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大博打

 薄暗い地下牢からようやく脱出できると思っていたのもつかの間。

 自分を突き落すための罠は二重にも三重にも重なっていた。喉元に突き立てられた刃は、天井につるされた、鈍く光りながら頼りなく揺れる裸電球を反射している。その灯は、まさに今の自分の命に似ている。刃を持つ男の手からは、とてもか細い自分の腕では掻い潜れそうにない。男の顔は黒い包帯のようなもので隠されており、視界は悪いだろうが、こちらが表情から隙を伺うにはひどく不便だ。


「ら、蘭華っ!」


 アザミが声をかけると、包帯の男は振り返って蘭華を盾にして、今にも突き刺すぞとばかりに反り返った刃を蘭華の喉元にあてがう。彼女は声を上げることもできずに、ただただ肩をこわばらせて怯える事しかできない。声を上げれば、刃が首に食い込んで気管から脊髄、延髄までをもひと思いに断裂する。そうなることが分かっていたからだ。


「くっ……」


 すっかり動けない状態の蘭華を前に、アザミも手を出しかねていた。


 蘭華を盾にされては下手に動けない。


 怖気づく間に、男は蘭華を盾にしながら、後ずさりで地下の石畳の回廊を進んでいく。大吾とともに走って追いかけるが、男はまるで後ろに目があるかのように、俊敏な後ろ走り。

 女伊達のアザミならまだしも、大吾でさえ追いつけない。

 おまけに、向こうはこの牢の並ぶ地下回廊の仕組みを理解しているようで、手が届きそうかと思えばすぐに角を曲がって行方をくらます。裸電球の灯では、曲がり角の場所がすべてわかるように照らすことなどできやしない。それを利用して、姑息にこちらをまいてくる。


「くそう、追いつけない」


 いら立ちを募らせるアザミを大吾が呼び止める。


「待て、アザミ」

「なんだ?」


「……俺の見立てでは、この地下牢はそこまで広くない。それに碁盤の目に倣った規則的な構造だ」

「だから、なんだ……?」


「音を頼りに探すのさ。闇雲に走れば、こっちの足音で奴の足音が消える。この暗がりじゃ、それは明らかに不利だ」


 大吾の言う通り、この地下牢がそこまで広くないというのなら、相手は確実に暗さを利用して、こちらを攪乱するはず。相手の逃げ方も、それを考えてしまえば実に納得のいくものだ。

 曲がり角の多い碁盤の目の中で、こちらを引き寄せてから暗闇の中で曲がり角を二回曲がる。これを繰り返せば、いとも簡単にこちらをまけてしまう。相手はこれを利用していたのだ。だがこちらが動くことを止め、耳をすませば、この方法は途端に効力を失ってしまう。大吾は密かに懐に忍ばせていた護身用の短刀を構え、アザミも刀の束に手をかける。


 ……。……。


 しかし、音はしない。

 どうやらこちらの足音が止んだのを捕らえて、即座の判断であちらも沈黙を貫くことにしたのだろう。こうなれば、両者の我慢比べ。結局ふたりはその場で足止めを喰らわされてしまった。


(くそ……、相手のほうが上手だったか)

(信用して損した。結局手も足も出ないのは変わらないじゃないか)

(うるせーよ!なんで、お前テレパシー使えんだよ!)

(お前も使ってんだろーが!)


 策を巡らしたにもかかわらず状況を打開できず、いら立ちを募らせるふたりの耳に音が耳に入る。ばさりと何か大きくて軽いものが水に落ち、飛沫を上げる。

 そして、それに続いてからりと何かが石畳の上を転がる音。敵がドジを踏んだのだろうか。とにかく音は、今ふたりがいるところから空っぽの牢屋を挟んで、ちょうど反対側から聞こえた。ここで、ふたりが同じ方向に同時に動いたなら、再び鼬ごっこに逆戻り。ここは挟み撃ちの戦法だ。二手に分かれ、ちょうど同じ速さで呼吸を合わせるようにして音がした場所へと向かう。


