虎杖の矜持
背中は小刻みに震えている。目に見えて筋肉のついたたくましい腕も、今は刀を握りしめることがやっとなほど疲弊し、脆弱な身体と成り果てている。
それでもアザミは立ち上がる。床に敷き詰められた岩板の隙間に剣先を突き刺し、刀を杖の代わりにしてひたすらに柄に縋り付くようにして身体を支える。
「……こいつ…の手は……、汚させねえ……よ……」
そしてよろめきながらも、杖代わりにしていた刀を振りかざす。
血塗りにされた隙間から床に食い込んで刃こぼれした刀身が、鈍い光を放つ。その光は、まさに風前の灯火となった彼女の命を暗喩するかのよう。
「あ、アザミ……」
「いいから早く逃げろっ!」
血痰がからんで濁った声が、石造りの地下牢に反響する。
蘭華と仁兵衛のふたりは、アザミの重傷に一度はたじろいだものの、もうここにとどまっている暇もはない。いち早くこの地下牢を抜け出し、羅漢の追手が来ないところまで逃げなければならない。
ふたりは小さく頷き、足早に駆けて行く。
その足音を背中で見送ったところで、いよいよ刀を構えるアザミ。
「随分としぶといな」
「左胸ぶち抜かれて、のうのうと生きている奴に言われたくない」
アザミに深手を負わせた愛染は、ところどころ血を流す傷をつくってはいるが余裕の表情。彼女の皮肉を嘲笑で返すとともに、右の手元を隠すようにして屈みこみ、空を斬るような手振りをする。風を斬る音がまるで鏑矢を打ったかのように響き渡る。その音の主をとっさの危機察知能力でかわす。針だ。自らに向かって飛んでくる鋭利な針が一瞬アザミの瞳に映る。
そして、彼女の背後で石壁に金属が当たる音がしたかと思うと爆風が吹きすさび、背中に走る衝撃に前によろけてしまう。
あの針が爆発したのだ。
「爆針とはえげつない武器を使うな」
「黄泉送りに手段など選ばぬさ」
鋭い針先に爆薬を埋め込み、衝撃、あるいは皮膚に刺さって血が付着することで濡れを感知して爆発する仕込み針。傷口を抉り出して致命傷を与える、あるいは四肢を奪うための武器だ。右の肩口に刺されば、右腕を丸ごと持っていかれるという代物だ。
もし刺さっていたら重症は免れない。
(野郎……、もはや一片の肉塊すら残さないつもりか)
奥歯をかみしめ、眼球を血走らせ、まさしく視界に抜け目というものをつくらせない。相手がそんな代物を持っている以上、隙というものを一切見せることができない。
おまけに、先ほどアザミは仕込み針で毒を盛られたばかりのところだ。同じ過ちを踏むわけには行かない。攻撃をすれば、隙を見せることになるが、退却が目的ではない。
確実に相手を打倒さねばならない。
ならばとアザミは、眼前で笑う愛染に向かい刃先を突き出す。案の定、突きをかわされる。その瞬間に五感どころか第六感までもにすべての神経を注ぎ込み、相手が隙をつく瞬間をとらえる。
見えた。
暗闇の中、金属製の仕込み針は刀と同じく鈍い光を放つ。
その光に、自らの鈍く光る刃を打ち付ける。愛染の身体に届くか届かないかのほんのコンマ数秒にも満たないかというほどの一瞬の判断だ。
仕込み針を叩き落とし、もう一度振りかぶって斬りかかるも、愛染の刀で受け止められる。こうなることくらいは予想していた。
怯んではいけない。
間髪入れずに、足元を払おうとすると、同じように向こうからも脚が伸びてくる。互いの脚が絡まり、バランスを崩して床を横に転がって跪く形になったところで、暗闇だったのがよりいっそう視界が悪くなっていることに気づく。煙だ。
(煙幕か……。先ほどの仕込み針は爆発性のものではなく目くらまし……)
こちらのフェイクを愛染が読んでいたとでもいうのだろうか。
どちらにせよ、戦況は視界とともに悪化する一方だ。
