第30話:帰路の馬車、重なる手と解けかけた氷
王都の巨大な城門が遠ざかり、ガタゴトと心地よい振動が馬車全体を包み込んでいく。
ハルシュタット家が誇る最高級のサスペンションを備えた馬車内には、王都の喧騒とはかけ離れた、静かで温かい時間が流れていた。
ふかふかの絨毯が敷かれた座席で、ヴィオラは深く背もたれに体を預け、小さく息を吐き出した。
「ふぅ……! 終わりましたわね、旦那様。本当に怒涛の王都滞在でしたわ」
「ああ。まさかお前がグランヴィル公爵を味方に付け、ゴドウィン家を一晩で破滅させ、さらには王都の一等地にハルシュタットのサロンまで作ってしまうとはな……。私の予想の遥か上を通り越していったよ」
向かい側に座るアルベルトが、どこか呆れたような、けれど心底誇らしげな苦笑いを浮かべてワイングラスを傾ける。
「あら、旦那様? 私はただ、降りかかる火の粉を払っただけですわよ? 『やられたら倍返し、売られた喧嘩は相手の店ごと買い取る』――それが私の信条ですもの♪」
ヴィオラは扇子をパチリと閉じ、いたずらっぽく小悪魔的な微笑みを向けた。
「それに……私を本気にさせたのは、他でもない旦那様ですわ。『妻を守る』とあんなにカッコよく立ち回られたら、私もビジネスパートナーとして最高の成果でお返ししなくちゃ、女がすたりませんでしょう?」
「パートナー……か」
アルベルトは一瞬、ワイングラスを置くと、複雑な眼差しでヴィオラを見つめた。
「お前にとって、私は今でもただの『ビジネスパートナー』なのか?」
「え……?」
直球の問いかけに、ヴィオラはパチグリと目を丸くした。
いつもなら「ふふ、どうでしょうね?」とあざとく煙に巻くところだが、アルベルトの青い瞳があまりにも真剣で、甘い熱を帯びていたため、不覚にも胸がトクンと大きく跳ねてしまった。
その時、御者席との仕切り窓が少しだけ開き、セバスチャンの冷徹かつ気の利いた声が飛び込んできた。
「旦那様、奥様。ハルシュタット領内に入るまで、まだ数時間はかかります。王都での連日のパーティーと商談でお疲れでしょう。……特に奥様は、精神的なご負担も大きかったはず。どうかお体に障らぬよう、少しお休みください」
「セバスチャン……お前は本当に空気が読めるな」
アルベルトが皮肉めいた笑みを浮かべると、セバスチャンは澄ました顔で返した。
「執事でございますから。なお、馬車内には毛布と、旦那様の発熱時に備えた冷却用魔法石を完備しておりますので、ご安心ください」
「余計なものを準備するな!」
アルベルトの怒声とともに仕切り窓がパタンと閉まる。
ヴィオラは思わず「ふふっ」と声を上げて笑ってしまった。
「本当に、セバスチャンさんは頼もしい執事さんですわね」
「まったく、誰に似たのか小賢しいやつだ……」
アルベルトは小さく溜息をついたが、すぐに表情を柔らかくすると、自分のお隣の席をトントンと叩いた。
「ヴィオラ。向かい合って座るのもいいが、こちらへおいで。……そっちの席は少し風が当たる」
「あら、旦那様ったら。そんな口実で私を隣に呼び寄せるなんて、あざといですわね♪」
「うるさい。いいから来なさい」
ヴィオラはクスリと笑いながら立ち上がり、アルベルトの隣へと移動した。
座った瞬間、アルベルトの手が伸びてきて、ヴィオラの肩に柔らかい羊毛の毛布をそっとかけてくれた。
「……あたたかいですわ」
「王都の夜風は冷えるからな。……疲れただろう?」
「……ええ、少しだけ」
アルベルトの隣に座ると、彼の体温と、ほのかに香る爽やかな木々の香りが身体を包み込んだ。
王都では常に緊張の糸を張り詰めていた。前世の歌舞伎町で培った営業スキルと世渡り術をフル回転させ、敵対貴族の罠を掻い潜り、完璧な「辺境伯夫人」を演じきったのだ。疲れがないわけがない。
