第40話:すべての脅威が去り、残された「一つの問題」
ガルシア新政権との経済戦争が結末を迎え、祝勝宴の狂乱から数日。
ハルシュタット城には、かつてないほど穏やかで平和な時間が流れていた。
青空の下、満開の花々が咲き誇る城の中庭のテラス。
ヴィオラは日たたみの下で優雅に紅茶を傾けながら、帳簿をめくっていた。
「ふふ、ガルシアからの関税収入も順調。新しく買い取った港の貿易益も予定以上……我が家の資産価値、前年の三倍を超えましたわ♪」
サファイアブルーの瞳をキラキラと輝かせ、あざとく首をかしげるヴィオラ。
王都から「生贄」として嫁いできたはずの少女は、いまや領民からも使用人からも愛される、名実ともに最高の「至高の夫人」である。
だが――そんな平和そのものの屋敷の中で、たった一人、猛烈な葛藤と戦っている男がいた。
◇
執務室。
アルベルトはデスクの上で両手を組み、険しい表情で一点を見つめていた。
その凄まじい眼光と気迫に、部屋の隅に立つセバスチャンが静かに眼鏡のブリッジを押し上げる。
「……旦那様。何か新たな問題でも発生いたしましたでしょうか? ガルシアの過激派の残り火、あるいは王都の貴族どもの不穏な動きでも?」
「……いや、外敵の脅威は皆無だ。領内の治安も過去最高、経済も潤っている」
「では、領民からの不満でも?」
「まさか。ヴィオラのおかげで領民の満足度は天を突く勢いだ」
「……ならば、一体何をそれほど恐ろしい顔で悩んでおられるのですか?」
セバスチャンが不思議そうに首をかしげると、アルベルトは深く、重々しいため息を吐き出し、背もたれに体重を預けた。
「……セバスチャン。私は重大な事実に気づいてしまったのだ」
「ほう?」
アルベルトは顔を覆い、苦渋に満ちた(しかしどこか焦燥感を含んだ)低い声で呟いた。
「……もう、彼女を遠ざける理由が……どこにもない」
「…………は?」
一瞬、老執事の時が止まった。
アルベルトは赤くなった耳根を隠すように、ボソボソと叫ぶように言葉を続けた。
「思い出してみろ! そもそも、私がヴィオラと『白い結婚(形だけの夫婦)』のまま、別々の部屋で寝ていた理由はなんだ!?」
「はあ……。『いつ刺客に狙われるか分からず危険だから』『政略結婚で嫌々嫁がされた彼女に配慮するため』『ハルシュタットの過酷な環境に慣れるまでの契約だから』……とおっしゃっておられましたな」
「そうだ!!」
アルベルトはバンッと勢いよくデスクを叩いて立ち上がった。
「刺客や過激派など、ヴィオラが自白させて全滅させた! 環境どころか、彼女は領地一番の有名人だ! そして何より……彼女は私の前で『ずっと味方だ』と言ってくれたのだぞ! 私を愛してくれていると言ってくれたのだ!!」
「……左様でございますね」
「ならば……ならばだ!! 私は一体、何を遠慮して彼女と別々の部屋で寝ているのだ!? なぜ私は、毎夜毎夜、愛する妻を目の前にしながら一人で冷たいベッドに入っているのだ!? もう彼女を遠ざけ、手を出すのを我慢する理屈など、この世界のどこを探しても存在しないのではないか!!?」
アルベルトの叫びは、長年溜め込み続けた男の「理性の限界」そのものだった。
外部の敵と戦っている間は、領地を守る使命感で理性を保つことができていた。
だが、すべての脅威が去り、平和が訪れた今――遺されたのは「愛する妻と、いまだに清い関係のまま放置されている自分」という、あまりにも切実な問題だけだったのだ。
セバスチャンは呆れたように一息吐くと、ニヤリと意地悪な笑みを浮かべた。
「……なるほど。つまり旦那様は、すべての敵をなぎ倒した後に、最後の最後で『初夜の切り出し方』という最大の壁にぶち当たった、と」
「が……ッ!? 言い方を選べ、セバスチャン!!」
「フッ、何を今さら。男として腹をくくられよ、旦那様。奥様も……いつまでも生殺しにされては、拍子抜けというものでございますぞ?」
「なっ……生殺しだと……!?」
アルベルトの顔が、一瞬で爆発したように真っ赤になった。
◇
その日の夜。
ヴィオラは自室のドレッサーの前で、侍女に髪を梳かしてもらっていた。
シルクの薄手のナイトウェアに身を包み、優雅に読書をしようとしていたその時――。
コンコンッ。
規則正しい、しかしどこか固いノックの音が響いた。
「ヴィオラ、私だ。入っても良いか?」
「あら、アルベルト様? ええ、どうぞお入りになって♪」
扉が開き、アルベルトが入ってくる。