 だが、そのとき――


「うっ!」


 大吾の耳にアザミの声が。二手に分かれたその穴を見事についてきた。


「あ、アザミぃ!」



 突如として、背中を何者かに小突かれ、石畳の床にアザミは倒れこむ。

 先ほどまで後ろに気配などなかったというのに。今はそれをまざまざと感じつけさせられる。このまがまがしい気配に、自分は気づかなかったとでもいうのだろうか。


 カラン……。


 起き上がろうとしたその瞬間、金属音とともに一本の針が転げ落ち、首元から血が滲み出る。

 針先には何やら得体のしれない薬が塗ってあり、紫色に染まっている。


 そう、気付かなかったのではない。気付かなくされていたのだ。


「お気を付けください。仙丹は相手に気づかさせないほど、静かにゆっくりと毒す。安心しなさい、愚人よ。死にはしない」


 こ、こいつ……。


 牢屋に連れて入れられたときに感じた、どこか覚えのある嫌な匂い。そして今感じる匂い。浅ましいほどまでに傲慢なその声。アザミの中で追憶とともに悔やみ、恨みの感情がふつふつと湧き上がってくる。


 そして、男が顔に巻かれた包帯を振りほどき、ぼんやりとした虚ろな明かりの下でほくそ笑んだとき、アザミのその記憶が確信へと変わった。


「お……、お前は……」

「殺すのは、この私……愛染の役目……」


 白くぎらりと光る刃が振り下ろされる。一筋の光が石壁をも切り裂かんと、稲光が落ちて石畳と鉢合わせ。火花とともに水面が跳ね上がり、金属音が薄暗い地下牢の中を反響する。何重も、何重も。


 身体に力が入らない。あの薬のせいか……。


 力が入らないだけではない。こわばった表情が、噛みしめた奥歯が、力を抜こうとしない。眼前の男に対する憎しみからだ。たとえ裸電球のさもしい光の中でさえ、その顔は、はっきりとひどく歪んで視界の中に描き出される。


「他人の人生に首を突っ込むのは、いい加減よしたらどうだ。また、命が減るだけさ。それは前の一件でわかったろう。それとも他に奉公し、その命を全うせんと……?」


「ふっ、愚人のくせに菩薩にでもなった気か? 存じておろう。己が無力さは……」

「この生糞坊主がぁあああっ! 蘭華をどこにやったぁあっ!」


 憎い。引きつった男の笑みが。

 憎い。救いたかった全てをかっさらって行ったその刃が。

 憎い。ただ憎い。ただ憎い……。


 鞘から刃を引き抜く。その首を討とうと。刃と刃がぶつかり合い、甲高い金属音と、鎬を削る鈍い音が木霊する。


「また、修羅に堕ちたか……。あなたのような、感情にほだされやすい愚人の時間を稼ぐなどたやすいこと」


「なっ……なんだと……、じゃあ蘭華を盾に取っていたのは……」


 視線を湿った床の上に落とすと、三度笠とサイコロがひとつ。アザミは己の愚かさに目を見開いた。


「黒い包帯の男など、いくらでもいるさ」


 なんと安い罠に引っかかったのだろう。


 自分たちを信じて、抵抗し、打開策を与えてくれた蘭華に、自分は示しのつかないしくじりを犯してしまった。落胆するアザミの背に、愛染の刃が迫る。心の隙をついてきたのだ。


「……っ!!」


 とっさに刀を構え、刃を受け止めようとした。間に合うか。いや、間に合わないか。


 間に合うと思っている刀を持つ手。

 間に合わないと思って目をつむらせる瞼。

 両者のはざまでかき乱される心は鼓動を止めて、それに感づいた脳が絶望を叫ぶ。


(……や、やられるっ……!)


 ガキィン。


 聞きなれた音だ。

 刀と刀がぶつかり合い火花を散らすときのあの音。時代劇だろうが普段の自警活動だろうが、よく耳にしてきた。自分の持つ刃からか。――いや、それにしては少し遠い。状況を確認するため、瞼を開く。


「何やってんだ?それでも籠女を守ってきた女伊達かよ」

「……だ、大…吾……?」


 愛染の刃を受け止めたのは大吾だった。そのまま自分の得物の軽く三倍はある刀身を力ずくで横倒しにし、受け流した後に生まれた一瞬の隙をついて、鳩尾を蹴り飛ばす。愛染の身体は、大きくのけ反り、宙に舞う。石畳の床の上に飛沫を立てて打ち付けられる。


