第25話:中央の太客(大物貴族)を瞬時に転がす
クラリス令嬢が泣く泣く逃げ出した後も、周囲の貴族たちはヴィオラを遠巻きに見つめるだけで、誰も軽々しく近づこうとはしなかった。
「あの冷酷辺境伯の妻にして、微笑みながら相手を社会的に埋める恐ろしい女」――それが現在の王都社交界における、ヴィオラの評価だった。
(ふふ、みんな綺麗な置物みたいに固まっちゃって。これじゃあ営業のしがいがないわね)
ヴィオラがグラスのシャンパンを傾けながら心の中で苦笑していると、背後からゆっくりと、しかし圧倒的な存在感を放つ足音が近づいてきた。
「――ほう。若い令嬢たちのくだらぬ見栄の張り合いを、一刀両断するとはな」
低く、しかしよく通る老練な声。
振り返ると、そこに立っていたのは一人の老人だった。
銀の刺繍が施された最高級のベルベットの外套を纏い、胸元には王室の最高勲章が燦然と輝いている。中央政界の重鎮であり、時の国王からも絶大な信頼を得るグランヴィル公爵その人だった。
周囲の貴族たちが、息を呑んで一斉に身じろぎする。
(グランヴィル公爵……! 中央派閥の長であり、誰にも媚びない頑固ジジイとして恐れられている大物だわ……!)
アルベルトがさりげなく一歩前に出てヴィオラを庇うように立ったが、公爵は片手を挙げてそれを制した。
「殺気立つな、ハルシュタット卿。私はお前の若い妻君に、少し興味が湧いただけだ。……構わんね、夫人?」
公爵の濁りのない鋭い瞳が、ヴィオラを射抜く。それは若造の威圧などとは比べ物にならない、数多の権謀術数を生き抜いてきた者だけが持つ本物の重圧だった。
だが、ヴィオラは微塵も怯えなかった。
(なるほど……。このタイプの重鎮は、下手にお世辞を言ったり怯えたりする女を一瞬で見限る。必要なのは『媚び』ではなく、『知性と対等な会話』ね。前世で数千人の社長や会長を相手にしてきた私を、舐めてもらっては困るわ)
ヴィオラは完璧な笑みを浮かべ、優雅にカーテシーの礼をとった。
「グランヴィル閣下。このようなお褒めの言葉をいただき、光栄の至りでございますわ」
「お褒めに入れたつもりはないさ。ただの事実だ」
公爵はフッと髭を揺らして笑った。
「王都の馬鹿者どもは、お前を『辺境の鬼神に買われた哀れな生贄』などと噂しておった。だが、蓋を開けてみればどうだ。あのクラリスを論破し、さらにはクロード伯爵家から出資の約束まで引き出すとはな。……お前のその度胸と機知、どこで身につけたものか?」
探るような、試すような問い。
ヴィオラは臆することなく、鈴を転がすような声で答えた。
「私を『生贄』と呼ぶ方々は、物事の本質が見えておられないだけですわ。……世の中の取引というものは、一方的に奪う・奪われるものではございません。お互いの価値を認め合い、最高の利潤を生み出す――いわば『究極の共生関係』でございますから」
「ほう……? 共生、とな?」
公爵の目がわずかに見開かれた。
「ええ。我が夫であるアルベルト様は、領地を護り、富を創出する最高の力をお持ちです。そして私は、その価値を正しく世に伝え、広げるための役割を担っておりますの。私たちはただの『夫婦』という枠組みを超え、信頼で結ばれた最強のビジネスパートナーですわ」
ヴィオラがちらりと隣を見る。
アルベルトは彼女のその言葉にハッと息を呑み、そして、言いようのない熱を帯びた瞳でヴィオラを見つめ返した。
(ビジネスパートナー……か)
かつて自分が自嘲気味に使っていたその言葉が、今はどれほど深く、温かい意味を持っているか。アルベルトの胸が激しく高鳴る。
