蘭華と仁兵衛
「よう。水くせぇじゃねえか。こんな面白そうな大勝負ひとりで楽しもうとはよ……俺も入れさせてくれよ、なあ極道さん」
「お……おまんは……」
羅漢とそれに付き従う男ども。あるいはかつては自分の部下でありながら仙丹によって犯され、自我を失った操り人形となってしまった男ども。虎杖はその両方を相手取る孤独な賭けに出た。だが、そこに割り入った男が。虎杖自身が牢屋に閉じ込めておいたはずの男だ。
「なんでこげなとこおるんや! 逃げいと言うたろうが」
「聞いた覚えねえよ。んなもん。それとも、あの鍵を投げ入れたのはてめーか?」
「なっ……」
図星をつかれたかのような、解りやすい反応をする虎杖。大吾は勘付いていた。
「わざわざ仁兵衛の名前まで使って、随分と細工を入れたもんだな。そんなことしてまで、仁兵衛を守りたかったかよ。仁兵衛を守るために、こんなところに閉じ込めて。んな小細工までして、蘭華の中の憧れまで守りたかったかよ」
「それで、極道にそんなもん似合わねえってのがようやく分かったのか」
急な助太刀の登場に敵が怖気づいていたのは一瞬の間。
羅漢が右手を振り上げれば、男どもが刃を掲げて襲い掛かってくる。
「おまん……、この賭けんルールはわかっちょるか?」
ふたりは抜身の刃を両の手で握りしめ、迫りくる白刃に備える。
「ああ、とりあえずあのオカマ野郎の首がつながっている間は、親子笑っての再開はねえってことだろ?」
「くっふふ……、上出来やぁ」
ふたりに目がけてふたりの男が走り込み、一思いに切りかかる。
それを息を合わせて背中合わせになり、まるで流れる水を分かつようにして受け流す。男どもは、ちょうど通り過ぎたところで向き直り、次の一手を仕掛けようとする。隙は見せていないほうだが、それでも遅い。このふたりには、それでは遅すぎる。男どもは息を合わせて倒れる。
「うしろっ!」
虎杖の後ろを取った男を、先ほどの男からくすねた得物の束で突き飛ばす。続いて周りを取り囲んでくる奴らを一思いに刃を逆に向けて峰で払う。
大吾だけではない。虎杖も止まらない。向かってくる男の鳩尾に束をねじ込ませて体重をかけて押し倒し、その背後に切りかかってくる男を振り返りもせずに、抜身も見せずに、抜刀し、切り裂く。続く男には峰打ち。この死地に及んで、敵とかつての味方とを分けている。それでいてこの一騎当千ぶり。
敵の目の色が変わった。見下しが混じった瞳から眼光が消え、ぐらぐらと瞳が震えて恐れを露わにしている。
鬼だ。目の前にいるのは、人ではない。何人が束になろうが、勝てやしない鬼。
刃を構えながらもそれを振りかざすことができない不甲斐ない部下の背中に、羅漢が立つ。刃渡りが人の背丈はあろうかという大太刀を引き抜く。そして、あろうことか自分の直属の部下を身体ごと真っ二つに切り裂いた。魂の入った身体が、ふたつの肉塊に別れ、石畳の床に崩れ落ちる。
「邪魔よ。どきなさい」
血がどくどくと肉塊から流れ出し、血だまりをつくる。血は衣服につけば二度と取れないほどの頑固の汚れになるが、そんなことは微塵も気にせず、むしろ自らの派手な着物を血染めにしたいかのように肉塊をげしげしと踏みしめる。これは見せしめだ。怖気づいた者はこうなると。部下どもは生唾をごくりと飲み込み、覚悟を固め、わけもわからない雄たけびを上げて斬りかかる。覚悟をしたのは、決心ではなく己が最後ということだろう。
「……い、虎杖……、てめー……」
「何をぼうっとしているんですか」
牢屋の中で仁兵衛は我が目を疑った。鉄格子の向こうで虎杖ともうひとりの男が殺陣を繰り広げている時点でも疑いたかったが、この状況にして目の前で牢の錠前が外されたのだから。しかも、牢の錠前の鍵を手に取っているのは、自分の娘、蘭華だったのだから。
「て、てめー……、逃げたんじゃなかったのか」