もともと薄暗く、視界の悪い中で煙幕を使うということは、相手はこの状況下で目が利く術を知っているはずだ。身体の動きで煙に含まれる微粒子がわずかに動き、流れが起き、微かな風が発生する。煙の中で相手の動きを感じる常套手段だ。
だが、それを使うのでは、どう考えても仕掛けた側のほうが何枚も上手だ。その差を表すかのごとく、煙がざわめき、風穴が開いたところから愛染の抜身が飛び出してくる。煙の奥から、愛染の笑い声が聞こえる。傲慢な慢心にまみれた嘲笑でありながら、漬け入る隙を与えない。
そしてまた、それがあの歪み、引きつった笑いを増長させる。視界を奪う煙と闇。どうすればこの暗い地獄の谷を落ちつづけるかのような連鎖から逃れられるだろうか。
もがき、這い上がるアザミの目に、鈍く光るクモの糸が。
仏が救いを差し出した瞬間だ。わらにもすがる思いで糸をひっつかむ。糸が皮膚に食い込み、血がほとばしるが、そんなものを気にしてこの機を逃すわけには行かない。糸を手繰り寄せて、仏を天から、地獄に引きずり落とす。
生憎こちらは救いを甘んじて受け入れる程度の罪人ではない。
相手が仏だろうが何だろうが、気に入らない奴はぶった切る。そんな手に負えないほどの愚人なのだから。
「なっ……、う、動かない……」
愛染はよろめいた。
まさか、相手をかっ裂くための刀の刃を素手でひっつかみ、煙の中になりを潜めるのを引きずりだそうとは思いもしない。
そんな常軌を逸した策を思いつくなど、痛覚というものがないのか。
「ま、まさか……。仙丹か。私の盛った仙丹の痛覚麻痺の効能を逆手にとって……」
「んな姑息な真似するかよ」
血がどくどくと滴り落ちる右の手でがっしりと愛染の刀を掴んでいる。アザミは愛染が初めて見せた焦りの表情に、今まで自分に仕向けられた見下しと嘲笑をまとめて清算するかのようなあくどい笑いを送り返す。
「お前のような、賢人とは違うんだよ」
自らの額を愛染の瞼に打ち付け、視覚を物理的に奪う。
「調子に……乗るなぁ、この愚人がぁ!」
だが、その一瞬の間にアザミの左胸には爆針が三本突き刺さっていた。
心臓のゼロ距離で爆発が起きればひとたまりもないはずだ。ばらばらに砕け散ったアザミの肉塊が地下牢の石畳の床に飛散する光景が、血がしたたり落ちる瞼の裏に浮かんだ。だが、それは結局……。
「あばよ、生糞坊主」
瞼が開いて愛染の視界に入ったのは、アザミが脱ぎ捨てた黒いジャケット。
それに先ほど自らが突き刺した爆針が突き刺さっている。状況を脳が理解するまもなく、背中を刀の束で突き飛ばされ、愛染の身体は爆針の刺さった上着とともに石壁に叩きつけられ、起爆した。
爆炎が上がり、石壁には大穴が開き、爆発をゼロ距離で受けた愛染の焼死体は見つからなかった。代わりに、身体から外れた破れた袖に通された右腕だけが、先ほどまで彼が持っていた得物を掴んだ状態で転がっていた。それを見届けると、アザミは足早に駆けて行く。蘭華と仁兵衛のところに追いつくために。
*****
「……仁兵衛、もうこげなことはやめにせんか……」
「何のことを言ってるんでぃ……」
その日、虎杖と仁兵衛はサイコロの上にかぶせた壺皿を挟んで向かい合っていた。
仁兵衛と虎杖が出逢ったあの日からもう何年と経つが、賭け事勝負はほぼ毎日のように行われていた。壺皿の中のサイコロの目を、頭を捻りながら言い当てる。ある時は花札。そしてまたあるときは麻雀。どんな賭け事においても仁兵衛は、引けというものを全くとらない。そして、虎杖も駆け引きや手口というものを仁兵衛から教え込まれた。厳しい練習でも、こ汚い落とし合いでもない。ただの真剣な遊びとして賭け事を楽しんでいた。
