第2話:監視役の筆頭執事、美味しいお茶一杯で揺らぐ
翌朝、天蓋付きのベッドから目覚めた私は、格段に寝心地の良い布団の感触に思わず伸びをした。
昨夜、あの冷酷なアルベルト様に「冷遇宣言」を叩きつけられたというのに、私のメンタルは快晴そのものだ。
「ふふっ、本当に最高。プライベートの干渉なし、生活費は向こう持ち、おまけに顔が極上の旦那様。前世の歌舞伎町や銀座の泥沼に比べたら、ここは天国以外の何物でもないわ」
鼻歌交じりでベッドから抜け出し、可憐なネグリジェの上にガウンを羽織る。
すると、絶妙なタイミングで寝室の重厚な扉がノックされた。
「ヴィオラ様、お目覚めでしょうか。朝食のご用意が整いました」
扉の向こうから聞こえてきたのは、低く、抑制された老紳士の声。
私が「どうぞ」と応じると、ゆっくりと扉が開いた。
入ってきたのは、仕立ての良い漆黒の燕尾服を身にまとった白髪の老紳士。背筋は定規でも入っているかのようにピンと伸び、その佇まいだけで「一流のプロ」であることが伝わってくる。
彼こそが、ハルシュタット辺境伯家に前代から仕える筆頭執事、セバスチャン。
そして――アルベルト様から私を監視するよう命じられた、「監視役のボス」だ。
「おはようございます、セバスチャン」
私がにっこりと微笑むと、セバスチャンの眉が一瞬だけピクリと動いた。
彼の切れ長で鋭い瞳には、明らかな警戒と不審の念が宿っている。
(ふむ、なるほどね。彼は私が『昨夜の冷遇宣言で泣き崩れている』か『理不尽な扱いに怒り狂っている』かのどちらかだと思っていたわけだ。だから、腫れ物に触るような、あるいは容赦なく切り捨てるための冷徹な目をしていたのね)
セバスチャンは慇懃無礼にお辞儀をすると、淡々とした口調で言った。
「おはようございます、ヴィオラ様。……随分と、お顔色がよろしいようで。昨夜は、よくお休みになれましたか?」
「ええ、とても! こんなに柔らかいベッドで眠ったのは人生で初めてですわ。旦那様のご配慮に、感謝の言葉もございません」
「……左様でございますか」
セバスチャンは私の予想外の「陽気さ」に戸惑ったようだが、すぐに冷徹な「監視役」の顔に戻った。ワゴンから朝食のトレイを手際よくテーブルに並べていく。
「旦那様はお忙しく、すでに書斎でお仕事に入られております。ヴィオラ様のお食事の給仕は、私が務めさせていただきます。また……これからのヴィオラ様のお世話と、この屋敷での『行動の管理』も、私が担当いたしますので」
行動の管理。つまり「一歩も怪しい動きをするな、すべて監視しているぞ」という明確な牽制だ。
しかし、私の心の中の「夜の女王」は不敵に笑う。
(いいわね、セバスチャン。あなた、素晴らしい『一流の黒服』だわ。お店でも、こういう仕事に妥協のないベテランスタッフを味方に付けられるかどうかで、No.1の寿命は決まるのよ。まずは、あなたという『優秀なスタッフ』をおもてなしさせてもらうわね)
私はセバスチャンがトレイを置く指先、そして彼の立ち姿を、プロの観察眼で一瞬にしてスキャンした。
(姿勢は完璧。だけど、右足の踵にかける重心が、ほんの数ミリだけ左より重いわね。長年の立ち仕事のせいで、慢性的な腰痛を抱えている。それに、朝一のこの厳しい表情……低血圧というよりは、胃腸が弱くて朝一番のコーヒーが身体に障るタイプかしら。ワゴンに載せられた紅茶のポット……ウバ茶の香りに、ほんの少しだけ彼の視線が和らいだ。なるほど、紅茶党で、それも少し渋みの強いウバがお好みね)
「セバスチャン。朝食、とても美味しそうですわ」
「恐れ入ります」
「ですが……その前に、一つだけお願いしてもよろしい?」
「何なりと。宝石のカタログをお持ちしましょうか? それとも、王都の最新ドレスの生地を取り寄せますか?」
セバスチャンの声に、わずかに冷ややかなトゲが混ざる。
「ほら、やっぱり金目当ての本性を現した」とでも言いたげだ。
「いいえ」
私はあざといほどに可憐な首を傾げ、トレイの上にあるティーポットを見つめた。
「その紅茶を、私が淹れてもよろしいでしょうか?」
