第36話:領地を守る戦いと、初めて見せるアルベルトの弱音
隣国の経済侵略を完封し、ハルシュタット領が完全なる大勝利を収めてから一週間。
歓喜に沸く城下町とは裏腹に、辺境伯館の執務室は連日連夜、不眠不休の戦場と化していた。
「――ガルシア新港の関税手続き、ならびに第一陣の難民たちの開拓地への入植計画書だ。セバスチャン、直ちに各ギルドへ回せ」
「畏まりました、旦那様。……ですが旦那様、王都からの報告書の確認と、先ほどの書類で本日の決裁は百件を超えております。そろそろお身体を――」
「構わない。我が領の未来と、ヴィオラが命がけで作ってくれた勝利の成果がかかっているのだ。私が止まるわけにはいかん」
深夜二時。
書類の山に囲まれたデスクで、アルベルトは冷えたコーヒーを煽りながら、猛烈な勢いでペンを走らせていた。
その青い瞳の落ち窪んだ影と、白くなった唇を、ドアの隙間から見つめている人物がいた。
ヴィオラである。
(……もう、三日もまともに眠っていないわね、あの人……)
ヴィオラは手にしたお盆の上の温かいハーブティーを握りしめ、静かに息を吐いた。
かつて歌舞伎町で生き抜いてきたヴィオラには分かる。男が限界を超えて緊張の糸を張り詰めさせている時の「壊れそうな空気」が。
アルベルトは「自分は頑丈だ」と笑うかもしれないが、どれほど強い武力や財力を持っていようと、彼は生身の人間なのだ。
「……セバスチャンさん。少し席を外していただけますか?」
「……奥様。お願いいたします。私どもの言葉には、もう耳を貸していただけず……」
セバスチャンは深々と頭を下げ、静かに執務室を後にした。
◇
「アルベルト様」
ヴィオラが優しく声をかけながら執務室へ入ると、アルベルトはペンを止めず、掠れた声で応えた。
「ヴィオラか……。すまない、まだ仕事が終わらなくてな。お前は先に休みなさい。夜風は体に毒だ」
「……いい加減になさいませ、旦那様」
ヴィオラは毅然とした足取りでデスクへ近づくと、アルベルトの手から強引にペンを取り上げた。
「な、何をする、ヴィオラ……!」
「『何をする』ではありませんわ! ご自身の顔を鏡でご覧になったことがおありですか? 今のアルベルト様は、今にも倒れそうな幽霊のようですわ!」
「私なら大丈夫だ。ハルシュタット辺境伯として、領民と……お前を守るための戦いは、まだ終わっていないのだから――」
アルベルトがそう言って立ち上がろうとした、その瞬間だった。
ガタッ!!
「くっ……!?」
急激な目眩に襲われたのか、アルベルトの大きな身体がグラリと揺れ、そのまま膝から床へと崩れ落ちた。
「アルベルト様っ!!」
ヴィオラは咄嗟に駆け寄り、倒れ込んできたアルベルトの重い身体を全身で受け止めた。
ドサリと絨毯の上に二人の身体が倒れ込む。
「はぁ……っ、はぁ……っ……」
アルベルトはヴィオラの胸の中に顔を埋めたまま、荒い息を吐いていた。
冷酷無比な「鬼神」と呼ばれ、いかなる敵も圧倒してきた男の身体が、まるで熱を出した子供のように小さく震えている。
「あ、アルベルト様……! しっかりしてくださいませ! セバスチャンさんを呼びますわ――」
「……頼む……どこにも、行かないでくれ……」
アルベルトの大きな手が、縋り付くようにヴィオラのドレスの裾をぎゅっと握りしめてきた。
その手は、冷たく湿っていた。
「……アルベルト様……」
ヴィオラはハッと息を呑んだ。
いつだって自分を甘やかし、強引に抱き寄せてきた強い腕。それが今、助けを求めるように震えている。
ヴィオラはセバスチャンを呼ぶのをやめ、ゆっくりと身体を起こすと、床の上に座り込んだ。
そして、アルベルトの頭を抱え上げ、自分の膝の上へとそっと引き寄せた。
「……ここにいますわ。どこへも行きません。……よし、よし……」
膝枕。
ヴィオラは前世の「極上の接客」の技術などすべて捨て去り、ただ一人の愛する女性として、アルベルトの美しい銀髪を優しく、丁寧に撫で下ろした。
膝の上で、アルベルトが小さく息を呑むのが分かった。
「……暖かいな……ヴィオラ……」
「ええ。ハルシュタットの夜は冷えますもの。……お疲れになられたでしょう? ずっと、一人で重いものを背負っていらしたのね」