だが、このところのふたりは様子が違っていた。互いの瞳はどんよりと濁っている。ふたりが腰を下ろすのは、もう地べたに敷かれた盆御座などという、みすぼらしいものではない。唐より高額で輸入された赤い羊毛の絨毯だ。ふたりを照らすのはもう、むき出しの太陽でも曇天の隙間から漏れる陽でも、月明かりでもない。豪華な燭台の灯だ。なのに、それにも拘らず、ふたりの背中には薄暗い夜の帳が降りていた。
「そんでも、天下の遊び人か。わしは今のおまんを見ちゃおれん……」
「だから今もこうしててめーと、遊んでるだろうがよぉ。何が気に食わねえってんでぃ」
「……おまん、この賭場に金を入れるために客に混じって、賭け金ふんだくっとるらしいな。人質に取られちょる女房と娘んために」
仁兵衛は賭場の飼い犬になっていた。
猟犬だ。飼い主のために愚かな兎を捕まえてきて、飼い主の前に差し出す従順な飼い犬。粋な遊びではなく、客から金を巻き上げるために賭け事をする。
そんな仁兵衛を虎杖は見ていられなかった。虎杖を救ってくれた、虎杖が背中を追いかけてきた仁兵衛は、そんなこ汚い工作人なんかじゃない。
「仕方ねえんでぃ、俺はもうただの鎖につながれた飼い犬にすぎねえ」
そんな言葉を口にして、事を諦観するような人間なんかじゃない。
「だったら、わしがその鎖ば断ち切っちゃる」
「……、馬鹿、よせやぃ。んなことしたらてめーは……」
「……わしゃ、どうなってもええけえ。所詮おまんがいなかったらわしゃあ、ただ忌み嫌われるだけのならず者やったけえ。おまんに救われた命、おまんがために使うても罰は当たらんじゃろ」
だから取り戻してやりたかった。首につながれた鎖を切ってやりたかった。
だが、それは飼い主の首がつながっている限り決して、無くなってはくれない。
それも今ここで終わりにする。離れてもなお、仁兵衛を縛り付け続ける、その私利私欲にまみれた歪んだ鎖を今ここで断ち切ってみせる。
「羅漢んんんっ!!」
憎き相手の名前を叫びながら、背後を取る。羅漢に対し、大吾と虎杖のふたりが剣を交えることになったのだから、後ろを取るなどたやすいこと。確実に斬撃を与えられるか。
だが、相手がそんな一筋縄でいくような存在ではないことを虎杖は知っていた。
「後ろを取れば、私の魂が取れるとでも思っているのかい」
後ろ手で、しかも利き手ではない左手という至極不便な銃の構え。だがその狙いはまるで人間がひとりの中にふたりいるかのように正確だ。羅漢は、右の手で大吾の剣を振り払いながら、左の手で引き金を引く。弾丸をとっさの判断で虎杖は避け、次の一手に移る。
一瞬も気を抜けない。後れを取ればただでさえ、少ない機会を失うことになる。
上体を右に曲げることで弾丸をかわした。そこから、身体に右回りの回転をかけて、一思いにその背中を切り払う。
だが、そこにもう羅漢はいない。
「遅いわよ」
銃撃を避けさせることで一瞬の時間が稼げる。
それを利用して、後ろとびで羅漢はふたりからの距離を取った。宙を切った自らの斬撃に虎杖は、奥歯をかみしめて苛立ちを露わにする。すぐさま刀を振りかざし、羅漢に向かって走りこむ。血走った瞳に、薄ら笑いを浮かべて銃を構える羅漢の姿が映る。
「虎杖っ! 早まるなっ!」
一発目、まずは刀を持つ虎杖の右手を狙ったものだ。右腕を弾丸は貫通し、激痛を掻き消すがごとくの唸り声を上げ、虎杖は自らの精神を鼓舞する。
早まってなどいない。焦ってなどいない。ただ急いでいるのだ。
機会を伺うなんてこいつには通用しない。機会を奴の身体の中から抉り出し、引きずり出すぐらいの心持ちでなければ。
二発目の引き金を引こうかとしたとき、虎杖の身体を横から大吾が突き飛ばす。二発目は大吾の肩口に着弾。怯んだ隙を狙って羅漢の大太刀が突き出され、確実に利き手を奪う、神経の位置を狙ってくる。喰らってしまえば最後、右手の麻痺は永久の後遺症となる。