「……は?」
セバスチャンが、アルベルト様と同じような間抜けな声を漏らした。
「ヴィオラ様が、紅茶を淹れる、ですか? ノイシュタット家の令嬢ともあろうお方が、使用人の仕事をなさるなど……」
「私のような零細貴族の娘、実家ではお茶淹れくらい当たり前にやっておりましたの。それに……」
私はそっと目を伏せ、いかにも「健気で、夫の役に立ちたいけれど何もできない18歳の少女」を演じてみせた。
「私は、旦那様に『飾り』としてここにいるよう言われました。ですが、ただ寝て食べるだけの穀潰しにはなりたくありませんの。このお屋敷のすべてを取り仕切るセバスチャン様に、せめて一杯の美味しいお茶を淹れることくらい、お許しいただけませんか?」
「私に、ですか……?」
「はい。いつも旦那様を陰から支えていらっしゃる、偉大な執事長様への『敬意』ですわ」
完璧なトーン。完璧な「立て(おもてなし)」。
前世の高級クラブでも、店の黒服たちに「いつも守ってくれてありがとう」と笑顔で栄養ドリンクや美味しい差し入れを渡すホステスこそが、最もスタッフに愛され、結果として「太客の情報」を一番多く横流ししてもらえるのだ。スタッフをないがしろにするキャストは、絶対に長続きしない。
「……そこまでおっしゃるなら。しかし、口に合わなくとも文句は言いませんので」
「ふふ、お任せくださいね」
私はガウンの袖を軽くまくり、お茶の準備に入った。
もちろん、ただ普通に淹れるわけではない。
(セバスチャンのウバ茶の好みは渋め。だけど、朝一番の胃腸には少し負担が重いはず。お湯の温度は、渋みを引き出しつつも胃を荒らさないよう、少しだけ低めの九十度。そして――彼が気付かない程度の、ほんの微量のハチミツと、胃の粘膜を保護して血行を良くするジンジャー(生姜)の絞り汁を、ティースプーンの先一滴分だけ忍ばせる)
カップに注がれた紅茶は、美しいゴールデンリングを浮かべ、ウバ特有の爽やかでスモーキーな香りを漂わせた。
「どうぞ、セバスチャン。お砂糖は入れず、ハチミツをほんの少しだけ落としてあります。朝の冷えた身体に、きっとよく馴染みますわ」
「……いただきます」
セバスチャンは半信半疑のまま、カップを受け取った。
そして、一口、口に含んだ瞬間――。
彼の切れ長の瞳が、かつてないほど大きく見開かれた。
「……っ!」
「いかがでしょうか?」
「これ、は……。ウバの力強い渋みが完璧に抽出されているにもかかわらず、喉越しが驚くほど滑らかです。それに、お腹の底からじんわりと温かさが広がっていくような……」
「ふふ、長年お立ち仕事をされていると、どうしても腰や下半身が冷えてしまいますものね。少しだけ、身体が温まる魔法をかけておきましたの(※物理的な生姜です)」
私がいたずらっぽくウインクすると、セバスチャンは完全に言葉を失った。
(どう? 私の『おもてなし』。あなたの冷え切った身体と頑固な心を、まずは物理的に温めてあげたわよ)
「セバスチャン様」
私はそっと彼の傍らに寄り添い、真剣な眼差しで見上げた。
「私、旦那様を心から尊敬しておりますの。だからこそ、旦那様が私を『安心できる飾り』として置いてくださるよう、私のすべての行動を、どうぞ厳しく監視して、旦那様にありのままを報告してくださいね。それが、私の願いですわ」
「ヴィオラ様……」
セバスチャンの瞳から、先ほどまでの冷徹な光が完全に消え去っていた。
彼の中の「監視役」のプライドが、18歳の少女の見事な気配りと、自分への純粋な(※演技)敬意によって、音を立てて崩れ去っていく。
「……承知、いたしました。ヴィオラ様の日常、このセバスチャンがしっかりと『見守らせて』いただきます」
「監視」ではなく「見守る」と言い換えたセバスチャン。
私は心の中で、特大のガッツポーズを決めた。
(よしっ! 『監視役のボス』の攻略、完了! これでハルシュタット辺境伯様――あなたの行動データは、いつでも私の手に入るわよ!)
こうして、元高級ホステスの「外堀埋めオペレーション」は、美味しいお茶一杯で鮮やかな一歩を踏み出したのだった。




