第37話:膝枕と、包み込む母性(ホステスの包容力)
深夜の執務室。
静まり返った部屋に、規則正しい二人分の呼吸音が重なっていた。
絨毯の上に座り込んだヴィオラの膝の上で、アルベルトは子供のように静かな寝息を立てている。
だが、時折その整った眉根がキュッと寄られ、微かにうなされるように身体がピクりと震えることがあった。
(……まだ、夢の中で戦っていらっしゃるのね……)
ヴィオラは愛おしそうに目を細め、アルベルトの額に浮いたかすかな汗を優しく拭い取った。
前世の歌舞伎町で、ヴィオラは何百人もの「戦う男たち」を見てきた。
会社の重役、政治家、夜の街の顔役――社会の頂点で強そうに振る舞う男ほど、一歩プライベートに入れば脆く、孤独で、誰かに認めてもらうことを切望していた。
けれど、今のアルベルトに向ける感情は、前世の「客をあしらうための接客技術」などではない。
心の底からこの男の傷を癒やしたい、守りたいという、純粋で温かい愛おしさだった。
「ん……く……っ」
アルベルトの唇から、苦しげな漏れ声が零れる。
夢とうつの狭間で、彼の意識は過去の暗闇へと引き戻されていた。
「……父上……母上……逃げてください……!……くそっ、なぜ……なぜ誰も守れない……! 私は……私はハルシュタットの当主なのに……ッ!」
幼い頃の惨劇。飢饉で死んでいった領民たち。
「鬼神」として強さを誇示しなければ領地を守れなかった、血反吐を吐くような孤独な日々。
その冷たく暗い記憶の渦の中で、アルベルトは溺れかけていた。
その時――。
「――アルベルト様」
耳元で、耳に心地よい柔らかな声が響いた。
冷え切った世界に、春の日差しのような温もりが差し込んでくる。
「もう戦わなくてよろしいのですわ。暗闇の中に、お一人で立ち尽くす必要はありません」
「……ヴィ……オラ……?」
アルベルトがゆっくりと瞼を開けると、そこには月光を背に受けて微笑む、女神のようなヴィオラの顔があった。
サファイアブルーの瞳が、溢れんばかりの慈愛と温もりを湛えて自分を見つめている。
「……私は、また夢を見ているのか……? 幼い頃の……惨めだった自分を……」
アルベルトは掠れた声で呟き、情けない自分を恥じるように顔を背けようとした。
だが、ヴィオラの温かい両手が、アルベルトの頬を優しく包み込んだ。
「逃げないでくださいませ、アルベルト様。……私を見て」
「……だが……私は……『鬼神』などではないのだ……。弱くて、惨めで……誰かを失うことに怯えているだけの……ただの愚か者なのだ……っ」
弱音を吐いた自分に戸惑い、自己嫌悪に苛まれるアルベルト。
そんな彼に対し、ヴィオラは柔らかく首を振り、この上なく愛おしそうに目を細めた。
「愚かなどではありませんわ。貴方が怯えていたのは、それだけハルシュタットの民を……そして私を、心から愛してくださっている証拠です」
ヴィオラはそっと身を乗り出すと、アルベルトの右目、そして左目の目尻に、慈しむようなキスを落とした。
「冷酷な鬼神様なんて、私には必要ありません。……私が愛しているのは、誰よりも優しく、不器用で、一生懸命に私を守ろうとしてくださる、人間らしい『アルベルト・ハルシュタット』という一人の男の人なのですから」
「……ヴィオラ……」
「お忘れにならないでくださいませ。貴方がどんなに弱音を吐いても、どんなに情けないお姿をお見せになっても……私の中で、貴方の価値は一ミリも下がりませんわ」
ヴィオラの声には、相手の存在そのものを丸ごと肯定する、絶対的な確信と包容力が満ちていた。
ホステス時代、多くの傷ついた男たちを救ってきた「全肯定の言葉」。
だが今の言葉には、作り物の営業スマイルではなく、ヴィオラの「心(魂)」が100%こもっていた。
「たとえ世界中のすべての人々が貴方の敵になろうとも……私だけは、絶対に貴方の味方です。……ずっと、ずっと、貴方の側で味方であり続けますわ」
――ずっと、貴方の味方です。
その言葉が、アルベルトの胸の奥深くに染み込んでいく。
両親を失ったあの日から、ハルシュタットの家名を背負ったあの日から、彼の心に重く鎖で閉ざされていた「最後の扉」が、カタリと音を立てて静かに開いた。
『お前はハルシュタットの当主なのだから、強くなれ』
『泣いてはならん、弱みを見せてはならん』
周囲から与えられ続けてきたそんな呪縛が、ヴィオラの温かい抱擁と言葉によって、跡形もなく溶けて消えていく。
「……あっ……」
アルベルトの青い瞳から、溢れ出る涙が止まらなくなった。
