第42話:嫉妬の炎、自分自身の過去の発言に苦しむ
「……セバスチャン。私は……どうすればいいのだ」
早朝の執務室。
頭を抱え、重苦しい溜め息を吐き出すアルベルトの姿があった。その青い瞳には、まるで国家の存亡がかかった決戦前夜のような悲壮感が漂っている。
控えるセバスチャンは、心底呆れたように眼鏡の位置を直した。
「……旦那様。今朝で何回目のお悩みでございますか。昨夜、奥様に『お前との子供が欲しい』と熱烈にお迫りになられたのではなかったのですか?」
「そ、そこなのだよ……!」
アルベルトは顔を真っ赤にしてデスクを両手で叩いた。
「昨夜はエリスの子を見て動転し、つい取り乱して勢いで言いたい放題言ってしまった! だが……冷静になって考えてみろ! 私はヴィオラと結婚した当初、何をと言い放った!?」
「はあ……『お前に手を出すつもりはない』『契約上の妻として扱う』『ハルシュタットの跡継ぎなど不要、妹の子で十分だ』……などと、威風堂々と宣っておられましたな」
「そうなのだッ!!」
アルベルトは苦そうに顔を歪め、己の頭を抱え込んだ。
「冷酷な辺境伯として、あそこまで格好つけて宣言しておきながら『やっぱり撤回する、抱かせてくれ、子供も作ってくれ』などと……! 男として、当主として、あまりにもプライドと節操がなさすぎるではないか! ヴィオラに『なんだ、口ほどにもない節操のない男だ』と失望されたらどうする!?」
「……昨日、ご自身で『前言撤回だ!』と大声で叫んでおられましたが」
「あれは事故だ! 興奮のあまり口が滑ったのだ! 本来なら、ちゃんと筋を通し、紳士として、夫として……ッ!」
生真面目すぎるがゆえに、過去の自分の「格好つけた発言」という呪縛に自ら囚われ、身動きが取れなくなっている男。それが今のアルベルトであった。
セバスチャンは深々とため息を吐いた。
「はぁ……。奥様は旦那様を愛しておられますし、昨夜のことなど別段気にされておられないと思いますがね……」
「いや、駄目だ! ヴィオラは聡明で誇り高い女性だ。私のようなブレブレの男に失望されたら、私の心が壊れてしまう……ッ!」
一人で勝手に崖っぷちに追い詰められ、頭を抱えて悶絶するアルベルト。
だが、彼のこの不毛な葛藤を、さらに地獄へと叩き落とす「事件」が、その日の午後に発生した。
◇
晴れ渡る中庭の訓練場。
そこでは私設騎士団の若手たちが汗を流していた。
そこに、手作りのクッキーと冷たい麦茶を入れた大きなカゴを持ったヴィオラが、侍女を連れて姿を現した。
「皆様、お疲れ様ですわ♪ お稽古の合間に、少しお休憩はいかがかしら?」
「「「ヴィ、ヴィオラ様ーーーーッ!?」」」
騎士たちが一斉に目を輝かせて駆け寄ってくる。
「おい見ろ! ヴィオラ様のお手製差し入れだぞ!」
「か、感激です! ヴィオラ様、今日も世界一お美しいです!」
「ふふ、ありがとうございます♪ はい、どうぞ。たくさん召し上がってくださいね」
あざとく首をかしげ、一人ひとりに笑顔でクッキーを配るヴィオラ。
前世の歌舞伎町で培った「人心掌握の微笑み」だが、今のヴィオラには下心など一切なく、純粋に領地を守る騎士たちを労っているだけだった。
そんな中、今年入団したばかりの期待の若手騎士・ルークが、耳を真っ赤にしながらヴィオラの前に進み出た。
「あの……ヴィオラ様っ!」
「あら、ルークさん? どうなさいましたの?」
「俺……あ、いや! 僕は、先日の経済戦でのヴィオラ様の知略に心から感動いたしました! 剣を持たずとも国を守るヴィオラ様は、僕の……僕の理想の女性ですっ! いつかヴィオラ様のお役に立てるような、一人前の騎士になります!」
純粋でまっすぐな、19歳の少年の憧れと情熱。
ヴィオラはサファイアブルーの瞳を優しく細め、ルークの手にそっとクッキーを握らせた。
「まあ……嬉しいお言葉ですわね。ルークさん、応援しておりますわ。頑張ってくださいね♪」
そう言って、ヴィオラはルークの手に自分の手を重ね、トントンと優しく叩いて微笑みかけた。
「は、はいぃっ!! 一生ついていきますッ!!」
ルークは顔をリンゴのように真っ赤にして、感無量といった様子で叫んだ。
さわやかで、微笑ましい、平和な一幕――。
……のはずであった。
ガタガタガタガタッ……!!!
訓練場の脇にある日陰の物陰。
そこで、木彫りの手すりをメリメリと音を立てて握りつぶしそうな勢いで、凄まじい眼光を放つ人物がいた。
アルベルト・ハルシュタットその人である。
(な…………なになに何をやっているのだあの男はぁぁぁぁぁッ!!!)
アルベルトの瞳の中で、ゴウゴウと地獄の業火のような嫉妬の炎が燃え上がっていた。
(私のヴィオラの手を握ったな!? 『理想の女性』だと!? 笑顔で応援しただと!? なぜだ、なぜ私には『手を出さない』などと距離を置いているのに、あの青二才にはあんなにも優しく触れ合うのだあぁぁぁっ!!)