「命拾いさせられたな……」

「感情的になりすぎなんだよ」


 窮地に助太刀してくれた大吾に、小さく頭を下げ礼をしたのち、床に転がった蘭華の三度笠とサイコロを拾い上げる。


「蘭華は……」

「おそらく、この先だ」


 大吾が見下ろす先には、さらに地下の深くへと下る階段が。こちらも相も変わらず頼りない裸電球の灯しかないが、その闇の深さは心なしか、より増して見える。


「……あの生糞坊主の目的は?」

「さあな、蘭華に関わっているのは、あの極道だけじゃないということは確かだ。おそらく、蘭華を連れ去ったのは……」


 さらに地下の奥深くに蘭華は連れていかれた。おそらく虎杖の部下の仕業ではない。おまけに、籠女でひと悶着起こしたあの生糞坊主までもがお出ましだ。奴は誰かの飼い犬だ。そして、その飼い主はこの階段の先で待ち構えている。自らの手下から蘭華を受け取り、生け捕りにしたうえで。


「どうする? ここに残り、あの生糞坊主を相手取るか? 左胸ぶち抜かれて生きてた男だ。鳩尾に食らわして死ぬはずがない」

「……あたしはここに残る」


 飼い犬か、飼い主か。どちらの首を取るのか選べと言う大吾に、アザミは即答する。どちらが手ごわいかは知れない。自分は仙丹に毒され、うまく戦えないかもしれない。だがそんなことは、アザミにとってはどうでもよかった。


「あの男の息の根を止めなければ、陽に……、陽の母親にしてやれなかった羽沼に申し訳ない」


 愛染には、以前の籠女での一件での恨みがある。自分が救おうとしていた遊女、羽沼とその息子、陽。ふたりの親子の仲を目の前で引き裂いた。愛染を、アザミは許せない。許すことなどできない。


「このご時世に仇討かよ。とんだ外れくじかも知れないぜ」

「外れくじはそっちだろ。飼い犬の飼い主を相手取るんだから」

「あいつはどう見ても土佐の闘犬レベルだろ。歯向かわれたらまず敵わねえよ」

「土佐犬の飼い主がボ〇・サップかもしれないだろ?」



「……、なあ? ボ〇・サップって土佐犬に勝てるかな?」

「知らねえわ! お前が勝手に言ったんだろうがっ!」


 アザミは一瞬頬を膨らませた後、拾い上げたサイコロを大吾に渡し、三度笠をかぶる。どちらも、蘭華が大切に持ち歩いていた、あるいは身に着けていたものだ。とくにサイコロは、自らの親子の間をつなぎとめる約束の品。


「……こいつが、どういうことか分るよな」

「ああ、これは三人、いや……四人の約束だ」


「必ず、生きて帰る……」


 ふたりは顔を見合わせ、互いに笑みをつくった後、互いに向き直り、行方を違った。それを待ち伏せしていたかのように、暗闇の中から愛染が躍り出る。


 やはり、鳩尾への一撃など大した外傷ではない模様。


「ご丁寧に待っていたの?」

「ああ、待っていたさ。対象がひとりのほうが、殺しはしやすいさ。お前も羽沼と同じく、安らかに黄泉に送ってやる……。それが私の説法に背いた愚人への礼儀だ」


「ひとり……? 笑わせるな」


 まだ身体から毒は抜けてくれず、震える手を奮わせて、刀の束を握りしめる。不敵に微笑んで見せるアザミ。


「見えないのか。この笠は、この刀は、この背中は……。約束を交わした者の魂が乗っている。あたしはひとりじゃないよ……」


 それを鏡に映したように、愛染がほくそ笑む。


「それが見えないというなら、わからないというなら……」


 アザミが引き抜いた刀身にその邪な笑みが映しだされる。


「あなたは、あたしに、傷ひとつ付けられやしないっ!」


 互いにほくそ笑みながら、見合わせる。構える。


 そして、刃は交わされた。




*****




 石造りの天井を這う裸電球の頼りない灯。

 そいつが照らす中、先頭にはカンテラを持った男。その後ろに両の脇を取り押さえられた体中傷だらけの極道の男が、後頭部に銃口を突き付けられた状態で連行させられている。虎杖だ。

 先ほどまでは、大吾、アザミ、蘭華の三人を連行していた彼が、今ではすっかり手も足も出ない状態にされている。銃を突き付けているのは長髪の男、羅漢。女物に袖を通し、女言葉を発するも、決してなよなよしているわけではない。むしろ、その中性的な出で立ちが、彼のねっとりとしていて掴みどころのない底の深さを強調させている。


