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鱈のフリット

「さむっ」

冷たい風に吹かれ、青年は身を縮めた。


あれ、今寝てたのか。

顔を上げて、ぼんやりと周囲を見渡す。どうやら、公園のベンチに座っているらしい。


どこだ、ここ。


慌てて立ち上がると、上着のポケットに違和感があった。手を突っ込むと、分厚い紙の感触がある。札束の入った封筒だ。

そうだ。三時間の入浴の後、二百万円を貰ったんだった。

だが、なぜこんな見知らぬ公園のベンチに座っていたのか、思い出せない。


不気味な空白を埋めようと記憶を探った。ダメだ、さっぱりわからない。

これ以上考えても無駄だとあっさり諦め、青年はスマートフォンを取り出すと、ツレを誘っていつもの居酒屋へ向かうことにした。


店に着いたが、ツレはまだ来ていなかった。


青年はカウンターに腰を下ろした。

「マスター、おすすめに書いてあるフリットってなに」

「イタリアの揚げ物で、天ぷらみたいなものです。今日は鱈のすり身と柿のフリットの盛り合わせでお出ししています」

「柿の天ぷらとは、珍しい。それを貰おう」


目の前には自分のボトルがあった。先日、先輩に入れてもらったラフロイグが気に入り、自分でもう一本キープしたものだ。だが、今日はなんだかそんな気分ではなかった。


「それと、麦をお湯割りで」


内側が湯気で曇ったグラスを眺めていると、揚げたてのフリットが運ばれてきた。


添えられているパウダー状の塩をひとつまみして、軽くまぶした。箸でつまんで、ひとくち齧る。サクッとした軽快な歯触りと、鱈のすり身のふんわりとした食感。上品な塩気が素材の旨味を引き出している。なるほど、確かに洋風の天ぷらだ。