それは悲しみの涙ではない。
長年抱え込んできた孤独と緊張が解き放たれた、救いの涙だった。
アルベルトはヴィオラの腰に強く両腕を回し、彼女の胸元に顔を埋めて、静かに声を上げて泣いた。
「ヴィオラ……っ! ヴィオラ……!!」
「はい、はい……。よく頑張ってこられましたわね、アルベルト様……。凄いですわ、本当に……」
ヴィオラは赤ん坊をあやす母のように、あるいは傷ついた愛する人を抱きしめる包容力で、彼の大きな背中をトントンと優しく叩き続けた。
鬼神と呼ばれた男が、一人の男として、妻の腕の中で本当の自分を取り戻していく。
月明かりだけが照らす執務室で、二人は固く抱き合ったまま、静かな愛の時間を分かち合った。
◇
翌朝。
差し込む爽やかな朝日に、ヴィオラは静かに目を覚ました。
「……ん……」
ふと見上げると、そこにはすでに目を覚まし、穏やかな表情で自分を見つめているアルベルトの顔があった。
昨夜までの疲弊や影はどこへやら、彼の肌には血色が戻り、青い瞳はかつてないほど澄み切った輝きを放っている。
「……おはよう、ヴィオラ」
極上の低音ボイス。そして、これまで一度も見せたことがないほど、優しく甘い微笑み。
「あ……アルベルト様! お身体は……! 目眩はもうよろしいのですか!?」
ヴィオラが慌てて起き上がろうとすると、アルベルトの太い腕がグイッと彼女の腰を引き寄せ、再びベッド(いつの間にかソファから移動していた)へと押し戻した。
「ああ、体調なら完璧だ。……生まれて初めて、これほど深く、心地よい眠りを味わった」
アルベルトはヴィオラの額にチュッとキスを落とすと、彼女の鼻先と自分の鼻先をくっつけるようにして覗き込んできた。
「……それもすべて、私の愛しい妻が……一晩中、私を抱きしめてくれたおかげだな?」
「〜〜〜〜っ!?」
あまりにもストレートで、隠すことのない甘々な態度!
「あ、あの……アルベルト様? なんだか雰囲気が……」
「フッ……吹っ切れたのだ」
アルベルトは照れる様子もなく、堂々とヴィオラの頬を撫でた。
「お前が言ったのだろう? 『自分は私の味方だ』と。『弱みを見せても価値は変わらない』と。……だから私は決めたのだ。これからは、お前の前で格好つけるのをやめる」
「格好つけるのを……やめる?」
「ああ。お前には私のすべてを見せよう。弱さも、情けなさも……そして、お前を狂おしいほど愛しているという、この浅ましい独占欲もな」
そう言うや否や、アルベルトはヴィオラの唇を奪った。
「ん……っ!?」
昨夜の優しさとは打って変わった、熱く、激しく、深みのあるキス。
ヴィオラの頭がクラクラと熱くなり、全身の力が抜けていく。
「……んあ……アル、ベルト様……朝から、そんな……っ」
「構わない。昨夜はお前が私を包み込んでくれた。……今度は、私が全身でお前を愛する番だ」
アルベルトの瞳に宿っているのは、もう迷いのない「一人の男としての強い情熱」だった。
その時、コンコンと控えめなノック音が響いた。
「旦那様、奥様。朝食の準備が整って……おや」
扉を開けたセバスチャンは、ベッドの上でヴィオラを押し倒す形になっているアルベルトを見て、一瞬だけ眼鏡の位置を直した。
「……大変失礼いたしました。旦那様のそのご様子……どうやら完全に回復されたようで、重骨が折れる思いで書類を処理した甲斐がございました」
セバスチャンの目元が、珍しく柔らかく和らいでいる。
「セバスチャン、入ってくる時はノックを三回しろと言ったはずだ」
「申し訳ございません。ですが旦那様、顔色が劇的に良くなおざりになられたのは結構ですが、奥様が真っ赤になっておいでです。あまりお困めになられぬよう」
「わかっている。……ヴィオラ、朝食にしよう。……それから、今日は一日、私とお前の『デート』の予定を入れたからな」
「えっ、デート!? お仕事は……!?」
「セバスチャンにすべて任せる」
「おいおい……」と呆れ顔のセバスチャンを余所に、アルベルトはヴィオラを姫抱っこで抱え上げ、満足そうに微笑んだ。
「私の命を救ってくれた女神への、感謝のデートだ。断ることは許さんぞ?」
「もう……! アルベルト様の甘えん坊ぶりが、完全覚醒してしまいましたわ……!」
ヴィオラは呆れつつも、その胸に幸せそうに顔を埋めるのだった。
二人を覆っていた最後の壁が取り払われ、ハルシュタット夫妻の絆は、誰にも引き裂けない絶対のものとなった。
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