「懐かしいわね。何年ぶりかしら、私の大事な飼い犬に会えるのは。あなたが逃がしてくれたのよねえ、あたしの可愛い飼い犬を」


 左手を頬に当てて、飼い犬呼ばわりするのは運ツキの仁兵衛のこと。羅漢が、彼の居場所を詰め寄るわけを、虎杖は知っていた。


 彼はまさしく、羅漢によって飼われていたのだ。


 賭場には客に紛れさせて、客から金を巻き上げるイカサマ師というものがいる。イカサマ師は名の通り、巧妙な手口でイカサマを仕掛け、自らが必ず勝つようにする。そうして、客を負かして客が積み立てた賭け金を取り返すとともに、さらに浅ましくも金を搾り取り、賭場に流し込んだ後その一部を自らの報酬としてもらう。

 だが所詮はイカサマ師。手口がばれてしまえば、客に紛れていたその身元も明るみに出てしまい、使いようのないただの卑怯者に成り下がってしまう。そうなればイカサマ師を雇っていた賭場の側にも、弊害が生じる。


「あの飼い犬は理想的だったわ……、本当に手放してから苦心していたのよ。飼っている間は、イカサマ師を育てるのを怠っていたからねえ。知ってるでしょ? 賭場は、客から金を巻き上げて流し込んでくれるイカサマ師がいないと成り立たないって」


「ああ……、でもあなたはそんなの大嫌いなんだっけ? 極道のくせに堅物ねえ……」


 だから羅漢は目を付けた。イカサマなどをしなくても、自らの驚異的な強運で勝ちを取る運ツキの仁兵衛に。仁兵衛は羅漢に飼い殺しにされ、ひたすら客から金を巻き上げる。そんななんとも卑怯な役回りをどうして、彼が受け入れたのか。


 イカサマをひどく嫌う。確かに、勝ちまくって調子に乗っていた傲慢な客を相手に博打勝負をすることはよくやっていた。それでも勝った金は、負けっぱなしの惨めな客や、貧しい人々に分け与えていた。そんな彼が、賭場に飼われて客から金をむしり取る卑劣な真似をするなど。いや、するしかなかったのだ。彼はそうせざるを得なかったのだ。虎杖はそれを知っていた。そのすべてを知っていた。


「羅漢様、例の童を連れてまいりました」


 羅漢直属の部下にあたる男が、少女を取り押さえて連れてきた。先ほどまで被っていた三度笠を捨てて乱れた髪が顔の右半分にかかっている。仁兵衛の娘、蘭華だ。敵わないと知りながらも、抵抗を続けているようで、奥歯をかみしめて肩を震わせているが、後ろ手を縄でくくられており、徒労に終わってしまっている。


「丁重に扱うのよ。人質がいないと、あの飼い犬は言うことを聞かないわ」


 だからこそそんな仁兵衛の姿を、虎杖は見ていられなかった。なんとか助け出したかった。本当は、家族と会って互いに家族として当たり前のように暮らしてほしかった。だが今は、まだ羅漢が生きているうちは、それが叶わない。


 蘭華を取り押さえる男が、虎杖の後ろについたところで、先頭の脚がはたりと止まる。その眼前にはひときわ広い牢屋があった。罪人をひとりで住まわすには、少し贅沢だが、そこにいる罪人はたったひとり。無精ひげを蓄えており、口元は見えにくいが、何か募る想いに奥歯をかみしめているようだ。


「そんな顔しないの……、久しぶりのご対面じゃないの」

「ら……羅漢……」


「また、あのときのように働いてもらうわよ、仁兵衛。ほうら、まだ人質は残っているんだから……。あなたの女房が過労で死んで、その娘が逃げてから困ってたのよ。あなたがここにいると分かっていたとしても、あなたを飼い殺しにできないから。でもこれで……条件は同じよ。あなたは私の賭場に金を入れるの」


「……そうしないと……」


 蘭華が牢屋の鉄格子の前に乱暴に突き出される。


「この娘の首がかっとぶわよ!」

「と、父さん……」


 男に喉元に刃を突き付けられながらも蘭華は、自らの父親を飼い殺しにしようと言うという羅漢に憎しみと憤りを抑えきれなかった。


「お……父さんに、お父さんに、そんなひどいことさせてたの!? あたしに逢えなかったのは、あたしが人質だったから? あたしを守るために、あんたに客から巻き上げた金を入れてたの!? 父さんは……お父さんは、そんな卑怯な博徒じゃない! だって…だって……父さんは……っ」