どこか様子がおかしい。いつもなら堂々とした歩調の彼が、なぜか背筋をピンと伸ばし、固い表情で立ち尽くしているのだ。
「……下がっていいぞ」
アルベルトが侍女に告げると、侍女は「お邪魔いたしました♪」と意図ありげな笑みを残して速やかに退室していった。
部屋に残されたのは、ふたりきり。
「アルベルト様? どうなさったのですか、そんな真面目なお顔をして……あ」
ヴィオラが立ち上がり、首をかしげた瞬間。
すっと間合いを詰めてきたアルベルトの手によって、逃げ場を塞ぐように両肩を抱きすくめられた。
「あ……アルベルト様……?」
目の前にあるのは、熱を帯びたアルベルトの青い瞳。
いつもなら、前世の歌舞伎町で培った余裕で「まあ、旦那様ったらお盛んですのね♪」とあざとく流すところだ。
だが、今夜のアルベルトから漂う雰囲気は、これまでと全く違っていた。
誤魔化しや冗談を一切受け付けない、本気の「男」の気が満ち満ちていたのだ。
「……ヴィオラ」
「は、はいっ……!」
思わず素の返声が出てしまうヴィオラ。
アルベルトは彼女の頬にそっと手を添え、指先で柔らかい肌を撫でた。
「……覚えているか? 私たちが最初に交わした『契約』を」
「け、契約……? 『ハルシュタット領に利益をもたらす間は、夫人としての地位を保証する』という……アレですかしら?」
「そうだ。そしてあの時、私はお前に『無理に夫婦の関係を強いるつもりはない』と言った」
アルベルトの低い声が、部屋の静寂に響く。
「あの頃の私は、お前を危険に巻き込みたくなかった。いつ死ぬかも分からない自分に、お前を縛り付けたくなかったのだ。……だから、別々の部屋を使い、距離を置いていた」
「アルベルト様……」
「だが……もう敵はいない」
アルベルトの顔が、息がかかるほどの距離まで近づいてくる。
「お前は私の心を救い、領地を救い、我が家の最高の夫人となった。……そして何より、お前は私のものだ」
アルベルトの強い手が、ヴィオラを逃がさないように腰をグッと引き寄せた。
「……もう、お前を遠ざける理由は、どこにもないのだよ」
「っ……!!」
ドクン、とヴィオラの後頭部で大きな心音が跳ねた。
前世で、百戦錬磨のホステスとして数多の男たちの甘言を聞いてきた。
どんな愛の言葉も「営業トーク」として処理し、冷ややかにあしらってきたはずだった。
なのに――目の前のこの男が発する、一切の計算もない、純度100%の情熱と独占欲の言葉に、胸が破裂しそうなほどキュンキュンと高鳴ってしまう。
(な、なにこれ……!? 私、なんでこんなにパニックになってるの……!?)
顔がリンゴのように真っ赤になっていくのを自覚する。
「あ、あのね……アルベルト様? 気持ちは嬉しいですけれど、その……心の準備というものが……っ」
あざとい仕草も、歌舞伎町の接客術も、完全に吹き飛んでいた。
ただの18歳の初々しい少女のように、ヴィオラはアルベルトの胸を押して目を泳がせた。
そんなヴィオラの可憐すぎる反応を見て、アルベルトの目がさらに熱く揺れた。
「心の準備? ……ヴィオラ。お前は私に『一生離さずに握りしめておく』と言ってくれたではないか。……なら、覚悟はできているのだろう?」
「うぐっ……! それは、その……経済的な意味とか、そういうニュアンスも含まれていて……ッ!」
「私にとっては同じことだ」
アルベルトはフッと、意地悪で、しかし甘やかな笑みを浮かべた。
「……今夜から、この部屋の鍵は閉めさせてもらう」
「か、鍵……!?」
「逃がさないと言ったはずだ、私の可愛い妻よ」
アルベルトはそのままヴィオラを軽々と横抱き(姫抱っこ)にすると、ベッドへと歩みを進めた。
「ひゃああっ!? あ、アルベルト様ぁぁぁっ!?」
普段の冷静沈着な「経済の女王」はどこへやら。
真っ赤になってジタバタと暴れるヴィオラと、長年の我慢を解禁して絶対に逃がさない構えのアルベルト。
平和が訪れたハルシュタット城で、二人の「本当の夫婦」になるための甘く激しい戦いが、今まさに始まろうとしていたのだった。
お読みいただき、本当にありがとうございました!
もし「面白かった!」「もっと読みたい!」と思ってくださったら、
ぜひ【ブックマーク】と画面下部にある、
【★★★★★】(ポイント評価)で作品への応援をお願いいたします。
皆様の評価一つ一つが、作者の何よりの支えです。
現代恋愛シリーズも投稿しております。
まだ作品は少ないですが、かぶんすのプロフィールからご覧ください。