麦のお湯割りで、油のなごりを洗い流す。

次に、柿のフリットだ。鱈とは対照的に、とろりと甘く、濃厚で滋味深い味わいだった。甘い天ぷらというのも悪くない。実に見事な仕事である。


青年が一人グラスを傾けていると、ようやくツレが入ってきた。


「あれ、お湯割りなんて飲んでるの。珍しいな」

「麦の気分だったんだよね。大人になったのかな」

「なんで大人になるとウィスキーが焼酎になるんだよ」

「なんでだろう。画数が多いからかな」


適当に返す青年に、ツレは上着を脱ぎながら続けた。


「まあでも、確かに外から見たとき、お爺さんが座ってるみたいに見えたな。お前、なんか一気に老けたか」


青年はグラスを持ったまま、ピタリと固まった。


「おい、どうした」


今の俺って、あの爺さんに侵食されてるのか。

「えっと、マスター、お会計して。ごめん、食べきれそうもないや」


青年は、呼び出しておいて悪かったとツレに詫び、店を後にした。


――


青年は、逃げるようにアパートへ帰宅した。


玄関で靴を脱ごうとして、ふと足を止めた。廊下がない。

なんで玄関だけで行き止まりになっているんだ。いや、違う。ここが俺の部屋だ。ワンルームなんだから、廊下なんてあるはずがない。


ダメだ、やっぱりおかしくなっている。今日はもう、寝てしまおう。


懐かしい家族旅行の夢を見ていた。まだ息子が小さかった頃の、日差しの眩しい海辺の夢だ。

違う。俺に息子なんていない。そもそも結婚だってまだだろ。

寝違えたわけでもないのに、体中の節々が痛い気がする。


時間を確認しようとスマートフォンを探したが、どこにもない。部屋中を探し回り、ようやく見つけた。


なんで、冷蔵庫の中に。くそ。あの爺さんの仕業か。


震える指で画面をタップしたが、ロック画面が開かない。

指先がいつもと違う動きをしようとする。何度やってもエラーになった。どうして自分のスマートフォンのパスワードが分からないんだ。


急激に湧き上がった苛立ちに任せ、青年はスマートフォンを思い切り投げつけた。

壁にぶつかって大きな音が鳴った。


え。そこには、ソファがあったはずじゃ。


青年は、足元に転がるヒビの入ったスマートフォンを、ただ呆然と見つめる。

ダメだ。頭がおかしくなりそうだ。


――


一週間後。


痩せこけ、目の落ちくぼんだ青年が部屋の中で立ち上がる。

部屋の様相は一変していた。壁にはいくつも穴が空き、洗面台の鏡は粉々に割れていた。


爺さんの家へ行くか。


今日は、二回目の分割金を受け取る約束の日だった。


「一週間ぶりだね。どうだった」

応接室に通されるなり、老人は余裕の笑みを浮かべて尋ねてきた。


「最悪でしたよ。二時間の時とは比べ物にならない経験をした」

「それは大変だったろう。さあ、今週分の二百万円だ。納めてくれたまえ」


テーブルに置かれた分厚い封筒を、青年は睨みつけた。

「五回の分割にしたのは、この期間中に、俺がまた金欲しさに入浴するって読みなんでしょう。悪いけど、それだけは絶対にない」

「おや。私の記憶を見たのかね」


老人が、挑発的な笑みをこぼした。

「だが、私もまた、君の記憶を持っていたことを忘れていないかね。断言しよう。君はまた、必ず入浴するだろう」


青年は封筒を掴むと、黙って老人の豪邸を後にした。


翌週。三回目の分割金を受け取るために、青年は再び老人を訪ねた。

記憶の混乱は、もうほとんどなくなっていた。正常な思考が戻るにつれて、三時間の入浴は同意の上だったのに、被害者面で悪態をついた先週の態度が恥ずかしくなってくる。


「だいぶ顔色が良くなったようだね」

「おかげさまで。記憶の違和感、もうほとんどなくなりました」

「それは良かった。さあ、今回の二百万円だ」

「ありがとうございます。その、先週は生意気な物言いですみませんでした」

「そんなこと気にしていないよ。君がどんな人間か、私はよく知っているからね」

「良かったです。また、来週伺います」


更に翌週。四度目の訪問。


「どうだね、そろそろ次の入浴の話でもしないかね」

「いや、申し訳ないですが、それは勘弁してください」

「まあいい。心変わりしたらいつでも言ってくれて良いからね」


そして五度目。最後の訪問の日。


「さあ、これで一千万円だ。差し支えなければ、何に使ったか教えてくれないか」

「まず、引っ越しました。部屋がボロボロだったんで。ちょっといい部屋借りちゃったんで、頑張って働かないとですね」

「資金が足りなくなったらいつでも頼りなさい」

「入浴でしょ。俺はもう懲りたので、他の人をあたってくださいよ」

「そうか。まあ、君の判断を尊重するよ」

「じゃあ、これっきりになると思いますが、お元気で」

「ああ、君もな」


屋敷を出て、青年は大きく息を吐き出した。


終わった。一千万円だぞ。すげえ。大金持ちだ。


メチャクチャにした部屋の退去費用に二百万円。新居への引っ越しで五十万円。壊れた家具の買い替えで五十万円。日々の飲み食いやギャンブルに百万円。手に入れた金のうち、すでに四百万円を使ってしまっていた。

それでも、まだ六百万円残っている。これでしばらくは遊んで暮らそう。


――


くそ。どうしてこんなことに。どこかで選択を誤ってしまった。


青年が呆然とたたずんでいたのは、競馬場だった。

六百万円まで減った残金を増やし、あわよくば一千万円まで戻そうとした結果、わずか数時間でさらに百万円を失ってしまっていた。


無一文だった頃の青年なら、手元にある五百万円でも狂喜乱舞していたはずだ。だが、一度は一千万円を手にした青年にとって、五百万円という数字は、すでに半分が消えた終わりの見えている金額だった。