血管がブチ切れそうなほど怒りと嫉妬で顔を歪めるアルベルト。
「……旦那様。物陰から鬼のような相形で若手を睨むのはおやめください。完全に不審者でございます」
後ろに立ったセバスチャンが呆れ顔で指摘するが、アルベルトの耳には届かない。
(くそっ……! 私が過去に『手を出さない』などと甘いことを抜かしていたから、ヴィオラは私を『男』として見てくれていないのではないか!? あの若造のような純粋な憧れの方に惹かれてしまったらどうするのだ!?)
自分で作った「過去の発言」という壁のせいで、ヴィオラに素直に触れられず、かといって近づく男には殺気立つ。
「あああ……くそっ! なぜ過去の私はあんな格好をつけたのだ……! 『妹の子で十分』だの『手に手を出さん』だの……バカか! 過去の私は大バカ者かぁぁぁっ!!」
アルベルトは自分の前髪をかきむしり、影で一人、激しい自己嫌悪と嫉妬で狂いそうになっていた。
◇
その夜。
アルベルトは一人、執務室で冷えたワインを煽っていた。
「……はぁ……」
頭の中を駆け巡るのは、昼間、若手騎士に優しく微笑んでいたヴィオラの顔。そして、昨夜自分が見せたみっともない取り乱し様。
(私は……なんて愚かなのだ。自ら『白い結婚』を望んでおきながら、今さら嫉妬に狂い、過去の発言に縛られて身動きが取れんとは……)
冷酷な鬼神と恐れられた自分が、一人の女性の笑顔ひとつでここまで翻弄され、悶絶させられている。
「はぁ……ヴィオラ……」
その時だった。
コンコン。
「アルベルト様? 入ってもよろしいかしら?」
「っ!?」
聞き覚えのある鈴を転がすような声。
アルベルトは跳ね起きるように姿勢を正した。
「あ、ああ! 入ってくれ、ヴィオラ!」
扉が開き、シルクのナイトウェアの上に羽織を羽織ったヴィオラが入ってきた。その手に、温かいホットミルクのカップを二つ持って。
「セバスチャンさんから伺いましたわ。アルベルト様が今夜も遅くまでお仕事をされていて、お顔が怖くなっていると」
「うぐっ……セバスチャンめ……」
ヴィオラはくすりと笑うと、デスクの前に進み出て、カップを一つアルベルトの前に置いた。
「どうぞ。お心が落ち着くハーブとハチミツを入れておきましたわ♪」
「あ、ありがとう……」
アルベルトが縮こまるようにカップを受け取ると、ヴィオラはあざとく首をかしげ、サファイアブルーの瞳でじっとアルベルトの顔を覗き込んできた。
「……アルベルト様? 今日はなんだか、元気がありませんのね。昼間も……訓練場の陰から、すごいお顔でこちらをご覧になっておられましたけれど」
「っっ〜〜〜〜!?」
見られていた!!
アルベルトの顔が一瞬で真っ赤になり、ワインを吹きそうになった。
「あ、あれはだな……! その、騎士たちの訓練の様子を、だな……!」
「ふふ、ルークさんのことを、まるで親の仇のようなお顔で睨みつけていらっしゃいましたわ♪」
「うっ……! い、いや、あれは……その……」
言い訳が思いつかず、冷や汗を流して視線を泳がせるアルベルト。
そんな彼の狼狽ぶりを見て、ヴィオラはすべてを察したように、ふっと柔らかく微笑んだ。
前世で百戦錬磨のホステスとして生きてきたヴィオラに、男の「強がり」や「嫉妬」が見抜けないはずがない。
アルベルトが過去に「手を出さない」「跡継ぎはいらない」と言っていた手前、自分から前言を撤回して甘えるのにプライドと申し訳なさで葛藤していること。そして、昼間の若手騎士に猛烈に嫉妬していたこと。
(……本当、この人は……どこまで不器用で、愛おしいのかしら……)
ヴィオラは小さく吐息をつくと、デスクを回り込み、アルベルトのすぐ隣へと歩み寄った。
「あ……ヴィオラ……?」
ヴィオラは躊躇なく、座っているアルベルトの膝の上にちょこんと腰掛けた。
ドクンッ!!
「っ!? ヴ、ヴィオラ……!?」
アルベルトの身体がカチンコチンに硬直する。
至近距離にあるヴィオラの甘い香り、柔らかな体温。
ヴィオラはアルベルトの首にそっと両腕を回すと、その耳元で小悪魔のように囁いた。
「……アルベルト様。過去のお約束なんて、誰も気にしておりませんのよ?」
「え……?」
「『手に手を出さない』とか『子どもはいらない』とか……そんな昔のカッコつけ、私はとうに忘れてしまいましたわ♪」
ヴィオラは顔を離すと、サファイアブルーの瞳でまっすぐにアルベルトを見つめ、あざとく微笑んだ。
「私が欲しいのは……過去の誓いに縛られたカッコいい当主様ではなく、私に嫉妬して、私を欲しがってくださる……今の、素直なアルベルト様ですの」
「ヴィ……オラ……」
「それに……」
ヴィオラはアルベルトの耳たぶにチュッと小さなキスを落とし、真っ赤になりながら照れくさそうに呟いた。
「……私も、旦那様との赤ちゃん……欲しいですもの♪」
――ドカンッ!!!
アルベルトの脳内で、理性の導線が完全に爆発した。
「……もう、限界だ」
アルベルトは低く掠れた声で呟くと、ヴィオラを逃がさないようにその細い腰を強く抱き寄せた。
「後悔しても遅いぞ、ヴィオラ……。今夜は二度と、私から逃げられると思うな……ッ!」
「ふふ……逃げたりいたしませんわ、私の愛しい旦那様♪」
長かった「白い結婚」と「過去の誓い」が完全に崩れ去り、二人は深く、激しい愛の渦へと落ちていくのだった。
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