「るぁああっ!」
その刃先が触れるか触れないか。羅漢は虎杖の咆哮とともに繰り出された足払いによって、足をすくわれた。バランスを崩し、地面に崩れ落ちる羅漢の身体に、大吾の刀が振り下ろされようかというところで、銃を乱射。大吾を牽制し、ひるませると同時に脇腹に銃弾をかすれさせる。
もう次は姿勢をとりもどして、おそらく大吾に致命傷を与える位置を狙ってくる。虎杖は、羅漢の胸ぐらを左の手で引っ掴んで引き寄せて右手の刀に脇腹を食い込ませる。
「うぐ……っ…うう……」
羅漢の身体から血が滲み出て、虎杖の衣服へとぼたぼたと滴り落ちる。
片目をつぶり、眉間にしわを寄せて痛みに耐えながらも、その銃口を虎杖の脳天へと突きつけ、引き金に指をかける。一瞬、一瞬だ。すべての手が秒刻みで下される。いや、コンマ数秒と言ってもいいかもしれない。
「させるかぁああああああっ!」
斬撃で羅漢の攻撃を止められるか。いや、止められない。
羅漢の身体を撥ね飛ばし、虎杖から物理的に遠ざけさせる。大吾の体当たりで、羅漢は突き飛ばされ手石畳の床をごろごろと転がる。だが、もう遅かった。もう、手は下されていた。虎杖の腹部を羅漢の大太刀がぶすりと貫通して、向こう側の床石をうがっていたのだから。仰向けになった状態で虎杖は、吐血しゆっくりと瞼を閉じる。
「い、いっ……、虎杖っ!」
駆け寄ろうとする大吾に、羅漢の銃口が向けられる。そして怯んだ一瞬を利用して、羅漢は虎杖の腹に突き刺さった自分の大太刀を抜き取り、刃に突いたまだ固まりきっていない虎杖の血を飛び散らせながら、大吾に向かって振り下ろす。なんとか、刀で受け止めはしたものの、二本の得物の刀身の差は、日本刀と脇差のそれに近いものがある。
「あとは、あなただけよ」
「これで目障りな奴がいなくなってスッキリしたわ。この賭場の土地を手に入れたくて、ウズウズしてたのよ。あの無粋な猿は、昔っから私の邪魔立てばかりするの。私の賭場にかちこみ仕掛けるわ。おまけに、飼い犬まで盗んでいく始末……。あなたもそういうクチ?今すぐここで抵抗をやめて、仁兵衛を引き戻してくれるなら、命だけは助けてあげてもいいわよ」
鎬を削り合う刀が、ガタガタと震えて、少しずつ大吾が押し負けて行く。どうやら永くはもたなそうだ。それでも相手の安い煽りになど大吾は屈しない。
「断るに、決まってんだろうが」
半ば受け流すようにして羅漢の大太刀を押しのけ、間髪入れずに刀を振り下ろす。羅漢の服がはだけたところから、右胸のに開いた血の滴る傷が見えている。
「お前ほどの悪たれじゃあ、容赦はしねえよ」
「手加減してくれていたっていうの?優しいのねぇ」
右胸の傷、脇腹の傷。どちらもそれなりに大きく滴り落ちる血の量も相当のものだ。にも拘らず、羅漢の顔色にはまだ余裕というものが垣間見える。対してこちらは、大吾は強がってはいるが肩が息遣いとともに上下している。おまけにもうひとりの虎杖は、今も動かないまま地面に仰向けに転がっている。
いや、動いていないわけではない。かすかに胸が上下している。
まだ息がある証拠だ。だが立ち上がれない。疲弊に身体を抑えつけられ、身動きが取れない。ゆっくりと瞼が開き、視界が戻る。そこにいたのは互いに剣を打ち鳴らす、大吾と羅漢だ。互角にも見えるが、大吾の息が刃を打ちつける度に荒くなっていくのがよく見ればわかる。ふたりがかりで相手してようやく数か所に傷をつけられたような相手だ。今の羅漢に新しい傷は増えちゃいない。
立ち上がらなければ、立ち上がらなければいけない。
(立ち上がらにゃあ、立ち上がらにゃいけんのじゃ。そうせんかったら、また……)
