第3話:監視報告書が甘々すぎて旦那様が二度見する
ハルシュタット辺境伯邸、最上階にある広大な書斎。
普段は冷徹な「経済の悪魔」として領民や敵国から恐れられているアルベルトは、手元にある一枚の羊皮紙を前に、彫刻のような端麗な眉をかつてないほど激しく潜めていた。
「……セバスチャン」
「はっ。何なりと、旦那様」
アルベルトのデスクの前に控えるのは、先代からハルシュタット家に仕える鉄面皮の筆頭執事。
アルベルトにとって最も信頼のおける「左腕」であり、同時に新しく迎えた六人目の妻・ヴィオラを厳重に監視するよう命じた男だ。
アルベルトは、引き結んだ薄い唇の間から、低く抑えられた声を絞り出した。
「お前に命じたのは、あのヴィオラという女の『監視報告書』のはずだ。……これはいったい何だ?」
「何だ、とは。旦那様のご命令通り、ヴィオラ様の昨夜から今朝にかけてのご様子を克明に記録した『監視報告書』にございますが」
セバスチャンはぴんと背筋を伸ばし、一片の揺らぎもない平然とした態度で応じる。
アルベルトは羊皮紙を指先でトントンと叩き、そこに書かれた文字を読み上げた。
「――『ヴィオラ様は昨夜、旦那様から賜った過酷な冷遇宣言(※アルベルト注:私は普通のことを言っただけだ)を笑顔で受け止め、世界で一番幸せな飾りであると健気に微笑んでおられました。今朝は、私の老体による腰痛と胃腸の弱さを一瞬で見抜き、長年の疲れを癒やすためのジンジャーとハチミツ入りの極上のウバ茶を淹れてくださり、物理的に冷え切った私の身体と心を温めてくださいました。おいたわしいほどに高潔で、旦那様を健気にお慕いされている、ハルシュタット家にとって最高の奥様とお見受けいたします。私は生涯をかけてこのお方を見守る所存です』……」
読み上げるアルベルトの額にピキリと青筋が浮かぶ。
「……セバスチャン。お前は昨日、胃でもやられたのか? それとも頭を強打したか?」
「いえ。ヴィオラ様にいただいた魔法のハチミツ生姜紅茶のおかげで、ここ数年で最も胃腸の調子が良く、腰の痛みも消え失せております」
「誰がそんなことを聞いた!」
バン、とアルベルトがデスクを叩いて立ち上がった。
端正な顔立ちを驚愕と焦燥で歪ませ、セバスチャンを凝視する。
「あの女は零細貴族の、それも実家の借金返済のために無理やり嫁いできた、金目当ての生贄令嬢だぞ!? これまでの五人と同様、こちらの情報を探るスパイか、あるいは莫大な手切れ金を狙って泣き喚くような浅ましい女に決まっている!」
「いいえ、旦那様。それは明確な誤解にございます」
セバスチャンは一歩前に出ると、その切れ長の瞳に静かな熱を灯して言った。
「ヴィオラ様は『ただ寝て食べるだけの穀潰しにはなりたくない』と仰り、使用人の仕事すら手伝おうとされました。さらに、旦那様を深く尊敬されているからこそ、自分の行動を厳しく監視してほしい、とまでおっしゃったのです。あのお方は、自分の立場を完璧に弁え、その上でハルシュタット家に尽くそうとされている、慈悲深く賢明な女性にございます」
「……お前、あの女に何をされた?」
「美味しいお茶を一杯、いただきました」
セバスチャンは誇らしげに胸を張った。
アルベルトは頭を抱え、再びデスクにドサリと座り込んだ。
(あり得ん……。あの冷徹極まりないセバスチャンが、出会って半日も経たない小娘に、美味しいお茶一杯で買収されたというのか……!?)
