第33話:情報戦の開始、仮面を被る元ホステス
経済カウンター作戦の決行を二日後に控えたハルシュタット領の城下町。
ハルシュタット家が経営する最高級ホテル『オーロラ館』のプライベートサロンには、柔らかなクラシックの調べと、芳醇な紅茶の香りが漂っていた。
「……ヴィオラ、本当に私抜きでやるつもりか? 私が影から見張っているとはいえ、やはり危険すぎる!」
サロンの裏手に隠された隠し部屋で、アルベルトが青筋を立ててヴィオラの両肩を掴んでいた。彼の青い瞳は、不安と嫉妬で爆発しそうなほど揺れている。
「落ち着いてくださいませ、アルベルト様。敵の潜伏工作員は、ハルシュタット領の『どこから穀物が流出しているか』『新通貨の対策はどうなっているか』を探るため、喉から手が出るほど内部情報を欲しがっていますの」
ヴィオラは優雅にドレスの胸元を整えながら、ふっと小悪魔的な微笑みを浮かべた。
「武骨で隙のない旦那様には誰も近寄りませんわ。ですが……『若くして辺境伯に嫁ぎ、王都の派手な生活が忘れられず、夫の冷酷さに不満を抱いている可憐で浅はかな妻』が相手なら……向こうから喜んで罠に飛び込んできますでしょう?」
「だからと言って、お前が他の男に甘い顔を見せるなど……! 考えるだけで奴の首を切り落としたくなる!」
「ふふ、頼もしい旦那様♪ ですが、これは『お仕事』ですわ。歌舞伎町……いえ、私の前世の知識を試す最高の舞台なんですの。……旦那様は、あちらの隠し窓からじっくりご覧になっていてくださいな」
ヴィオラはそっと背伸びをして、アルベルトの頬にチュッと可愛いキスを落とした。
「私の本気の接客、特等席で見せて差し上げますわ♪」
「〜〜〜ッ!! だ、だからと言って、調子に乗って触らせたりしたら即座に部屋へ踏み込むからなッ!」
真っ赤になったアルベルトを残し、ヴィオラは軽やかな足取りでサロンのメインフロアへと足を踏み入れた。
◇
サロンのテラス席。
ヴィオラはあえて従者を遠ざけ、一人で手持ち無沙汰そうに高級紅茶を味わっていた。
その顔には、どこか物憂げで、寂しげな陰りを意図的に浮かべている。
(……さあ、来るわよ。男が『守ってあげたい』『つけ込める』と勘違いする、隙だらけの可憐な人妻の表情……歌舞伎町で嫌というほど研究した『落ち目の寂しい女』の演技(仮面)よ)
予想通り、数分も経たないうちに、洗練されたスーツを着た上客風の男が近づいてきた。
「失礼……ハルシュタット辺境伯夫人、ヴィオラ様とお見受けいたします。お一人でこのような場所においでとは、何かお悩みでも?」
男は穏やかな笑みを浮かべ、優雅にお辞儀をした。
自称・王都の豪商「バロン」と名乗るこの男こそ、セバスチャンの調査によって判明していたガルシア新政権の高級工作員だった。
「まあ……バロン様ですの? ええ、少し……王都の華やかな社交界が恋しくなってしまって」
ヴィオラはため息をつき、長いまつ毛を伏せた。
「ハルシュタット領は素晴らしい場所ですけれど……旦那様はお仕事ばかりで、私をあまり構ってくださらないのですの。いつも『領地の防衛だ』『経済だ』とお堅いお話ばかりで……私はもっと、ドレスや宝石のお話がしたいのに……」
(――かかったわね)
ヴィオラは視線の端で、バロンの瞳の奥に邪悪な歓喜の光が宿ったのを見逃さなかった。
「……なんと悲しいことでしょう。これほど美しく洗練されたお方が、田舎の武骨な辺境伯に放置されているとは……。王都の社交界でも、ヴィオラ様の美しさは『氷の女王』と絶賛されていたというのに」
バロンは言葉巧みにヴィオラを持ち上げ、距離を詰めてきた。
(男を酔わせる第一歩は『承認欲求の刺激』と『共感』。……ふん、歌舞伎町の新人ホステスでも引っかからないベタなマニュアル通りね)
「お優しいのですわね、バロン様。旦那様は最近、隣国ガルシアとの揉め事でピリピリなさっていて……『近々、領内の穀物倉庫をすべて封鎖する』とか『粗悪なコインを持ち込む外国商人を皆殺しにする』とか、恐ろしいことばかり仰るのです」
「なっ……! 穀物倉庫の全封鎖……!? 外国商人の皆殺し……!?」
バロンの顔が一瞬、ひきつった。
敵が最も恐れていた「ハルシュタット家の強硬策」の情報(もちろんヴィオラが流したガセネタと本音が交ざったブラフ)を、ヴィオラがあっけらかんと口にしたからだ。
「ええ。ですが……私、そんな物騒なことは嫌ですの。バロン様のような王都の素敵な商人様と、もっと仲良く商売ができたらよろしいのに……」
ヴィオラは胸元に手を当て、潤んだ瞳でバロンを見つめた。
「例えば……バロン様がハルシュタットの穀物を買い占めるお手伝いをしたら、私に王都の素敵なドレスや宝石をプレゼントしてくださいますかしら……?」
「――ッ!!」
バロンの頭の中で、完璧な勝利の方程式が完成した。
(勝った……! この女は見た目通りの浅はかなバカ女だ! ハルシュタット卿の冷酷さに嫌気がさし、物欲と承認欲求に飢えている! この女を籠絡して内部情報を引き出せば、我が新政権はハルシュタットの糧食を完全に奪い尽くせる!)