虎杖の脳裏にあの光景がよみがえる。
仁兵衛を羅漢のもとから奪還し、自分の家に帰ったときのことだ。真夜中、中の灯が外から見えないのも無理はない。もう妻も娘も寝静まった後なのだろう。
「仁兵衛、窮屈かもしれんが少しここで大人しくしちょくれ……。羅漢はわしが必ず討ち取る。娘の蘭華もわしが見つけちゃるけえ、それまでの辛抱じゃ……」
ここに戻ってくる前に、賭場の地下牢で仁兵衛を匿った時に交わした約束の言葉が頭の中に響く。羅漢の賭場で飼い殺しにされていたところから連れ出したはいい。
でも羅漢が人質にとっていた仁兵衛の家族は、女房は過労で死んでから、娘は放浪の身。
結局、仁兵衛を家族と合わせることはできなかった。
そして、羅漢の首も討ち取れず、傷だらけになって命からがらに逃げのびて来たのだ。仁兵衛を野ざらしにはできない。追手が取り返しに来るはずだ。彼の身元を虎杖だけが知る場所に置いておく必要があった。だが、これでは結局羅漢とやっていることは変わらないのではないか。形は違えど、仁兵衛から粋な遊びとしての博打を奪ったことには、変わりはないのではないのだろうか。
「……、大見得きっちょってこんザマや。わしゃとんだ甲斐性なしじゃ」
自らに悪態をついて玄関の引き戸をがらりと開けると、土間に赤黒い血だまりがあるのが目に入る。
虎杖は目を見開き、懐から取り出したオイルライターで家の中を照らす。
血だまりの中に、身体を失った首が見えた。
信じたくはなかった。
信じたくなかった。疑いたかった。
だが、何度瞬きをしてもそこにあるのは変わらない。眼球を抉り出され、虚な目ではなく、虚そのものをこちらに投げかける妻の首。突き付けられた事実に、唇は震え、うわごとを呟き始める。
「う……そ……じゃ……嘘じゃ……、ま、幻じゃ……」
嘘だ。夢だ。幻だ。夢だ。幻だ。嘘だ。幻だ。嘘だ。夢だ。
しきりに呪文を唱えながら、妻と娘が寝静まる居間の障子を開ける。
「……う……そ……」
だが、嘘ではなかった。幻でもなかった。夢でもなかった。
まぎれもなく、自分が見た眼球のない生首は、現のものであった。そして、頭部も四肢もを失った妻の身体も。上半身と下半身を分断され、頭は真っ二つに割られて、脳髄が露出している娘も。
そう……すべて現のものだ。
(また……。また、あん時んよに全て失うてまう)
虎杖は仁兵衛をとり戻すために、死ぬ覚悟で羅漢の賭場にかちこみに行った。
もともと羅漢は、仁兵衛と渡り歩いたかつての街を、今の汚い闇街に塗り替えた地上げ屋の頭だった。何度も何度も衝突してきた因縁の相手。そいつが虎杖の家族をすでに取り押さえていたとしても無理はない。仁兵衛の家族を彼がそうしていたように。
そうした上で、虎杖が咎を犯すのを、首を長くして待ち構えていたわけだ。憎き虎杖の家族を惨殺できる大義名分ができるときを。
そうして、虎杖はすべてを失った。守るべき家族をすべて。
(じゃけえ、じゃけえ……。まだ、死ぬわけにゃあ行かんのじゃぁ!)
虎杖の拳に青筋が走り、心臓を司る魂から最後の精が注ぎ込まれる。
しかし、立ち上がることができても恐らくもたない。
倒れる自重を借りてでも相手を一思いにぶった切るしかない。それができるのは、おそらく死んだことになっている自分が起き上がるこのまさに一瞬だけ。
「うらぁああああああああああああああああっ!!!」
刃は羅漢の背後から振り下ろされ、彼の首を斬り落とした。
頭を失った羅漢の身体が崩れ落ちるのと同時に、虎杖の身体も力を失い、息を合わせるようにして地面に倒れる。
視界に映った羅漢の生首を、自分を見つめていた妻の生首と重ね合わせ、虎杖は安らかな笑みを浮かべた。
「……、借りは……、返し……たけえ……」