あのヴィオラという18歳の少女。
昨夜、目の前で見せた完璧すぎる「立て(作法)」と、あのあざとくも凛とした微笑みが、アルベルトの脳裏に焼き付いて離れなかった。
「……分かった。もう下がれ、セバスチャン。引き続き、あの女を『監視』しろ。いいな、絶対に私情を挟むなよ」
「……『見守り』の任務、しかと心得ました」
「『監視』だと言っているだろうが!!」
踵を返して優雅に出ていくセバスチャンの背中を見送りながら、アルベルトは冷たい汗が背中を伝うのを感じていた。
外堀が、何やらおかしな方法で、じわじわと埋め立てられ始めている気がしてならなかった。
* * *
一方、そんな旦那様の焦りなど露知らず、ヴィオラはハルシュタット邸の廊下を、軽やかな足取りで歩いていた。
(ふふっ、まずは『監視役のボス』セバスチャン様の攻略は一昨日の夜会と今朝のお茶で完璧ね。黒服のトップを味方につければ、店内の情報はすべて私の手に入る。さて、次は……『バックステージ(裏方)』のスタッフたちへのご挨拶ね)
前世の歌舞伎町や銀座でも、売れないキャストほど、店の清掃スタッフやキッチンの料理人を「ただの使用人」として見下し、手荒に扱っていた。
だが、真のNo.1は違う。
廊下をピカピカにしてくれる清掃のお姉さんには「いつも綺麗にしてくれてありがとう」とジュースを差し入れ、美味しいまかないを作ってくれるキッチンスタッフには「今日のスープ、本当に美味しかったです!」と笑顔で感謝を伝える。
裏方スタッフに愛されるキャストこそが、いざという時にドレスの汚れを瞬時に落としてもらえたり、急な要望にも最優先で対応してもらえる「無敵の地位」を築けるのだ。
ヴィオラが向かったのは、屋敷の心臓部とも言える「厨房」だった。
扉を開けると、美味しそうな出汁の香りと、ピリピリとした緊張感が漂っている。
巨漢の料理長が、若い料理人たちに厳しい声を飛ばしていた。
「おい、そこの仕込みが遅い! 旦那様の朝食は終わったが、次は昼食の準備だ、手を休めるな!」
そこへ、ネグリジェの上に上品なガウンを羽織っただけの、可憐なヴィオラがひょっこりと顔を出した。
「皆さま、お忙しいところ失礼いたしますわ」
厨房の空気が凍りついた。
料理長をはじめとするスタッフ全員が、驚愕の表情でヴィオラを見つめる。
「ヴィ、ヴィオラ様……!? このような油臭い場所に、貴族の奥様が一体どのようなご用件でしょうか?」
料理長はあからさまに不機嫌そうな顔をした。
「どうせ『料理が口に合わない』だの『もっと豪華なものを出せ』だの、我が儘を言いに来たのだろう」と身構えている。過去の妻たちも、よくそうして厨房に怒鳴り込んできたからだ。
しかし、ヴィオラはあざといほどに細い肩をすくめ、胸元に手を当てて、それはそれは愛らしい、そして深く敬意の込めた「お辞儀」をした。
「いいえ、お邪魔してしまって申し訳ありません。ただ……どうしても、昨夜と今朝の素晴らしいお食事を作ってくださった料理長様と、スタッフの皆さまに直接、お礼を申し上げたくて」
「え……? お、お礼、ですか?」
料理長が、毒気を抜かれたように目を丸くした。
「はい! 昨夜のローストビーフの焼き加減、本当にお見事でしたわ。お肉の旨味が完璧に閉じ込められていて、ソースの酸味とのバランスが絶妙で……。それに、今朝のスープも、お野菜の甘みがじっくり引き出されていて、一口飲むたびに身体が幸せで満たされるようでしたの。実家ではあのような素晴らしいお料理、一度も口にしたことがありませんでしたわ」
ヴィオラは瞳をキラキラと輝かせ、まるで本物の「美味しいご飯に感動した少女」として微笑んだ。
料理長は顔を赤くし、そっぽを向いて太い首をかいた。
「は、ハハッ……。まぁ、辺境伯家の料理人たるもの、それくらいは当然の仕事でさぁ……」
「いいえ、当然ではありませんわ。これほど大人数の屋敷の食事を、一切の妥協なく、これほどのクオリティで提供し続けることが、どれほどの技術と情熱を必要とするか、私にも分かりますの。皆さまは、この屋敷を支える『偉大なプロフェッショナル』ですわ。どうか、これからも私に美味しいお食事を食べさせてくださいね?」
「お、おうよ! 任せておきな、奥様! 昼飯はさらに気合を入れて、奥様の好きな美味いもんをドカンと作ってやるからな!」
「嬉しい! 楽しみにしていますわ、料理長様」
ヴィオラが手を振って厨房を去ると、料理長は若いスタッフたちに向き直り、鬼のような形相で叫んだ。
「おい! お前ら聞いたか! ヴィオラ様は俺たちの料理を『偉大なプロ』だと仰ってくれたんだ! 過去の生意気なアマどもとは格が違う! 今日からヴィオラ様のお食事には、俺の命をかけるぞ! 少しでも手ぇ抜いたら、タダじゃおかねぇからな!」
