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第44話:理性の決壊、「お前が欲しい」

隣国との問題が全て片付き、訪れた静寂な夜。

ハルシュタット城の当主部屋へ続く廊下を、アルベルトは一人重い足取りで歩いていた。


今年で28歳になるアルベルト・ハルシュタット。

「北の鬼神」と恐れられ、十で両親を失ってからというもの、彼の人生は戦いと責任の連続だった。戦場では刃をくぐり抜け、政敵の奸計を退け、己の欲望などすべて押し殺して生き抜いてきた。

女性を遠ざけ、清廉潔白であり続けた28年間。彼が築き上げた理性の城塞は、誰一人として崩せぬ鉄壁であったはずだった。


――だが今夜、その城塞が、たった一人の少女の手によって脆くも崩れ去ろうとしていた。


(落ち着け……。彼女を大切にするのだ。焦るな、私はハルシュタットの当主だ……)


自室の扉を前に、アルベルトは何度も深呼吸を繰り返していた。

手にしたワイングラスを持つ手が、己の鼓動の激しさゆえにわずかに震えている。


過去の発言――「手を出さない」「跡継ぎは不要」という虚飾の誓いなど、昨夜のヴィオラからの温かい言葉によって全て解き放たれた。

だが、解き放たれてしまったからこそ、内に秘められていた長年の情熱が暴走しそうになり、彼は必死に理性の手綱を引いていたのだ。


「……ヴィオラ。私だ。入っても良いか?」


「ええ、どうぞお入りになって……旦那様♪」


扉の向こうから返ってきたのは、鈴を転がすような甘い声。

アルベルトが意を決して重い扉を開けた瞬間、彼が28年間保ち続けた理性のタガは、あっけなく音を立てて弾け飛んだ。


◇


部屋の中は、ほの暗いキャンドルの光に包まれていた。

甘く官能的なハーブの香りが漂う空間。その中心――天蓋付きのベッドの端に、ヴィオラが腰掛けていた。


シルクとシースルーレースで仕立てられた、妖艶なナイトベビードール風の衣装。

華奢な肩から落ちそうな細い紐、惜しげもなく晒された白い鎖骨と透き通るような肌。そして何より、キャンドルの光を受けてあやしく輝くサファイアブルーの瞳。


「おかえりなさいませ、アルベルト様。お仕事、本当にお疲れ様でしたわ」


ヴィオラは小さく首をかしげると、あざとく可憐な笑みを浮かべた。

脚をふわりと組み替えると、ドレスの裾がわずかに持ち上がる。


「っ……!!」


アルベルトは息を飲み、その場に棒立ちになった。

全身の血が激しく逆流し、耳の奥でドクドクと警鐘のような鼓動が鳴り響く。


「……ヴィ、オラ……。その格好は、一体……」


「あら? 旦那様のために用意させましたのよ? お気に召しませんでしたかしら……?」


ヴィオラは少しだけ眉を下げ、潤んだ瞳で上目遣いにアルベルトを見つめた。

前世の歌舞伎町で培った、男の庇護欲と独占欲を極限まで刺激する「あざといポーズ」。

だが、いま彼女の瞳の奥にあるのは、営業用の作り物などではない。


アルベルトだけを愛し、彼にすべてを捧げたいと願う、純度100%の本気の情熱だった。


「変……ではありませんわよね? 旦那様に……もっと私を見ていただきたくて……」


そう言いながら、ヴィオラは指先で自分の胸元をゆっくりと撫で下ろした。

あざとく、けれどどこか照れたように頬を赤らめるその姿。


(……くっ……!!)


