ワールドカップ事件簿(6)
1974年の第10回大会は、西ドイツで開催された。
今大会では大会の方式が1970年大会のものから変更され、初めて「2次リーグ制」が取り入れられている。
地区予選を突破した16チームが大会に出場していたが、1次リーグでは4チームずつ4つのグループに分けられた。各グループの1位と2位のチームが2次リーグに進出し、そこでは4チームずつ2グループに分けられる。そして各グループの1位同士が決勝戦を行い、各グループの2位同士が3位決定戦を行った。
この方式が実施されたのは今大会と次回アルゼンチン大会のみである。
その当時、ドイツには「西ドイツ」と「東ドイツ」という二つの国があった。
第二次世界大戦での敗戦とそれに伴うドイツ国の滅亡により、ドイツは米・英・仏・ソの4カ国による占領下に置かれたが、戦後の冷戦構造が固定化されていく中で、この4カ国の協調は早々に困難になっていく。
1949年5月のドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国を受けて、10月にドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国が宣言され、ドイツは分断国家となった。
この大会では、その東ドイツが初出場している。
東ドイツはこの1974年大会が最初で最後のワールドカップ出場となっている。
西ドイツと東ドイツは1次リーグで同じ1組に入っていたが、同じ1組に入ることが決まった瞬間、組み合わせ抽選会場には大きなどよめきが起こったという。
1次リーグの西ドイツ対東ドイツ戦は、ハンブルグの試合会場で行われた。この試合は、東西ドイツが対戦した史上唯一の国際Aマッチとなっている。
西ドイツ代表キャプテンは、「カイザー(皇帝)」の異名を持つベッケンバウアーであり、大方の予想は西ドイツの勝利だったが、その予想を覆したのが東ドイツのエースストライカーであったシュパールヴァッサーだった。彼のゴールにより、東ドイツが1対0の勝利を収める。
すでに西ドイツは1次リーグ突破を決めていたが、東西対決を制した東ドイツも1次リーグを突破する。しかし東ドイツは2次リーグでは3位で終わり、史上唯一の本大会出場はベスト8で終わった。
決勝はベッケンバウアー擁する西ドイツと、ヨハン・クライフ擁するオランダが激突する。
オランダは、従来のポジションに捉われず目まぐるしく動き回る全員攻撃・全員防御の「トータルフットボール」を展開し、サッカー界にセンセーションを巻き起こしていた。
一方、西ドイツはベッケンバウアーを中心とした「リベロ・システム」を披露した。センターバックを一人多く配置し、そのセンターバックが「リベロ(自由な人)」として自由に攻撃参加する。ディフェンダーが戦術的に攻め上がるというシステムはその当時画期的だった。「リベロ」はベッケンバウアーの代名詞となっている。
結果は2対1で西ドイツの勝利だった。
西ドイツは1954年大会以来、2度目のワールドカップ優勝を成し遂げる。