「逃げてなんかいないですよ。……あの男は、あのふたりはあたしたちを助けるために大勝負に出たんです。だったら、あたしたちも勝負に出ないと」
「な、なにを……、ここで死んだら元も子も!」
「あたしは死にませんよ、だって……」
敵の目が虎杖に大吾に集中しているとはいえ、そんな隙は生まれてもほんの一瞬。敵の目をかいくぐって、少女が大人を連れ出すなど到底無理だ。背後に蘭華を取り押さえようとする男の手が忍び寄る。だが、それでも蘭華は怖気づくことも、気配を察知して振り返ることすらしない。
「ら、蘭華……、逃げろっ!」
男の腹を刀が突き通す。男の手から力が抜け、身体ごと崩れ落ちる。こうなることを知っていた。大吾が自分の背中を守ってくるということを。
「信じているから、それもあたしたちの出来る立派な戦いなんです」
「だから、もう行きましょう。だからもう……あたしを置いていかないで下さいよ。ね……」
「ら、蘭華……逃げろと言うたろうが!」
仁兵衛を閉じ込めていた牢屋の扉が開き、蝶番のきしむ音に虎杖は動揺する。
無理もない。逃がしたはずの仁兵衛の娘が、この死地に舞い戻って来たというのだから。
「逃げろと言われて逃げたら、博徒の名が廃れるだろうがよ。こいつが黙って逃げるような魂かどうかくらい、分かってんだろ? 実の娘が、ここまでしたんだ。だったら仁兵衛、あんたのやれることは」
大吾が開いた牢屋の鉄格子の扉に向かって、敵から奪った得物を投げ込む。ぱしりと束と掌が打ち合わせる音が。仁兵衛がそれを受け取った証拠だ。
「ああ……わかったさ」
「何をやっているのよ……、飼い犬を捕らえなさいっ!」
羅漢が命令を下すも、もう部下も、仙丹で犯して無理やり傘下に加えていたのも、皆が皆石畳の床に横たわり、ピクリとも動かない。残っているのはもはや数人といったところ。その数人が仁兵衛を刀を振り上げて襲い掛かるのを、大吾はにんまりと微笑み、その輩を弾き飛ばす。ついに、羅漢を取り巻いていた十数人の部下どもは、虎杖と大吾の手によって始末されたのだ。
「あのオカマ野郎はまかせろ。てめーはてめーの娘だけ守りな」
おまけに、稼ぎとして利用しようとしていた獲物もその人質も、大吾と虎杖に退路を確保されて逃がされる。だがこの事実上の敗北と言ってもおかしくない状況を前に、羅漢は焦りの表情も、悔しさに唇をかみしめる様子も見せない。それどころか大口を開けて高々と笑う。追い詰められた自分に頭がおかしくなってしまったのか。それよりはむしろ、よくもここまでやってくれたなという敵に送る称讃のようなものが感じられる。
「アッハハハハ……、よくもこの羅漢をここまでコケにしてくれたわね。でも、ここを潜り抜けたところで地下牢には既に散らばった部下が……、追いかけなくてもいいのかしら。まあ、その前にこのあたしが
あなたたちを血祭りにしてあげるわ」
羅漢の血にまみれた大太刀が振るわれ、まだ固まりきっていない血の飛沫が飛び散る。にんまりと引きつった怪しい笑みを浮かべ、その刃先を虎杖の脳天へ。
「虎杖、10年越しの恨み……、ここで晴らさせてもらうわよ」
*****
薄暗く碁盤の目に通路の張り巡らされた石造りの地下牢。もちろん窓はなく、天井からは心もとない裸電球の光が。通気口は一応完備されているが、それでも到底十分とは言えない。走ればすぐに息が上がるのは、ここの空気が悪いからだろう。地下で高山病のような症状が出てしまうという奇妙な事態。だが文句は言っていられない。この地下牢から逃げなければ。なんとしてでも、逃げ切らなければ。心の中でそう言い聞かせながら、蘭華はひたすらに仁兵衛の腕を引きちぎろうかと勢いで引っ張っていく。
「ら、蘭華……」
「もう少しです!きっと……きっと……」
歯を食いしばり、拳に青筋を浮き上がらせ、荒い息は半ばあえいでいるようにすら聞こえる。まだ十を過ぎたばかりの少女が大人の男ひとりの手を引いて全速力で走っているのだから、無理もない。
