第26話:ダンスの夜、重なる視線と熱
グランヴィル公爵が去った後、大広間の空気がわずかに緩んだ。
しかし、その余韻に浸る間もなく、会場のオーケストラが荘厳で優雅なワルツの調べを奏で始めた。夜会のハイライトである、夫婦やパートナー同士によるダンスタイムの幕開けだ。
「――さて、ヴィオラ」
アルベルトがスッと右手を差し出す。その青い瞳には、周囲の貴族たちの視線など一切気にならないかのように、ただヴィオラ一人のみが映っていた。
「私の自慢の妻よ。最初の舞を、私と共に踊ってくれるか?」
ヴィオラは優雅に微笑み、その手を取った。
「光栄ですわ、旦那様。……足を踏んでしまっても、怒らないでくださいね♪」
「お前が私をからかうのは勝手だが、ダンスのステップを踏み外すようなヘマをする女ではないさ」
ふっと小さく笑い合った二人は、ゆっくりと中央のダンスフロアへと歩みを進めた。
周囲の貴族たちが自然と道を明け、息を呑んで二人を見つめる。
「冷酷な辺境伯夫妻」がどのような舞を見せるのか、好奇と警戒の入り混じった視線が一斉に注がれていた。
◇
音楽が最高潮に達し、一歩を踏み出す。
瞬間――会場の空気が変わった。
(――っ!)
アルベルトのエスコートは、まるで剣の軌道を描くかのように正確で、力強く、そして美しかった。
対するヴィオラは、前世の高級クラブや夜会で培った完璧なボディバランスとリズム感を総動員し、彼のリードにしなやかに寄り添う。
ターン、ステップ、そして交差。
二人の動きは驚くほど完璧にシンクロし、まるで最初から一つの生き物であったかのように、広大なフロアを圧倒的な存在感で支配していった。
「す、すごい……!」
「あれが、田舎から出てきたという辺境伯夫人……? なんて洗練された……!」
「まるで、二人の間に誰も入り込めないような……完全な調和だ……」
貴族たちのどよめきや賞賛の声は、もはや二人の耳には届かない。
回転の勢いに任せてヴィオラの体がふわりと浮き、アルベルトの腕がその細い腰をしっかりと掴んで引き寄せる。
至近距離で重なり合う視線。アルベルトの体温が、ドレス越しに熱く伝わってきた。
(……くすっ。本当に、絵になるパートナーだわ)
ヴィオラは心の中で微笑んだ。
ビジネスの駆け引きでも、社交界のマウント勝負でもなく、ただ純粋に音楽と互いの呼吸に合わせて踊るこの瞬間が、心地よくてたまらない。
しかし、アルベルトの呼吸は、ダンスの激しさとは違う理由で少しずつ荒くなっていた。
目の前で翻るサファイアブルーのドレスの裾、香る甘い微香、そして何より、自分を信頼しきった瞳で見上げてくるヴィオラの美しさ。
「優秀な協力者」として迎え入れたはずの少女が、今や自分の心を完全に奪い去っているという現実が、アルベルトの胸を激しく焦がす。
曲の終盤、二人がゆっくりと回転しながら中央へと歩み寄った時だった。
アルベルトがふっと顔を寄せ、ヴィオラの耳元に唇を滑らせた。
その低い、掠れた声が、直接鼓膜を震わせる。
「――見事だったぞ、俺の妻」
「っ……!」
その一言に、ヴィオラは思わず息を呑んだ。
いつもなら「あざといセリフね」「計算通りだわ」と心の中で余裕の笑みを浮かべていられるはずなのに、なぜか今、心臓が跳ね上がるような激しい動揺を覚えた。
「旦那様……?」
「お前はいつだって私の予想を超え、私を驚かせ、そして……狂おしいほど夢中にさせる」
アルベルトの腕に込められた力が、わずかに強まる。
痛みはない。ただ、彼女を絶対に逃さないという、深い独占欲と愛おしさが痛いほど伝わってきた。
「……ズルいですわ、そんな真面目な顔で、サラッと恥ずかしいことを仰るなんて……」
ヴィオラは頬を赤らめ、初めて「計算ではない、素の照れ」を顔に滲ませた。
いつもは完璧な笑顔で周囲を翻弄する彼女の、そんな年相応に可愛らしい反応を見たアルベルトは、たまら愛おしそうに目を細めた。
「ふっ……お前にそう言われるのは悪くないな」
最後の音符が会場に響きわたり、二人は完璧な美しさでポーズを決め、優雅にお辞儀をした。
瞬間――会場全体が、静寂の後に爆発したような拍手と歓声に包まれた。
王都の最高級の夜会において、これほどまでに美しく、息の合った舞踏を披露した夫婦は他にいない。貴族たちの目は、もはや嫉妬ではなく、圧倒的な敬意と羨望の色に染まっていた。
だが、そんな周囲の喝采など気にも留めず、アルベルトはヴィオラの手を取ると、そのままフロアの脇へと連れ出した。
「お疲れ様、ヴィオラ。……もう、この会場に用はないな」
「あら、まだ夜会は始まったばかりですのに?」
「いいや、十分だ。……これ以上、他の男どもにその顔を見せていると、本当に私が正気を失いそうになる」
アルベルトの瞳に宿る熱は、もう隠しきれないほど真っ直ぐで、甘く燃え盛っていた。
ヴィオラはトクンと大きく鳴る胸を押さえ、ふっと柔らかく微笑んだ。
「……仕方のない旦那様ですね。では、エスコートをお願いしますわ、私の特別なパートナーさま♪」
夜会の喧騒を背に、二人は静かに夜風の吹き抜けるテラスへと歩みを進めた。
ビジネスパートナーから始まった二人の物語は、今や紛れもない「愛し合う夫婦」の形へと、確実に熱を帯びて進んでいくのだった。
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