秋刀魚の塩焼
その夜。青年はいつもの店にツレを呼び出した。
「お前からの誘いなんて珍しいな」
「今日はな、ついに借金を返そうと思って」
「良い心がけだ。だけど千円とか言うなよ。せめて一万円は返せよ」
完全に侮られてるな。今からこいつの驚く顔が楽しみだ。
「馬鹿言うな。耳を揃えての全額返済だ」
「は、お前、俺からいくら借りてるか分かってんのか」
「総額で四十五万円だろ」
「四十六万円だ。けど、だいたい合ってるな」
「四十六万円だったっけ。まあいい、四十六だな」
青年は封筒から札束を出し、一枚ずつ数えていく。
「おい、そんな大金どうしたんだよ。犯罪はまだいいって言ってなかったか」
四十六枚を数えてカウンターに置いた。
「ほい、四十六万円。犯罪なんて犯してないって。この前先輩から紹介してもらった仕事あったろ。あれ、リピートしてもらったんだよ」
「まさか、やっぱり性的な」
「断じて違う。指一本触れてない。まあ契約上、何をしてるかは言えないけどな」
「いや、えらい。これを機に、もう借金なんてするなよ」
「残りを使い切ったら考えるよ」
ツレが透かしを確認していると、本日のおすすめ、秋刀魚の塩焼が運ばれてきた。
「お、来たな。苦しゅうない、目通りを許す」
青年はふざけた口調で言う。
秋刀魚全体に軽く酢橘を絞る。パリッとした皮目に箸を入れると、ふっくらとした身が湯気を纏って現れる。ほぐした身に、醤油を垂らした大根おろしを乗せて一口。炭火の香りが鼻を抜ける。うまい。
「美味である。代わりを持て」
「目黒のさんまですね」
マスターがカウンター越しに相槌を打った。
産地の紹介ではないよな。
「目黒川って、秋刀魚が取れるんだっけ?」
青年が聞き返すと、ツレが呆れた顔をした。
「せっかくマスターが拾ってくれたのに。しょうもないボケで潰すなよ」
「この時期は、皆さん同じことを仰りますね」
「それにしても、こいつの口から落語の台詞が出てくるとは意外だったね」
笑い合うツレとマスターを、青年はぽかんと見つめた。
この二人は、一体何の話をしてるんだろう。
その日の会計は、自分の分をきっちり自分で払った。
それが当たり前だとツレに言われたが、気分が良いので聞き流すことにした。
――
店を出る。この頃の夜は冷えるようになってきたな。
家への帰り道。三叉路に差し掛かったところで、ふと青年の足が止まった。
あれ、どっちだっけ。
左右を見渡す。まるで初めて来た街のように感じられる。
数秒立ち尽くし、道路の先に見慣れた自販機を見つけて、ようやく方向感覚が戻ってきた。
そうだ、こっちだ。飲みすぎたかな。
安アパートへたどり着いた青年は、着替えもせずに布団へ倒れ込んで眠りについた。
翌朝。
青年は目を覚まし、ぼんやりと天井を見つめた。
え、ここどこ。
飛び起きるようにして身を起こし、周囲を見回す。
脱ぎ散らかされた服。日当たりの良い狭いワンルーム。
なんだ、自分の家じゃん。
いくらなんでも寝ぼけすぎだ。どれだけ飲んだ翌日でも、ここまで前後不覚になったことはない。
顔でも洗おうと、青年は洗面台へ向かった。
蛇口をひねり、冷たい水を顔に叩きつける。タオルで顔を拭い、顔を上げる。
そこで、青年の肩がビクッと跳ねた。
身動きが取れず、鏡から目を離せない。
いや、よく見ろ。これは自分の顔だ。
それなのに、一瞬、それが誰だか分からなかった。
疲れてんのかな、俺。
青年は硬直を解き、忘れていた呼吸を再開した。
――
あれから一ヶ月。百万円はとっくに使い切っていた。
あの後も何度か、自分が誰だか分からなくなるような感覚に襲われることはあった。だが、それも数日ほどで落ち着き、今ではすっかり何ともない。
あれが本当に記憶の入れ替わりによるものだったのか。それとも、百万円という大金を得たことによる精神的な負荷からくるものだったのか、今となっては分からない。
なんとなく、もうあの老人を訪ねるのは危険かもしれないと思っていた。だが日が経つにつれ、やっぱりあれはただの勘違いだったんじゃないかという気がしてくる。
そんなある日、スマートフォンに老人からの着信が入った。
「はい」
「やあ、元気にしていたかね」
電話口から聞こえる穏やかな声に、青年は少し緊張した。
「ええ。おかげさまで」
「また頼めないかと思うんだが、どうだろう」
「いや」
青年は言葉に詰まる。金は欲しいが、あの気味の悪い感覚をもう一度味わうのは、気乗りしない。
「どうしましょうかね」
「おや、悩んでいるのかね。とりあえず、来るだけ来てみたらどうだ。茶くらい出そう」
そう言われ、青年は結局、再びあの豪邸を訪れることになった。
いつもの応接室で、高級そうなカップで出された茶を一口すすり、青年は探るように切り出した。
「記憶の入れ替わりって、本当なんでしょうか」
「最初からそう言っているが、信じていなかったのかね」
老人は向かいのソファに深く腰掛け、目を細めた。
「まあ、さすがに荒唐無稽かなと。でも、この前帰ってから、少し違和感があったんです」
「いつもの道が知らない景色に見えたり、かね」
老人の言葉に、青年はハッとして聞き返した。
「そうです。なんで分かるんですか」
「当然だろう。私も同じだけ、記憶が入れ替わったんだからね」
「じゃあ、やっぱり記憶の入れ替わりは本当なんですね」
「ああ。まあそれでも、人間の脳というのは柔軟に出来ているようでね、日常生活の中で、失った記憶は前後の出来事から補完されるし、他人の記憶は自分の主観に溶けて消えていく。君も、もう何ともないだろう」
見透かしたような老人の問いに、青年はこくりと頷いた。
「はい。今はもう、違和感はなくなっています」
「だったら、問題ないだろう」
言われてみれば、確かにそうだ。
本当に記憶が入れ替わっていたとしても、これなら大丈夫かもしれない。
「じゃあ、また一時間だけ」
「それで十万円だけ貰ってどうする」
老人は、向かいのソファから身を乗り出し、青年に提案した。
「今度は三時間で、一千万円出そうじゃないか」
青年は絶句した。
「ただし、支払いは二百万円ずつ、五回に分けさせてもらう。毎週ここに取りに来てほしい」
一千万円あったら何ができる。
その前に、三時間でどれくらいの記憶が入れ替わる。
「考えさせてもらっても良いですか」
「もちろんだとも。今日は帰りたまえ。良い返事を期待しているよ」
老人は懐から一万円札を一枚取り出すと、足代だと言って青年に渡した。
その日の晩。
青年は三時間の入浴を受けさせてほしいと、老人に電話をかけていた。