このままではいけない。


そもそも、引っ越しや退去費用にかかった金を考えると、最初から一千万円を満額で自由にできたわけじゃない。

もう一度、三時間の入浴で一千万円を手にして、今度こそそれを大事に使えばいいんじゃないだろうか。


あの爺さんの思惑通りになるのは癪だが、背に腹は代えられない。

あと一回だけ。そう、次で最後だ。


青年は、もう二度と来ることはないと思っていた豪邸の前に来ていた。

既に見慣れた門の、インターホンを押す。


「はい」

短い応答。いつもの老人だった。

「あの、こんにちは」

「おや。もう支払いは終わったはずだが」

「いや、その」

青年が言葉に詰まると、スピーカーの向こうで老人がくつくつと笑った。

「冗談だよ。入ってきたまえ」

ガチャリと門の電子錠が開く音がした。


いつもの応接室で、青年は老人と向き合っていた。


「待っていたよ。思ったより早かったね」

すべてを見透かしたような老人の言葉に、青年は居心地の悪さを感じた。


「これで最後です。あと一回だけ、お願いします」

「いいだろう」


老人はあっさりと頷き、傍らに置いてあったアタッシュケースをテーブルに持ち上げた。ズン、と重々しい音を立てて置かれたそれを、青年は何事かと見つめる。


「ただし、今度は六時間だ。もちろん、報酬も破格の一億円を用意した。今度は分割なんてケチなことは言わない。終わったら、このまま持って帰ってもらって構わんよ」


老人がカチャリと留め金を外し、ケースを開いた。

「アタッシュケースはサービスしよう」


隙間なく敷き詰められた札束。一億円。フィクションでしか存在しないと思っていた大金を前に、青年の呼吸が荒くなる。


「ただし、入浴は今日、これからだ」


老人の言葉に、青年は顔を上げた。

「今日、今からですか」

「そうだ。受けるかね」


六時間。前回の倍だ。どれほどの記憶が奪われるのか、想像もつかない。


答えられずにいる青年に、老人が語りかけた。

「この前だって、結局は大丈夫だったじゃないか。そもそも、入れ替わるのは記憶だけで、肉体や脳は君のものだ。今度だって、一週間もすれば元通りになるかもしれないだろう」


そうだ。それに、もし一ヶ月狂ったままだとしても、その後の人生を考えれば些細なことじゃないか。


「残った金を節約して使おうと考えたんだろうが、君には無理だ」

逡巡する青年に、老人が確信に満ちた声で囁く。

「私には分かっている。君には、人生を根底から変えるような、圧倒的な額が必要だ」


老人の言う通りだった。節約など自分にできるはずがない。だが、目の前にあるのは一億円だ。一億円あれば、今度こそこのふざけた儀式を完全に終わりにできる。一世一代のチャンスだ。


青年はアタッシュケースから目を離さないまま、はっきりと答えた。


「やります」


――


老人の案内で広い廊下を進み、鍵のかかった扉を開け、地下へと続く階段を降りる。


コンクリートに囲まれた地下室。浴槽が二つと、その間に置かれたデジタルタイマー。もう見慣れた部屋だった。

違うのは、一億円の入ったアタッシュケースの存在。


いつも通り、湯船に身を沈めた。


一時間。


ここまでは、何の問題もないことは分かっている。


二時間。


計画がうまくいった、という思いがふいに湧き上がった。

これは、四回目の挑戦を受け入れてもらえたという俺の考えなのか。それとも、もしかして爺さんの思惑なのだろうか。


三時間。


ふと顔を上げると、目の前の湯舟に自分が浸かっていた。

いや、よく見ろ。あれは爺さんだ。

ここからは未知の領域だ。無駄かもしれないが、自分の意識を手放さないように、頭の中で自分の名前を連呼した。


四時間。


目の前の老人が、不思議そうにこちらを見ていた。

気づいてももう遅い。入れ替わりは不可逆なところまで進んでしまった。


五時間。


老人が騒ぎ出した。

「おい、騙したな」

「それは俺の体だ」

「くそっ、取れない」

「最初からこれが目的だったんだな」


見苦しい。

湯船の中で暴れる老人を、青年は冷ややかな目で見つめていた。見ているだけで、あちらの血圧が異常に上がっているのが分かった。


六時間。


「さあ、六時間経ったな。謝礼を貰おうか」


老人はもう、動いていなかった。

どうやら事切れているようだ。湯船であんなに興奮するからだ。気持ちが若返っていても、体は高齢なのだから。

だらりと沈んだ老人の足は、私が仕掛けた鎖で湯船の底に固定されていた。


青年はゆっくりと湯から上がり、服を着た。

そして、一億円の入ったアタッシュケースを手に取ると、振り返ることなく階段を登っていった。

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