「……てめー……、俺はお前を捨てた父親だぞ。そ、それをなぜ…なぜ……」
「じゃあ、なぜ会いに来たんですか……」
「なっ……」
『せめて言うならその賽を渡しに来ただけだ。いつか…、運が尽きたろくでなしにあったらそれを渡してくれ』
蘭華に博徒としての生き方をさせた仁兵衛との出会い。
そして、そのときにもらった約束のサイコロ。仁兵衛自身もなぜ、そんな過ちを犯してしまったのかわからない。
自分がそんなことさえしなければ、蘭華を縛り付けることはなかったのかも、彼女を苦しめることはなかったのかもしれない。
「……すまねぇ……、お前を苦しめるつもりは……」
「理由なんてないんでしょ?」
「それに……。どうせ、あたしはここまで来ていましたよ」
だがそんな仁兵衛の言葉を背中越しに鼻で笑いながら蘭華は否定する。
たとえ仁兵衛が会いに来なかったとしても、たとえ負い目を見せなかったとしても。蘭華は自分から会いに来るつもりだったという。
『ねえ、お母さん、あたしの……お父さんってどんな人だったの?』
そう心に決めた理由は、自分の母親から聞いた話にある。
『……忘れなさいって言ったでしょ。あの人は賭け事の運のために自分の家族を捨てたろくでもない人なのよ』
『嘘だよ、お母さんはろくでもない人のとこになんか行ったりしない』
『じゃあ、約束してくれる?』
『何を……?』
『どんなに寂しくなっても、たとえお母さんがいなくなってもお父さんには、逢いに行かないって』
その約束を破ろう。その約束との反対のことをしてやろう。
蘭華は子供心にそう思った。
それを口には出さなかったが、心の中ではそう思っていた。おかしい、たとえどんな理由があっても逢ってはいけないことが約束だなんて納得がいかない。その思いは母親が唇を動かして、言葉をひとつひとつ紡ぎだすたびに深く深く、強く強くなっていった。
「お父さんは、あたしを助けてくれたの。闇街で売りさばかれていたあたしを」
蘭華の母親は、闇街でさばかれていた人身売買のうちの商品のひとりだった。買い取り先は趣味の悪い個人か、それとも遊郭か。救いようのない二択だった。
「どうする、この生娘 たいそうな別嬪だな」
「吉原にでも売りさばくか…?」
品定めをしていた暴漢が女の顎を手でつかむ。彼らには、品物を物として丁重に扱うということすらない。
「まあ待てよ、吉原に連れてくくらいなら先に俺達で一発やらせてもらおうや」
「孕んだら売り物にならなくなるぞ」
「孕んだら孕んだで別の嫁さん探せ、どうせ腐るほど奴隷はいるんだからよ」
それどころかまだ金を払ってもいないのに、手を付けてしまおうというのだ。ここまでくれば売買と呼んでいいのかさえ怪しくなってくる。商品としてはおろか、替えならいくらでもいる掃き溜め程度にしか思われていない。
そこは闇だった。本当に光の一筋もない。真っ暗闇だった。
「おい、その女賭けて博打させちゃくれねえか? この天下の遊び人、運付きの甚兵衛によ」
だが暗闇であえぐ蘭華の母親の耳に、ある男の声が。
ひどくぶっきらぼうだったが、周りにいる暴漢どもとは違い、その裏に埋もれた優しさのようなものを感じた。その男がやってきたとき、確かに彼女の中で光が挿したのだ。鈍すぎて今にも消えそうでふらふらしていて、何色かはうまく説明はできない。それでも彼女の心を焦がすには充分だった。
「あたしもバカだろ…? たった一度自分の前で大見得切った男に蘭華を孕むまで焦がれたんだ、ったくあんたもバカな恋はするんじゃないよ。焦がれてるのに……、あんたの父さんはあたしをほっぽっちまった……。お腹には、あんたがいたというのにさね。でも胸を張るといい……」
蘭華の母親はそう言って、膝枕に寝かせた自分の娘の髪を撫でる。
嘘だった。やっぱり嘘だった。自分の父親が、自分の母親が惚れた男が、忘れたほうがいいようなロクでなしだっただなんて。