公爵はしばらく沈黙し、ヴィオラの顔をじっと観察していたが――不意に、声を上げて大笑いした。
「はっはっはっ! 面白い! 『最強のビジネスパートナー』か!」
周囲の貴族たちが、公爵の豪快な笑い声に驚いて耳を疑った。あのグランヴィル公爵が、若輩の女性の言葉にこれほど機嫌を良くするなど、前代未聞だったからだ。
「いいだろう、ハルシュタット卿! お前の妻は、ただの着飾った人形ではないな。これほど見事な婦人は、今の王都の社交界にはおらんよ!」
「……過分な評価に感謝します、閣下」
アルベルトは誇らしげに胸を張り、ヴィオラの肩にそっと手を添えた。そのエスコートは、先ほどまでの「警戒」ではなく、正真正銘の「自慢の妻を讃える」ものだった。
公爵は満足そうに頷くと、少し声を潜めてヴィオラに耳打ちした。
「夫人。お主、中央の商業ギルドや貴族どもの利権争いに辟易したことはないか? あの者たちは保身ばかりで、新しい価値を生み出す度胸がない」
「ございますわね。ですが、嘆く必要はございません。価値のわからない方々には退場していただき、本当に価値を分かってくださる『特別なお客様』にだけ、最高の果実をおすそ分けすればいいのですから♪」
ヴィオラが小悪魔的に微笑むと、公爵はさらに面白そうに目を細めた。
「……なるほど。お主のその商売人としての肝の据わり方、嫌いではない。近いうち、我が屋敷の茶会に招待しよう。その時は、お主の口から直接『新しい事業の構想』とやらせてもらいたいものだ」
「光栄でございます、閣下。喜んでお伺いいたしますわ」
二人は優雅にグラスを合わせ、軽い乾杯を交わした。
周囲の貴族たちにとって、それはただの雑談には見えなかった。
中央政界の最高権力者であるグランヴィル公爵が、新参者のヴィオラを「対等な対話相手」として認め、個人的に招いた瞬間――それは、ハルシュタット家が王都の中枢に完全に食い込んだことを意味していたからだ。
「……お主、なかなかの食わせ物だな」
一通り会話を終え、公爵が去っていくと、アルベルトは小さく溜息をつきながらも、どこか嬉しそうな笑みを浮かべた。
「失礼ですわね、旦那様。私はただ、最高のお得意様(太客)をしっかりとホールドしただけですわよ♪」
「お得意様、ね……。お前は本当に、どこに行っても私の予想を軽々と超えていく」
アルベルトの手が、ヴィオラの背中を優しく、しかし強く引き寄せた。
喧騒に満ちた大夜会の中心で、二人の距離はもう、誰にも引き離せないほど密着していた。
(よし! 公爵を押さえたことで、今後の王都での事業展開は盤石ね。前世のNo.1営業成績を、この異世界でも完全に更新しちゃったわ!)
ヴィオラが心の中でガッツポーズを決めていると、ふと、アルベルトが耳元に顔を寄せた。
その低く甘い声が、ヴィオラの鼓膜を直接揺らす。
「……おい、ヴィオラ」
「なんですか、旦那様?」
「夜会の後半戦は、もういい。そろそろ抜け出して、二人だけで話をしないか?」
「え……? まだパーティーのメインイベントが残っていますけれど?」
「そんなものはどうでもいい。……お前を他の男の視線に晒しておくのが、そろそろ限界だ」
まただ。
また、あの無自覚で猛烈な独占欲の囁き。
ヴィオラは心臓の音がうるさくなるのを感じながら、ふっと妖しく微笑んだ。
「……ふふ。仕方のない旦那様ですね。……いいですよ、私の『特別な人』だけに、背中を見せてあげますから」
夜会の華やかな光の中、二人は周囲の視線を一切気にすることなく、静かに会場を後にしたのだった。
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