第4話:幼馴染みの騎士団長、義姉(18歳)のあざとさに爆笑する
ハルシュタット辺境伯邸の執務室。
アルベルトは、デスクの上に広げられた領内の防衛線に関する書類から視線を上げ、部屋に入ってきた男を睨みつけた。
「……何の用だ、ロラン。騎士団の朝練は終わったのか」
「よう、アル。冷たいな。ハルシュタット家が誇る鉄壁の右腕、ロラン・バルツァー騎士団長が、王都での任務を終えて無事に帰還したっていうのに、その態度はひどくないか?」
入ってきたのは、銀色の軽鎧を身にまとった二十代後半の青年。
爽やかな顔立ちに悪戯っぽい笑みを浮かべた男――ロランは、アルベルトの幼馴染みであり、同時にアルベルトの妹・エリスの夫でもある。
親しげに「アル」と呼べる数少ない人物だ。
ロランは執務室のソファに勝手に腰を下ろすと、にやりと笑った。
「それで? 早速だが、面白い噂を聞いたぞ。今度の六人目の奥様……ヴィオラ様だっけか? 何やら、あのセバスチャンがすっかり手懐けられて、甘々の見守りおじさんに退化したって?」
「手懐けられてなどいない!」
アルベルトはぴしゃりと言い放ち、ペンをデスクに叩きつけた。
「……あのセバスチャンは、胃腸を温める魔法の紅茶とかいう怪しいものに買収されただけだ。それに、使用人たちもだ。厨房の料理長から下っ端メイドのアニーにいたるまで、あの女のあざとい言葉に騙されている。ただの防諜上の手落ちだ」
「へえ? あの徹底的なアルベルトの屋敷で『防諜上の手落ち』ねぇ」
ロランは面白そうに顎をさすった。
「エリスから聞いたぜ? 『お兄様、今度はとんでもなくお労しくて健気な奥様をいじめているらしいわよ。おいたわしいこと』ってさ」
「私は普通のことを言っただけだ!」
アルベルトの額に再び青筋が浮かぶ。
その時、執務室の扉が静かにノックされた。
「旦那様、お忙しいところ失礼いたしますわ」
鈴を転がすような、可憐で涼やかな声。
扉が開くと、そこには薄い水色のドレスを着た、息をのむほど美しい十八歳の少女が立っていた。彼女の手には、冷たいガラスのカラフェとグラスが載ったトレイがある。
「ヴィ、ヴィオラ……!? お前、なぜここに」
アルベルトが思わず立ち上がると、ヴィオラは完璧な、しかしどこか儚げな笑みを浮かべて一歩足を踏み入れた。
「旦那様。お仕事中、突然お邪魔してしまって申し訳ありません。ですが……。先ほど、ハルシュタット家が誇る素晴らしい『右腕』、ロラン騎士団長様が王都よりお戻りになったと伺いましたの。お仕事でお疲れの旦那様と、長旅でお疲れのロラン様のために、少しでもお力になれればと思いまして……」
ヴィオラはロランに向き直ると、銀座の高級クラブで「旦那様の大切なビジネスパートナー」を迎える時の、最高峰の丁寧さと敬意を込めたお辞儀を披露した。
「はじめまして、ロラン様。アルベルト様の妻の、ヴィオラと申します。いつも、旦那様をそのお強い武勇と知略でお支えくださり、心から感謝申し上げますわ。旦那様から、ロラン様がどれほど頼もしく、家族としてもかけがえのない存在であるか、常々伺っておりましたの」
(――というのは大嘘だけどね。旦那様からは何一つ聞いてないわ。でも、こういう『旦那を立てつつ、その部下や相棒を最高に持ち上げる』のは、銀座では挨拶のイロハのイよ。ロラン騎士団長……ふむ。体格は無駄がなく、靴の磨き方や鎧の手入れに一切の妥協がない。職人気質で仕事に誇りを持っているタイプね。そして旦那様とは幼馴染み……ふふっ、この人も『大切なスタッフ』として攻略しがいがあるわね!)