「「「はい、料理長!!!」」」
厨房は一瞬にして「ヴィオラ派」の超熱狂的なファンの集まりと化した。
さらにヴィオラは、廊下でせっせと床を磨いていた若いメイド、アニーにも声をかけた。
「アニーさん、いつも廊下をこんなにピカピカにしてくださって、ありがとうございます。アニーさんのおかげで、この屋敷を歩くのが毎日とても気持ちが良いですわ」
「えっ!? わ、私のような下っ端メイドの名前を、奥様が……!?」
「実家では自分で掃除をしておりましたから、これだけの広い廊下を一人で磨き上げるのが、どれほど大変かよく分かりますの。はい、これ、実家から持ってきたハーブの飴ですわ。喉にとても良いので、お仕事の合間にどうぞ」
「お、奥様ぁぁ……! 私、一生奥様についていきますぅぅ!」
こうして、ヴィオラが屋敷を少し散歩するだけで、メイド、料理人、果ては庭師にいたるまで、屋敷の全使用人が「ヴィオラ様教」の熱狂的な信者へと変貌を遂げていった。
* * *
その日の昼食時。
ハルシュタット家の静まり返った食堂で、アルベルトは再び愕然としていた。
目の前に並べられた料理の数々。
自分の皿にはいつも通りの豪華なステーキが載っている。
だが、向かいに座るヴィオラの皿には、美しく飾り切りされた新鮮な果物、見たこともないほど繊細に仕込まれた特製スープ、そして「旦那様、これぞ極上でございます!」と料理長が直々に給仕した特別メニューが並んでいた。
料理長はアルベルトには一言も声をかけない一方で、ヴィオラが一口スープを飲むと、期待に満ちた目で彼女を見つめ、ヴィオラが「まぁ、美味しい!」と微笑むと、嬉しそうに涙を浮かべて下がっていった。
「……何だ、今の料理長の態度は」
アルベルトが冷徹な声を出す。
ヴィオラはあざとく首を傾げ、フォークを置いて上目遣いで旦那様を見つめた。
「あら、旦那様。料理長様が、実家が貧しくて栄養の偏っていた私を心配して、特別に食べやすいお野菜のメニューを作ってくださったのですわ。本当に、素晴らしいお気遣いですこと。これもすべて、旦那様が私にこのような温かいお屋敷と、優しいスタッフの皆さまを用意してくださったおかげですわ」
「スタッフ……? 使用人のことか?」
「ええ、この屋敷を支える、誇り高き『一流のスタッフ』の皆さまですわ。私、旦那様の『飾り』として恥ずかしくないよう、皆さまにたくさん支えていただいておりますの」
ヴィオラはそう言って、恥ずかしそうに頬を染め、両手を胸の前でギュッと握りしめて見せた。
「旦那様。私は本当に幸せ者です。このような素晴らしい旦那様の『飾り』に指名していただけたこと、生涯の誇りにいたしますわ。どうか、お仕事でお忙しい旦那様の健康を、陰ながらいつでもお祈りさせてくださいね」
「っ……!」
完璧なトーン。完璧な「立て(おもてなし)」。
アルベルトの胸の奥で、ドクンと大きな心臓の音が響いた。
ただの18歳の、金目当てのはずの小娘。
なのに、その真っ直ぐで健気な(※すべて演技です)瞳に見つめられると、まるで自分が「とんでもなく素晴らしい、愛に満ちた夫」であるかのような錯覚に陥ってしまう。
(違う。これは騙されているだけだ。私は経済の悪魔、隣国すら平伏させる男だぞ。小娘のあざとい言葉に惑わされるな……!)
「ふん。勝手にするがいい。お前のような飾りに、私の健康を心配される筋合いはない」
アルベルトはわざと冷たく言い放ち、食事を終えて逃げるように席を立った。
去り際、食堂の扉の脇に控えていたセバスチャンとメイドのアニーが、アルベルトに対してあからさまな「冷ややかな、責めるような視線(※旦那様、あんなに健気な奥様にその態度は酷うございます)」を向けているのに気づき、アルベルトは胃がキリキリと痛むのを感じた。
「ふふ、ごちそうさまでした。旦那様♪」
ヴィオラは、去りゆくアルベルトの広い背中を見つめながら、心の中で特大のガッツポーズを決めた。
(よしっ! これでバックステージ(裏方)のスタッフも全員掌握完了! そして旦那様――あなたの冷たいセリフの裏で、心拍数が上がって耳の裏がほんのり赤くなっていたのを、私は見逃さなかったわよ。冷血辺境伯の『完全陥落』まで、これは思っていたより早いかもしれないわね♪)
元高級ホステスの、完璧な「外堀埋めオペレーション」は、凄まじいスピードで屋敷全体を侵食し始めていた。
本日は以上です
明日は12:40 19:40 に投稿します
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