「あのとき、あたしを助けてくれたからっ! 卑怯なことは大嫌い。それが、あたしの、あたしのお父さんだからっ! だから……、もうそんなひどいことさせないでっ!」


「お黙りっ!」


 怒りのままに叫ぶ蘭華の頬を平手で打ち、突き飛ばす。後ろ手をくくられた身体では、そう簡単に起き上がれない。


「蘭華っ……!」


 芋虫のように這いつくばり、もがくその鳩尾に蹴りを入れて苦しみにあえぎながら、酸っぱい胃酸を吐き出して悶える姿をひたすら悪趣味な笑みであざ笑う羅漢。

 丁重に扱えと言ったのは、見せしめのために今まさにここで暴行を加えたかったからだ。


 そんな蘭華の姿を見せられて、何もできない自分。

 仁兵衛を羅漢のもとから逃がし、蘭華に会わせたかったが叶わなかった自分。

 羅漢から地上げされた土地を取り返したかった自分。

 この闇街をもとの仁兵衛とともに歩いた街に戻したかった自分。

 そして今、何もできずにいる自分。


 不甲斐ない自分を心の中で戒めながら、唇を噛むことしかできない。それもまた自分だ。虎杖の脳を自責の念が支配する中。それは聞こえた。



 カラン……。



 サイコロが転がる音だ。頭の中のずうっと奥の方。昔の記憶が転がっている追憶の中からその音は聞こえた。



***


「けっ、大の大人がサイコロ遊びしちょる」


 盆御座を敷いて、壺皿とサイコロを取り出せば賭け事が始まる合図。どこからともなく客が集まりだし、金を賭ける者だけではなく、一目勝負を見ようという輩や、野次を飛ばしてやろうという輩までもが集う。一見ごく普通の街だが、おもむろに誰かが盆御座を敷けば賭場に早変わり。街の華だと、大いに盛り上がる。もちろん皆が楽しみ、笑って勝ったり負けたりできる範囲で賭博は行われる。それがこの町の暗黙の掟だった。今は亡き、昔のこの街の姿だ。博打は大金を動かすが、そんな掟があっては、所詮は遊び事でしかない。


 金を使って、サイコロを転がして遊ぶ。そんな遊び事をするこの街の人間がどうもいけ好かなかった。金がなかった自分には。


「金を賭けてサイコロを転がす遊びに興じるたあ、身寄りのない俺に嫌味しちょるか」


 襲ってやろう。盆御座をひっくり返して皆の賭け金をふんだくってやろう。


 そのんな思いがふつふつと湧いてくる。いや、最初からそのつもりで路地裏から様子をうかがっていたのだ。そこらで拾ってきた鉄パイプを携えて、なんとも物騒な出で立ちだ。それが虎杖のかつての姿だった。


「行くで」


 一声つぶやいて、人だかりに向かって、奇襲を仕掛ける。群がる客もを無差別になぎ倒す。青あざを作って逃げ惑う人々に、いいザマだと唾を吐き捨てる。

 いよいよお目当ての賭け金を持ち寄った博徒どもだ。鉄パイプを振り上げたそのときに、足払いを何者かに喰らわされ、虎杖は地面に倒れこんでしまった。この好機を逃さんと、博徒どもが虎杖を取り押さえんとする。


(まずい……、しょっ引かれる)


 そう思ったのもつかの間、制止が入った。


「勘弁しておくんなせぇ、ガキのおいたくらい大目に見てやらんと、粋な博徒の集う街が笑っちまうでい」


 今ほど伸び放題ではないが、一本一本が立っていてざらざらとした髭を伸ばしている三度笠をかぶった股旅姿の男。鉄パイプで何人かを客のなぎ倒して、客を追い払い、あまつさえ博徒にまで襲い掛かろうとした虎杖の行為を、ガキのおいたと笑って見せる仁兵衛。

