ワールドカップ事件簿(4)
第二次世界大戦のため、ワールドカップは二度の中止を余儀なくされる。
大戦後の1954年、第5回大会がスイスで開催された。
この大会では、第二次世界大戦後に会費未納などで除名されていたドイツサッカー連盟がドイツ連邦共和国(西ドイツ)の協会として復帰している。
日本蹴球協会(現日本サッカー協会)も再加盟が認められて、この大会で初めて日本は予選に参加した。アジア枠は1を割り当てられ、日本、韓国、中華民国が予選に参加したが、中華民国は結局予選を辞退し、韓国と日本が戦った結果、韓国が大会への初出場を果たしている。
その当時の本大会参加国は16チーム。
4チームずつ4グループに分けられ、グループリーグを戦う。
そしてそれぞれのグループリーグの1位と2位が決勝トーナメントに進出する、というかたちだった。
決勝トーナメントの一方の山では西ドイツが勝ち進み、そしてもう一方の山ではハンガリーが勝ち進んでいく。
決勝戦は西ドイツ対ハンガリーで、スイスのベルンにあったバンクドルフ・スタジアムで行われた。
その時点でハンガリーは国際試合で4年間無敗を継続しており、「マジック・マジャール(ハンガリーの魔術師たち)」の異名を持つほどの強豪チームだった。
試合はハンガリー優勢で進んでいく。ハンガリーが開始6分で先制点を挙げ、2分後に追加点を加える。
しかし西ドイツには秘策があった。
西ドイツチームにはアドルフ・ダスラーという人物がシューズを提供していたが、彼が提供するシューズは爪が交換可能という画期的な特徴を持っていた。その時のグラウンドの状況に応じて適した爪をシューズにつけることができる。その当時、そのようなシューズはまだ珍しかった。
ちなみに、アドルフ・ダスラーは、今や世界的なスポーツ用品会社となっているアディダスの創業者である。
決勝戦は雨が降った後のぬかるんだ状態のグラウンドで行われており、走っても踏ん張れるようにと西ドイツの選手のシューズには長いタイプの爪が装着されていた。
その効果は徐々に現れていく。ハンガリー選手がグラウンドに足を取られる中、西ドイツ選手はグラウンドを駆け回る。
前半終了間際に西ドイツは2点を取り追いつくと、後半に1点を取って逆転する。
西ドイツは史上3カ国目の初優勝を遂げた。
この勝利は、開催地の名前をとって「ベルンの奇跡」と呼ばれている。
西ドイツの選手は母国に戻りパレードが開催されるが、そのパレードの様子を見ていた一人の少年がいた。
少年の名前はフランツ・ベッケンバウアー。
後に西ドイツ代表キャプテンも務める、現役時代には「カイザー(皇帝)」と呼ばれた名選手だ。その当時、ベッケンバウアー少年は9歳だった。
その当時を振り返ったベッケンバウアーの述懐が残っている。
「戦後の苦しみの中で育った私たちドイツ人にとって ベルン(の奇跡)は特別な意味を持っていました。
国全体が自尊心を取り戻し 誇るべき存在へと生まれ変わったのです」
第二次世界大戦で凄惨な敗北を喫したドイツの人たちにとって、このワールドカップでの初優勝は特別な意味があった。