隠し部屋の窓からその光景を見ていたアルベルトの握りこぶしが、ギチギチと音を立てて壁を削っていたのは言うまでもない。
「お安い御用です、ヴィオラ様!」
バロンはすっかり油断し、ニヤリと下品な本性の笑みを浮かべた。
「貴女のような美しい方に、あんな脳筋の辺境伯は似合いません。……我がガルシア新政権に協力していただければ、ハルシュタットが破滅した暁には、貴女をガルシアの王宮へお迎えし、最高の財宝をお約束しましょう!」
「まあ……ガルシア新政権、とおっしゃいましたの?」
「ええ! 実は私は新政権の特使なのです。すでに領内の大手商人3社と内通し、穀物の買い占めルートは確保してあります! あとはハルシュタットの備蓄倉庫の解錠鍵と、出納帳のデータがあれば……我が軍の完全勝利です!」
ペラペラと誇らしげに自説を語り、内通している地元商人の名前まで喋り出すバロン。
相手が完全に自分を信じ込み、勝利を確信した瞬間――。
ヴィオラの顔から、可憐で儚げな「仮面」が、一瞬で剥ぎ取られた。
「……あら」
温度の全くない、冷ややかな声。
「……え?」
バロンが呆気にとられたように固まる。
ヴィオラは優雅に脚を組み直し、冷徹な知性を宿したサファイアブルーの瞳で、見下すようにバロンを射抜いた。
「内通している地元商人は『ガルド商会』と『フェルゼンギルド』の二つ……そして新政権からの工作資金は金貨二万枚。……随分と安っぽい陰謀ですわね、バロンさん?」
「な……な、何を……!? 貴女、急に顔つきが……!?」
「『脳筋の辺境伯』ですって?」
ヴィオラはクスリと嘲笑った。
「うちの旦那様を侮辱していいのは、この世界で私だけですの。貴方のような三流のペテン師に安っぽいお世辞を言われて、私が本気で喜ぶとでもお思いになりましたの?」
「ひっ……!? お、お前……騙していたのか……!?」
「騙す? いいえ、勝手に自惚れてペラペラ自爆なさったのは貴方ですわ♪ 前世を含め、貴方のような下品な男の自尊心をくすぐって本音を吐かせるなんて、私にとっては朝飯前ですのよ」
ヴィオラがパチンと指を鳴らした。
次の瞬間――サロンの扉がブチ破られた。
「動くなッ!! ガルシアの泥棒ネズミめッ!!」
凄まじい威圧感とともに踏み込んできたのは、全身から凄絶な殺気を撒き散らすアルベルトと、武装した私設騎士団だった。
アルベルトはバロンの胸ぐらを掴み上げると、人間とは思えない腕力で壁際まで投げ飛ばした。
「ガハッ……!? あ、アルベルト・ハルシュタット……ッ!?」
「私の妻に気安く触れようとし……挙句、私と妻を引き裂こうとした罪、万死に値する!!」
アルベルトの青い瞳は、もはや人間のものではなく、地獄の魔王そのものだった。剣を抜こうとするアルベルトの腕を、ヴィオラがすっと制する。
「アルベルト様、殺してしまってはダメですわ。彼には明日からの『経済カウンター作戦』の特等席で、自分の愚かさを存分に味わっていただかなくては♪」
「……ちっ、ヴィオラがそう言うなら生かしておいてやる。セバスチャン! この男と、吐き出した内通商人どもを全員地下牢へぶち込め! 資産はすべて差し押さえだ!」
「ははっ、かしこまりました」
セバスチャンが死神のような冷笑を浮かべ、失禁して震えるバロンを引きずっていく。
静まり返ったサロンで、アルベルトはすぐさまヴィオラを抱き寄せ、彼女の全身を擦るように抱きしめた。
「ヴィオラ……! 二度と……二度とあんな男に近づかないでくれ! 演技だと分かっていても、胸が張り裂けそうだった……!」
「ふふ、ごめんなさいね、旦那様。でも……お陰で敵のネットワークと内通者を完全に特定できましたわ♪」
ヴィオラはアルベルトの胸に顔を埋め、あざとく微笑んだ。
「さあ、舞台整いましたわ。明日はいよいよ……愚かな隣国と買い占め商人どもを地獄へ叩き落とす『大暴落』の幕開けです♪」
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