りませんからね~? 『鬼神閣下は奥様の膝枕がないと書類も読めない』って、騎士団全員に噂を広めておきますから!」
「なっ……! 貴様、調子に乗るなよ……ッ! 誰が膝枕がないと読めないだッ!」
「え? 膝の上に仕事持ち込んでる時点で説得力ゼロですよ!」
「~っ!!」
普段なら冷徹に一蹴するはずのアルベルトが、部下のからかいに対して顔を真っ赤にして言い返している。
その微笑ましいやり取りを見て、ヴィオラは思わずクスクスと声を上げて笑ってしまった。
「ふふっ……ふふふっ!」
「ヴィオラ……? なぜ笑うのだ……?」
アルベルトが不思議そうにヴィオラを見下ろす。
ヴィオラは彼の首にそっと腕を回すと、サファイアブルーの瞳をキラキラと輝かせた。
「だって……アルベルト様が、皆様にこんなにも愛されていらっしゃることが、とっても嬉しくて」
「……っ」
「冷血な鬼神様なんて、どこにもいらっしゃいませんわ。ここにいらっしゃるのは……少し過保護で、最高に格好いい、私の大好きな旦那様ですもの♪」
あざとく、けれど100%の真心がこもったヴィオラの笑顔。
それを至近距離で浴びたアルベルトは、一瞬で全言語機能を失ったようにフリーズした。
「ぐっ……!!」
アルベルトは胸を押さえ、ヴィオラの肩にガクリと額を預けた。
「……反則だ、ヴィオラ。そんな顔をされたら……私は本当に、仕事を全て投げ出してしまいそうだ……」
「ダメですわよ? お仕事はちゃんとなさってくださいね、旦那様♪」
その光景を、扉の脇で見守っていた筆頭執事ハンスと騎士団長グスタフは、顔を見合わせて深く頷き合った。
「(やれやれ……これは当分、ハルシュタット城は砂糖を吐くような甘い日々に包まれそうですな)」
「(だな……。まあ、平和で結構なことだ!)」
二人の温かい(生温かい)視線に見守られながら。
「重度溺愛男」へと覚醒したアルベルトと、彼を愛おしく包み込むヴィオラの、甘すぎる新婚生活は賑やかに続いていくのだった。
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