「あんたの父親はサイコロひとつで今も戦ってるよ。いいじゃないか、会いに来てくれなくたって、金を入れてくれなくたって。あんたの父親は……、あの人は……」
「他の誰でもない、家族をくれたんだからさ」
その言葉を聞いて、そのことが分かって、蘭華はそっと微笑み、母親の膝枕の上で幸せな眠りの中に堕ちたのだった。自分の父親は信じていた通りの素敵な人だった。自分の母親を助けてくれた粋な遊び人。その事実を心の中で噛みしめながら。
「だから決めたんです。逢いに行かないなんていう約束なんて破って、絶対に父さんを探し出すんだって……お父さんだって約束を破ったじゃないですか。だったら、お互い様でしょ? だから……、あたしのこと捨てたなんて言わないでください」
自分はなんと寂しい思いを娘にさせたのだろう。
そして自分は、その娘を前にしてなんと詫びればよいのだろう。
自分の娘を捨てた咎。それに思い悩む仁兵衛に、蘭華はその咎ごと包み込むかのような眼差しを差し向ける。ただ娘として父を求める。どこか利己的で、それでいてどこまでも深い慈愛に溢れた眼差しだ。
もうすぐ、もうすぐこの地下を抜けられる。ずっと探し続けていた父親の手を握りしめ、今まさに。そう思っていた矢先、蘭華の脚は、歩みを止めることを余儀なくされる。
「こ、これは……」
「蘭華、どうした?」
緑色に苔の生した石畳の床に、暗い中でもはっきりとわかる血の色。浅く張った水たまりには赤いもやが際限なくゆらゆらと揺らめいており、その中心に力なく横たわる背の高いひとりの女。それが誰なのか分かるや否や、蘭華は女のもとに駆け寄り、跪く。
「あ、アザミ! しっかりしてよ!」
アザミの肩を揺さぶるも、起き上がる気配はない。諦めきれずに何度も揺さぶるうちに背後から近付く足音。蘭華の背中は、それが耳に入っただけで凍り付いたのだった。
「それが賢人に背いた愚人の末路さ」
冷たい足音。冷たい声。渇いた薄ら笑い。
袈裟に身を包むも、口から出てくるのはありがたい説法などではない。浅ましいほどまでに傲慢で無慈悲な言葉。口角を引きつりあげ、目の玉をひん剥いて鷹のような鋭い眼光の釘で、蘭華の身体を地面に打ち付ける。振り上げられた刀が、蘭華に向かって振り下ろされる。それを仁兵衛が、先ほど大吾からもらい受けた刀で受け止める。
だが、男は舌打ちもせずにより一層不気味な笑顔を引きつらせる。
「と、父さん!」
鎬を削り合わせる刀に両手を添えていたところを、右の手のひじを突き出して仁兵衛の襟ぐりのところにねじ込み、仁兵衛の身体を自らの身体へと引き寄せ、仁兵衛の刀を左手に持った刀で叩き落とし、攻撃する術を封じる。
隙ができたところで、男は右手の袖口に忍ばせた毒針を取り出した。精神錯乱性のある麻薬を塗りこんだ、相手を意のままに操る毒針だ。
「残念ながら、生け捕りにせよとのことでねえ。殺せないのが残念だ。その替わりに仙丹で反抗する意志を殺させてもらう」
「やめろぉおおおおっ!」
自分の父に、その毒針が突き刺されようかというその瞬間を目の当たりにし、蘭華は雄たけびをあげて、仁兵衛が落とした刀を拾い上げ、男の背中に斬りかかる。自分の家族に迫る魔の手を振り払わんとするその形相は、般若かまたは鬼の子か。
だが、その刃が男の背に触れようかとおもった次の瞬間。
男は足元をすくわれ、地面に引き寄せられた。そのまま男は、取っ組み合う姿勢になってごろごろと床を転がり、喰らいついてくるそいつを跳ねのけようとする。脚を畳み込んで、そいつの腹に重たい蹴りを喰らわせて拘束を振りほどく。地面にたたきつけられたそいつは、肩で息をしながら、満身創痍で身体をがくがくと震わせて立ち上がる。
「……こいつ…の手は……、汚させねえ……よ……」
なけなしの精力を奮い立たせた、アザミだ。