 ここで虎杖は勘付く。先ほど足払いを仕掛けたのはこの男だと。


「お、おまん、なんなんや。俺の邪魔した後に、庇うなんぞ。どっちの味方やっ」

「ガキよぉ、味方っつうのはてめーが道踏み外したときに、引っぱたいてくれるやつのこと言うんだよ」


「客を殴られて言いたいことがあるのはわかるが、見逃してやってくれぃ」


 さらに男は取り入って頭を下げる。

 どうやら博徒どもの間で顔が利く存在だったらしく、「そこまで言うのなら」と皆、その場を大人しく去って行った。虎杖と仁兵衛、ふたりだけがむしろの上に残された。

 すると男は懐から札束を取り出して、それを虎杖の前に投げ落とす。


「おらよ、そいつを受け取ったら、こんな真似は二度としないこったな。近頃じゃあこの界隈も取り締まり所が建って来てやがる。もうじき、地上げも始まって自由な博打はおさらばだ。まあ、おめーのようなガキが暴れるからってんのもあるんだろうがよ」


「……、こげえなもん受け取られへんわ。情けなんぞいらん」


「ゼロからてめーで稼いだ金で暮らしていくと?」


「……。……」


「そんな大それたこと言えた質じゃねえだろ。お前も、俺も……。所詮、博打と一緒。金を稼ぐには金が必要なんでぃ。だから、そいつは取っておきな。それからこいつも……」


そしてさらに、札束の隣にサイコロを転がす。先ほどまで壺皿の中で転がしていたものだ。


「……ガキ扱いするな。サイコロなんか……」

「遊ぶためじゃねえよ。ガキよぉ……。人生には、大博打打たなきゃなんねえ時が必ず来る。男ならなおさらでぃ。そういうときにそいつを持っていりゃ、ツキが回ってくるだろうさ。この運ツキの仁兵衛のサイコロなんだからよぉ」


***


 カラン……。


「仁兵衛、見ちょけ。これが人生三度目の大博打やぁ」


 虎杖の心の中で賽は投げられた。文字通り、大きな賭けに出たのだ。

 羅漢の視線が蘭華に、あるいは仁兵衛に注がれているこの一瞬にすべてを賭けて、まずは両の脇の男を、両の腕で延髄を打ち、確実に一手で気を失わせる。反抗に気づいた者の視線をよけるようにして屈みこみ、覆いかぶさろうとする男に足払い。

 そして、蘭華の肩を抱き替えて、その身体を己の身体でくるみ、くるりと前転して彼女に肩を貸す形になり、蘭華をとりもどそうとする男の間に一瞬の距離を置く。それが埋まる前に刀を引き抜き、蘭華の拘束をほどく。そして、男が振りかざした刃を刀身で受け止める。


「早く逃げい!」

「で、でもお父さんが……」


「逃げいと言うちょろうがっ! 必ず生きて連れて帰すけえ!」


 出まかせの約束かもしれない。それぐらい、この博打は勝率が薄い。

 蘭華は逃げ切れるだろうか。自分は羅漢を討ち取れるだろうか。この死地を掻い潜り、仁兵衛を連れ出せるだろうか。


 カラン……。


 懐の中でサイコロが転がるのを感じる。


『人生には、大博打打たなきゃなんねえ時が必ず来る。男ならなおさらでぃ。そういうときにそいつを持っていりゃ、ツキが回ってくるだろうさ。この運ツキの仁兵衛のサイコロなんだからよぉ』


 そう言われてから、肌身離さず持つようになったサイコロだ。どれだけ勝率が薄かろうが、一度投げてしまった賽は戻せやしない。ならば、信じるまでだ。自分のツキの回りを。


 自分に向かって突き立てられた刃を振り払い、男をのけ反らせる。だがもちろん、虎杖に刃を差し向けるはひとりではない。抜身の刀を持った男ども。それもかつて自分の部下として働いていた男どもに四方を取り囲まれ、まさに虎杖は四面楚歌といった状態。

 万事休すかとこの大博打に尻込みしていたもう一人の自分が呟いたそのとき、周りを囲んでいた男どもがばたり、ばたりと倒れる。この孤独な勝負によもや助太刀か。


「よう。水くせぇじゃねえか。こんな面白そうな大勝負、ひとりで楽しもうとはよ……」


「俺も入れさせてくれよ、なあ極道さん」


 倒れた男の背後から、その助太刀の主は現れた。護身用の短刀を片手に、不敵に微笑む屈強な体格の男。蘭華を助け出すため、この地下深くまで追いかけてきた大吾だ。


「お……、おまんは……」


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