柔らかな膝の温もりと、ヴィオラの手の優しさに、アルベルトの中で何かがパチンと弾けた。
固く閉ざされていた彼の心の扉が、ゆっくりと開かれていく。
「……怖かったんだ」
ポツリと、消え入りそうな声がアルベルトの唇から漏れた。
「え……?」
「俺は……ずっと、怖かったんだ、ヴィオラ」
アルベルトはヴィオラの膝に顔を深々と押し付け、幼子のような弱音を吐き出し始めた。
「ハルシュタット家は、代々『魔物と戦う盾』であり『領地を守る刃』だ。……私が十の時、前代の父と母は魔物との戦いで命を落とした。……幼かった私は、二人を守れなかった」
「アルベルト様……」
「それだけじゃない。十五の時には、寒波による飢饉で……我が家の騎士や領民たちが、目の前で何人も死んでいった。……私がどれだけ剣を振るっても、どれだけ必死に策を講じても……誰も、救えなかった……」
アルベルトの手が、ぎゅっとヴィオラの指を握りしめる。
「だから……強くなりたかった。『鬼神』と呼ばれてもいい、冷酷だと恐れられてもいい。二度と、誰も失いたくなかった……。……だが、今回の隣国の件でも……一歩間違えれば、領地も、そしてお前も……奪われていたかもしれない……」
アルベルトの青い瞳から、一筋の透明な雫が零れ落ち、ヴィオラの膝を濡らした。
「俺は……誰も守れないのが、怖かったんだ。……お前を失うのが……たまらなく、怖かった……っ」
それは、ハルシュタット領の誰も見たことがない、アルベルト・ハルシュタットという男の「最深部の孤独」だった。
幼い頃に両親を奪われ、過酷な辺境で「強くあれ」と強いられ続け、一人で恐怖と戦い続けてきた傷だらけの魂。
前世で、一人孤独に夜の街で戦い続けてきたヴィオラには、その痛みが痛いほどよく理解できた。
(……ああ、この人も……私と同じだったんだ……)
孤独の中で怯え、それでも誰かを守るために傷ついてきた人。
ヴィオラは溢れ出る愛おしさに胸を締め付けられながら、膝の上のアルベルトをギュッと強く抱きしめた。
「――違いますわ、アルベルト様」
ヴィオラの温かい声が、静かな執務室に響く。
「貴方はもう、誰も失っていません。貴方のおかげで、ハルシュタットの領民も、難民の方々も、みんな生きて笑っていますわ」
「ヴィオラ……」
「そして……私を見てくださいませ」
ヴィオラはアルベルトの顔を覗き込み、サファイアブルーの瞳でまっすぐに見つめた。
「私はここにいます。貴方が守ってくださったから、私は今、こうして貴方の隣で生きていられるのですわ」
ヴィオラはそう言うと、アルベルトの額に残る汗を自分のハンカチで優しく拭い、そこにチュッと柔らかなキスを落とした。
「……もう、一人で全てを背負わないでくださいませ。貴方には……私がいるではありませんか」
「お前が……」
「ええ。私は貴方の『妻』で、最高の『ビジネスパートナー』ですもの。半分……いいえ、貴方の弱さも痛みも、全部私が半分こして差し上げますわ♪」
あざとく、そしてどこまでも深く温かい微笑み。
その言葉に、アルベルトの胸を満たしていた長年の恐怖と孤独が、嘘のようにスッと消え去っていくのを感じた。
「……ヴィオラ……」
「ふふ、さあ……今夜はもうお仕事はおしまいです。……私の膝の上で、好きなだけお眠りなさいませ、旦那様♪」
ヴィオラがトントンと優しく胸を叩くと、アルベルトは子供のように安心した表情を浮かべ、深く、長い息を吐き出した。
「……ああ……。おやすみ……私の……ヴィオラ……」
数秒も経たないうちに、アルベルトの呼吸は規則正しい寝息へと変わっていった。
数年ぶりに訪れた、完璧で、安らかな眠り。
ヴィオラは膝の上のアルベルトの髪を優しく撫で続けながら、窓の外の満月を見上げた。
(前世の私は、誰も信用できなくて、ずっと一人で生きてきた……。でも……この人の隣なら……私はどこへでも行ける……)
二人の間を結んでいた「契約」の糸は、今や誰も解くことのできない、深く確かな「絆」へと変わっていた。
静かな執務室で、二人は朝が訪れるまで、温もりを分け合いながら眠りについたのだった。
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