前世のヴィオラ――かつてのNo.1キャバクラ嬢時代は、どんなに疲れていても誰の前でも眠ることはできなかった。隙を見せれば足元をすくわれる、孤独な戦場だったからだ。
だが、今は違う。
隣には、自分のために王都の半分を敵に回すとまで言ってくれた、圧倒的に頼もしい男がいる。
(……不思議ね。この人の隣にいると、心の中のトゲトゲした氷が……溶けていくみたい……)
「……旦那様」
「ん? どうした?」
「……少しだけ、お借りしてもよろしくて?」
ヴィオラはそう言うと、静かにアルベルトの肩へと頭を預けた。
アルベルトの身体が一瞬、固くなるのが分かった。だがすぐに緊張が解け、優しく彼女の頭を受け止めてくれた。
「ああ……いくらでも貸してやる。好きなだけ眠るといい」
「……はい。おやすみなさい、アルベルト様……」
「アルベルト様」と、初めて仕事の「旦那様」ではなく本名で呼ばれたアルベルトは、息を呑んだ。
ヴィオラは長いまつ毛を伏せ、すぐに規則正しい寝息を立て始めた。完璧なメイクと笑顔の仮面を脱ぎ捨てたその寝顔は、前世の修羅場を生き抜いてきた苦労人ではなく、年相応の可憐で無防備な少女のそれだった。
ガタゴトと揺れる馬車の中。
アルベルトは、自分の肩に重なるヴィオラの小さな頭と、膝の上で無防備に放り出された彼女の細い手をじっと見つめた。
(こんなにも小さく、華奢な手で……あんなにも大きな敵を相手に戦っていたのか)
愛おしさが、胸の奥から溢れ出して止まらない。
最初は、互いの利害が一致しただけの「契約結婚」だった。
ハルシュタット領の財政を立て直すためのビジネスパートナー。それ以上の関係を望むつもりはなかった。
だが、彼女の知性に驚かされ、彼女のあざとさに翻弄され、彼女の勇敢さに惹かれ――いつしか、彼女なしの人生など考えられないほど、深く恋に落ちていた。
アルベルトは膝の上にあるヴィオラの小さな手に、自分の大きな手をそっと重ねた。
指を滑らせ、ゆっくりと指と指を絡めていく。
恋人繋ぎ。
「……ん……っ」
夢の中で温もりを感じたのか、ヴィオラが小さな声を漏らし、アルベルトの指をキュッと握り返してきた。
その健気な反応に、アルベルトの理性が甘く痺れる。
アルベルトは空いている方の手でヴィオラの頬を優しく撫で、その体を抱き寄せるように力を込めた。
「……ヴィオラ」
眠る彼女の耳元で、低く、熱い誓いを呟く。
「お前は自分を『ビジネスパートナー』だと言ったな。……だが、私はもうお前をただのパートナーとして見るつもりはない」
力強い腕が、彼女の華奢な体をしっかりと固定する。
「このハルシュタットの領地も、富も、名誉も……私のすべてはお前のものだ。そして、お前の心も身体も、未来も……すべて私がもらう」
アルベルトはゆっくりと顔を近づけると、ヴィオラの滑らかな額に、愛おしさを込めて優しく唇を落とした。
「――お前を、誰にも渡さない。たとえお前自身が望んだとしても、もう決して逃がしてやらないからな」
その言葉は、冷酷な鬼神の執着であり、同時にひとりの男の最上級の求愛だった。
額に残る温かい感触に、ヴィオラは夢心地の中でうっとりと口元を緩めた。
(……あたたかい……。アルベルト様……)
彼女の心の中に残っていた、前世からの裏切りと孤独の氷が、アルベルトの情熱的な熱によって、完全に解け去ろうとしていた。
馬車は夕闇の中を走り抜け、二人の真のホームであるハルシュタット領へと帰還していく。
契約から始まった二人の関係は、もはや誰も引き裂くことのできない「絶対の愛」へと、確実に変わり始めていたのだった。
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