ヴィオラの完璧な言葉と態度に、ロランは一瞬、唖然として固まった。
しかし、すぐにその顔に、何とも言えない愉快そうな笑みが浮かび上がる。
「ははっ……! これは、どうも。ご丁寧なご挨拶、恐れ入ります、義姉上。……俺のような荒くれ者の騎士に、これほど温かいお言葉をいただけるなんて光栄の極みです。なぁ、アル。お前、普段そんな風に俺のことを褒めてくれてたんだな?」
「……言って、いない……」
アルベルトは顔を微かに引きつらせ、蚊の鳴くような声で否定した。
「あら、旦那様、照れていらっしゃるのですか? 本当に、お仲間を大切にされるお優しい方ですこと」
ヴィオラはあざとく首を傾げ、トレイから冷たいレモネードを二人分、それぞれのデスクとテーブルにそっと置いた。
「どうぞ、ロラン様。王都から辺境までの長旅、本当にお疲れ様でございました。こちらは、ハチミツとレモン、そして長旅の筋肉疲労を和らげるクエン酸を多めに配合した、特製のレモネードでございますの。少しでもお疲れが癒えれば嬉しいですわ」
「お、クエン酸……? よく知ってるな、義姉上。……うん、これは美味い! 喉に染み渡るようだ」
ロランは一気にレモネードを飲み干し、感心したように目を丸くした。
「お気に召して、何よりですわ。ハルシュタット家の『鉄壁の盾』であられる騎士団の皆さまが健やかであってこそ、旦那様も安心してお仕事に専念できますもの」
ヴィオラは両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、アルベルトを熱烈に見つめた。
「旦那様がお仕事をされている姿、本当に格好良くて、私、毎日見惚れてしまいますの。ロラン様のように、そのお背中を預けられる素晴らしい相棒がいらっしゃって、私は本当に、世界一幸せな飾りでございます」
「ブッ……!!」
ロランが吹き出した。
アルベルトは耳の裏まで真っ赤にし、カッと目を見開いて立ち上がった。
「ヴィ、ヴィオラ! 人前で何を言っているんだ! 早く下がれ!」
「まあ……。お邪魔でしたわね、申し訳ありません、旦那様。……ロラン様、どうぞ旦那様をよろしくお願いいたしますわね。それでは、失礼いたします」
ヴィオラは完璧な一礼を残し、軽やかな足取りで執務室を出て行った。
パタン、と扉が閉まった瞬間。
「がはははははははははは!!! ひーっ、腹が痛い!!!」
ロランがソファにひっくり返り、お腹を抱えて爆笑し始めた。
「アル! なんだあのお方は! 最高じゃないか! 『世界一幸せな飾り』だってよ! お前、あの可憐な奥様に一体どんな冷遇宣言をしたんだ!?」
「笑うな、ロラン!!」
アルベルトは顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「私は普通の……! 『愛も会話も夜の営みも期待するな』と言っただけだ!」
「それを普通って言わないんだよ、この世間知らずの経済悪魔め!」
ロランは涙を拭きながら立ち上がった。
「冷遇されているはずなのに、あの余裕。あの包容力。お前を『立てる』完璧な立ち振る舞い……。おい、アル。お前、完全に掌の上で転がされてるぞ」
「そんなわけがあるか! あの女は、零細貴族の借金返済のために嫁いできた、金目当ての……」
「金目当ての女があんなに健気にお前を立てるかよ!」
ロランはアルベルトの肩をポンと叩いた。
「セバスチャンの報告書が甘々になるわけが、今ので完璧に理解できた。あんな奥様、敵に回せるわけがない。……いや、むしろ俺は、全面的に義姉上を支持するね」
「ロラン、お前まで……! お前は私の『右腕』だろうが!」
「ああ、お前の右腕として、ハルシュタット家の未来を一番に考えてるさ」
ロランはにやりと笑い、執務室の窓の外を見つめた。
「アル、お前は昔から『金でしか人は動かせない』って、頑なに心を閉ざしてきた。でもな……あの義姉上なら、お前のその頑固な心の壁、あっさりハンマーでぶっ壊してくれるかもしれないぜ?」
「……そんな日は来ん。私はあの女を絶対に信用しない」
アルベルトは腕を組み、ぷいと横を向いた。
しかし、その耳が未だにほんのりと赤いままなのを、ロランは見逃さなかった。
「がはは、せいぜい頑張って抵抗しろよ、お坊ちゃん」と楽しげに笑う幼馴染みの声を浴びながら、アルベルトは窓の外を散歩するヴィオラの、軽やかな後ろ姿を目で追ってしまうのだった。
(絶対に騙されん。……絶対にだ……!)
経済の悪魔の胸の内で、何かが静かに、しかし確実に音を立てて崩れ始めていた。