アルベルトの頭の中で、何か決定的なものがパチンと音を立てて切れた。


28年間、過酷な辺境で己を律し、欲望を殺し、ストイックに生きてきた男の理性。

どんな誘惑も、どんな試練も跳ね返してきた鉄壁の城塞が、彼女のその一言、その瞳、その指先によって、一瞬で粉々に打ち砕かれたのだ。


「……ヴィオラ」


アルベルトの低い声が、部屋の静寂を切り裂いた。

いつもなら整っている低音ボイスが、今は熱と欲望で低く掠れている。


「……あ、アルベルト様……?」


大股で近づいてくるアルベルトの足音。

その青い瞳に宿る、今まで見たこともない猛烈な熱量と野獣のような鋭さに、ヴィオラは思わず息を呑んだ。


アルベルトはベッドの前に立つと、ワイングラスをサイドテーブルにガタンと音を立てて置いた。

そして、逃げようとするヴィオラの細い手首を掴み、そのままベッドの上へと押し倒した。


「ひゃあ……っ!?」


ドサリと柔らかなマットレスに背中が沈む。

目の前には、自分を完全に覆い隠すほどのアルベルトの大きな体躯。

彼の上半身が覆いかぶさり、至近距離で荒い息がヴィオラのアゴや首筋にかかった。


「ア……アルベルト、様……?」


先ほどまで「あざとく誘う」側だったヴィオラだが、目の前の男の本気の気迫に気押され、急激に鼓動が跳ね上がった。


アルベルトはヴィオラの手首をベッドの上に固定するように強く握りしめ、青い瞳で彼女のサファイアブルーの瞳を射抜くように見つめた。


「……よくも、私を試してくれたな、ヴィオラ」


「つ、試してなんて……っ! 私はただ、貴方様に喜んでいただきたくて……」


「嘘をつけ」


アルベルトの低い声が、ヴィオラの耳元で鼓膜を震わせる。


「お前は知っていたはずだ。私がどれほどお前を欲していたか。どれほど必死に、お前を大切にしようと理性を保っていたかを……!」


アルベルトの大きな手がヴィオラの手首から離れると、そのまま彼女の頬を撫で、華奢な首筋、そしてシルクの生地越しに細い腰へと滑り落ちていく。

その手が触れる場所すべてが、熱火で焼かれたように熱い。


「28年間……私は一度たりとも、己の欲望に負けたことはなかった」


アルベルトは切切とした、狂おしいほどの声で囁いた。


「だが……お前のその顔を、その身体を……そんな姿で見せつけられて、理性を保てる男がこの世にいると思うか……?」


「アル、ベルト……様……」


「お前が私を狂わせたのだ」


アルベルトはヴィオラの耳たぶを優しく噛み、そこからアゴ、そして首筋へと熱い唇を落としていった。


「んっ……っ、あ……」


ヴィオラの口から、艶やかな漏れ声が零れる。

前世の歌舞伎町でどんな甘言を囁かれても動じなかった彼女の心が、アルベルトのストレートな熱情によって、トロトロに溶かされていく。


「責任を取れ、ヴィオラ」


アルベルトは顔を上げると、真っ赤になったヴィオラの顔を見つめ、力強く宣言した。


「私をここまで狂わせた責任を……今夜、身体で取ってもらう」


その言葉には、かつて「手を出さない」「過去の発言に縛られる」と悩んでいた不器用な男の姿はどこにもなかった。

ただ一人の愛する女性を心から求め、完全に奪い尽くそうとする、情熱的な一人の「男」がそこにいた。


「っ……!!」


ヴィオラの胸が、キュンと締め付けられるように跳ね上がった。

あざとく誘ったはずの自分が、逆に彼の本気の愛と独占欲に飲み込まれていく。

それが、たまらなく嬉しく、愛おしかった。


ヴィオラは束縛から解放された手をそっと伸ばすと、自らアルベルトの逞しい首に両腕を回した。


「……ふふ、望むところですわ……♪」


ヴィオラはサファイアブルーの瞳をうるうると濡らし、最高の笑顔で彼の青い瞳を見つめた。


「責任でも何でも……取って差し上げます。……私のすべてを、貴方様に差し上げますわ……アルベルト様」


「ヴィオラ……ッ!」


その言葉が引き金となり、二人の唇が激しく重ね合わされた。


昨夜までの躊躇いは、もうどこにもない。

深く、熱く、お互いの息を奪い合うような濃厚なキス。

アルベルトの手がヴィオラの細い腰を強く引き寄せ、ふたりの身体が隙間なく密着する。


「んん……っ、あ……アル、ベルト……っ」


「逃がさん……お前の指先ひとつ、髪の一本まで……すべて私のものだ」


解かれていく衣装。

キャンドルの揺らめく光の下で、二人の影がひとつに重なり合っていく。


28年間保ち続けた理性のタガが完全に決壊し、二人は甘く熱い愛の海へと深く落ちていった。


◇


朝の爽やかな光が、カーテンの隙間から差し込んでくる。


「……ん……」


ヴィオラはまぶたを開け、ゆっくりと意識を取り戻した。

全身を包む、心地よい脱力感と深い幸福感。


ふと横を見ると、アルベルトが彼女の身体をしっかりと抱きしめたまま、すぐ目の前で眠っていた。

その顔には、かつて「鬼神」と呼ばれた頃の冷徹さや影は一切なく、愛する妻を得た男の満足気で安らかな表情が浮かんでいる。


(……本当に、理性のタガが外れていらっしゃいましたわね……♪)


ヴィオラは頬を赤らめながら、思い出して身体を丸くした。

昨夜のアルベルトの情熱的な言葉と、激しい抱擁。

前世のどんなテクニックも通じない、本気の愛で満たされた夜。


そっと指先でアルベルトの鼻先を突くと、彼の青い瞳がゆっくりと開いた。


「……ん……ヴィオラ……」


「おはようございます、私の旦那様♪」


ヴィオラが微笑むと、アルベルトは夢から覚めたように目を見開き、一瞬で顔を真っ赤にした。


「あ……ヴィオラ! 昨夜は……その……すまない! 私はあんなにも取り乱して……お前に辛い思いをさせていないか!?」


慌てて飛び起き、ヴィオラの体調を気遣うアルベルト。

昨夜の野獣のような男から、一瞬でいつもの過保護で不器用な夫に戻った姿が可笑しくて、ヴィオラは声を上げて笑ってしまった。


「ふふっ! 大丈夫ですわ、アルベルト様。……とっても、幸せでしたもの♪」


「……ヴィオラ……」


アルベルトの表情が和らぎ、愛おしさに胸を詰まらせたようにヴィオラを強く抱きしめた。


「ありがとう……お前は私の、最高の……生涯唯一の妻だ」


「ええ。私も……世界で一番、アルベルト様を愛しておりますわ♪」


二人は朝の光の中で、優しく甘いキスを交わした。


かつて「生贄」として嫁いできた少女と、「冷酷」と恐れられた辺境伯。

二人の間にあったすべての壁は崩れ去り、誰にも引き裂くことのできない「本当の夫婦」として、新たな未来を歩み始めたのだった。

お読みいただき、本当にありがとうございました!


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皆様の評価一つ一つが、作者の何よりの支えです。


現代恋愛シリーズも投稿しております。

まだ作品は少ないですが、かぶんすのプロフィールからご覧ください。

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